第5話
紅月が灯織を呼ぶ。それと同時に、「紅月さん!」とどこからか女性の声がした。
「まぁまぁ! 奇遇ですわ! 紅月さんじゃありませんか!」
灯織は傾いた身体をなんとか持ち直し、顔を上げる。すると、見知らぬ女性が紅月に話しかけていた。
――わっ……きれいなひと……。
「あ……、雪野さん」
「まぁ~相変わらずハンサムだこと! なぁに? 今日はお買い物?」
「えぇ、まぁ」
「奇遇ね! 私もなの!」
「そうでしたか」
紅月は笑顔で女性に応対している。女性はとなりにいる灯織には目もくれず、頬を紅潮させて嬉しそうに紅月を見上げていた。どうやら知り合いのようだ。
紅月に雪野さん、と呼ばれたその女性は、濃茶色ストライプの袷の下に同じく濃茶色のロングワンピースを合わせた、たいしょうろまん、の格好をしていた。裾や袖から見えるフリルが可愛らしい。
灯織はじぶんを見た。
うぐいす色の雪輪柄袷に、無地の深緑色の帯。帯留めはない。
京都にいた頃はまわりも似たようなものだったし、なにも思わなかったけれど、こうしてみると灯織は、同年代の女性に比べてずいぶん地味な格好だ。
途端に紅月のとなりを歩くじぶんが場違いに思えてくる。
垢抜けている紅月のとなりには、やはり雪野のような華やかな女性のほうがお似合いだ。
灯織はふたりの邪魔をしないよう、そっと背後から紅月に囁く。
「……あの、紅月さん。私、先に帰りますね」
「えっ……灯織さん?」
紅月が振り向くより先に、灯織は足早に歩き出す。
「待って、灯織さん」
立ち去ろうとする灯織を、紅月が手を掴んで引き止めた。
「あら?」
紅月が灯織を引き止めると、雪野がひょこっと紅月の背後から顔を出す。
「まぁ。あなたまさか知り合いだった? ごめんなさい私、また紅月さんが女学生に言い寄られているのかと思って」
失礼なことしちゃったわね、と雪野が早口で言う。なるほど、だから雪野は紅月と灯織のあいだに割って入るようにしてきたのだ。
「それであなた、どちらさま?」
雪野が灯織を見る。
「あ、いえ……その、私は」
灯織は困って紅月を見上げた。紅月は灯織に大丈夫だよ、と言うように微笑むと、灯織の肩を優しく引き寄せた。
「雪野さん、彼女は俺の婚約者の灯織さんですよ」
「えっ!? な、なんですって!?」
雪野がぎゅん、と音がしそうなほど勢いよく灯織を見る。
「まあまあまあ! あなた、紅月さんの婚約者さまなの!? まあーっ!!」
雪野が灯織に駆け寄ってくる。すかさず手を握られた。
「それならそうと早く言ってくださいな! なによ私、勘違いしてしまったじゃない! 婚約者だなんて素敵ね! まああなた、よく見たらとても美人じゃない!」
雪野は紅月と灯織の顔を交互に見つめ、ひとりで話している。雪野の声は、まるで小鳥のさえずりのように華やかでよく通る。
紅月が灯織を見る。
「灯織さん、彼女は本堂雪野さん」
紅月に紹介された雪野はようやく口を閉じ、ぺこりとお行儀よく頭を下げた。
「よろしくどうぞ」
「よ、よろしくお願いします……って、え、本堂?」
紅月と同じ苗字だ。驚く灯織に、紅月が付け足す。
「俺と雪野さんは従姉妹同士なんだよ」
「紅月さんとは、こーんなに小さな頃からいっしょに遊んでましたのよ!」
雪野はこーんな、と言いながら、手のひらを地面に平行にして、当時の身長を表現する。ずいぶんお茶目なひとだ。紅月にはあまり似ていない。
「そ、そうだったんですね」
「そうだよ。だから誤解しないで。俺と雪野さんは兄妹のようなものだから」
紅月がにこやかに灯織に言う。どきりとした。灯織は黙ったまま、こくこくと頷く。
「ねえ、灯織さんっ!」
ふたりの世界に入りかけたとき、雪野が灯織の手を掴んだ。
「さっきはごめんなさいね! 私ったら、紅月さんの奥さまを追い払おうとしていたなんて最低な女だった! 謝るわ、ごめんなさい!」
灯織は慌てて、とんでもない、と首を振る。
大切に思ってはいても、雪野はどうやら紅月に特別な感情を抱いているというわけではなさそうだ。
――よかった……。
ちょっとほっとしているじぶんがいることに気付き、あれ、と思う。
「ねえ灯織さん! あ、灯織さんって呼んでもいいかしら? 私のことは雪野さんと呼んでくださいな!」
「は、はいっ?」
「ねえ、呼んでみて!」
「ゆ、雪野さん……?」
「そう! 私、雪野! ねえ私たち、お友だちになりましょ!?」
「え……」
「これからよろしくね、灯織さん!」
「は、はい……」
灯織の胸のなかに、あたたかい陽が差したようだった。こんなふうにあたたかな気持ちになるのはいつぶりだろう。
考えなくても明らかだった。
灯織がいた、あの頃の景色が、匂いが、胸の高鳴りがよみがえる。
涙が出そうになり、灯織はぐっと奥歯を噛んだ。
「ふたりはこれからどちらにお出かけ?」
「ああ……うん、ちょっと呉服を見に行こうかと」
灯織の代わりに紅月が答える。
「あら、それはいいわね! 灯織さんせっかく可愛いのに、なんだかちょっと野暮ったいもの!」
気持ちいいくらいにばっさりと言われた。灯織は苦笑する。
「さてと、灯織さん。お話はまたあとで。お茶でもしながらゆっくりとね! あ、もちろんふたりでよ? 紅月さんがいると噂話ができないから」
「え、あ……」
そうなのか。
ちらっと紅月を見ると、紅月は困ったように笑って肩を竦めている。
「あらやだ。もちろんこれは悪口ではなくってよ? ただ、女には女にしか分からない苦労とかいろいろあるものなの。ねえ、灯織さん?」
雪野は茶目っ気たっぷりに耳打ちしてくる。ここは頷くべきなのだろうか。戸惑っていると、紅月が灯織の手を掴んだ。
「雪野さん。灯織さんと仲良くしてくれるのはありがたいですが、俺の悪口を言うのだけはやめてくださいよ」
「まあ」
雪野は口元を押さえて、きらきらと目を輝かせた。
「まあまあ、紅月さんったら! 本当に灯織さんのことが好きなのね! やだ、羨ましい!」
雪野は、灯織と紅月をそっちのけで盛り上がっている。
紅月の様子をうかがうと、紅月も困った顔をしてこちらを見ていた。
「さて、そろそろ本当に行かなきゃだわ。じゃあまたね、ごきげんよう!」
「ご、ごきげんよう……」
ひととおり話して満足したのか、雪野は笑顔で挨拶をすると、あっという間に人混みのなかに消えていった。
「……ごめんね、いきなり驚いたでしょう?」
呆然と立っていると、紅月が振り向いた。
「い、いえ! 雪野さん、素敵なかたでしたね」
「雪野さんはね……黙っていればとても映えるひとなんだけど、喋るとあの調子だから、なかなか縁談が決まらないんだ」
「そうなんですか……」
さっぱりとして明るい上に美人だし、灯織なんかよりよほど男性に好かれそうな気がするが。けれどたしかに紅月の言うとおり、おしゃべりな性格が幸いしてか、外見に見惚れる暇はなかったかもしれない。だが、それもまた、彼女の魅力のひとつのように灯織は思った。
「彼女、灯織さんのことをとても気に入ったみたいだ」
雪野が歩いていった方向を見つめながら、紅月が言った。
「そのうち、お茶会の誘いでも来るんじゃないかな」
「お、お茶会……」
緊張し始める灯織を見て、紅月は笑いながら再び歩き出すのだった。