第3話
その日の夜のことだった。
夕食を終えた紅月が、灯織に風呂を勧めた。
「お風呂……ですか」
灯織は目を泳がせる。
「あの……私、お風呂は最後で大丈夫です」
灯織はびくびくしながらも意志を告げる。すると、紅月は怪訝そうに首を傾げながらも、そう、とそれ以上強く言うことはなかった。
紅月はそのまま居間を出ていく。先に入るのだろう。
紅月の姿がなくなると、灯織は肺に溜め込んでいた空気をどっと吐き出した。
灯織がいちばん憂いていたのは、これだった。
灯織は、体質上水に触れることができない。もちろん、手洗いや洗濯など少量の水に触れる程度なら問題ない。だが、全身が濡れるほどの水に触れたら最後、灯織は本来の姿に戻ってしまう。
もし、なにも知らない紅月に本来の姿を見られてしまったら。
婚約はもちろん破棄されるだろうが、なにより人間を騙したとしてあやかし庁に通報されるだろう。しかも華族の次期当主を騙したとなれば、重罪だ。
確実に幽世に強制送還されてしまう。灯織はもともと現世のしかも神域出身。幽世に居場所などない。
いや、居場所どころの話ではないかもしれない。
罰はおそらく、灯織だけでなく千家家の家族にも及ぶ。そしてあやかし庁の捜査が進めば、確実に一華のほうの家族にも手が伸びるだろう。
――もし、そうなれば。
一華が灯織と入れ替わったことが露見する。
そんなことになれば、灯織は間違いなく殺されるだろう。
「……はぁ」
灯織はため息をつく。
この心労は、これから毎日続く。そう考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。
千家家にいるときは、扱いは女中以下だったけれど、あやかしということは周知の事実だったため、こういった心労はなかったのだ。
「……なんて」
――こんなときまで私は、じぶんの心配ばっかり……。
いやになる。そもそもこうなった原因はじぶんにあるのに。
その後、お風呂を済ませた灯織は実家から持ってきた藤柄の浴衣に着替えると、脱衣所を出た。
灯織はそのまま寝室には戻らず、庭に出る。
秋の夜空には、虫の声が涼やかに響いている。それ以外にはなんの音もしない。
――不思議。
来たときにも思ったが、本堂邸にはあやかしがいないのだ。気配すらない。
灯織は池のそばに寄ると、じっと水面を見た。池のなかには、数匹の美しい金魚がいた。長い鰭を優雅になびかせ、悠々と泳いでいる。この池の金魚たちは、灯織を見ても逃げようとしない。
むしろ鰭をなびかせて、灯織のそばに集まってくる。
「……気持ちいい?」
灯織はそっと金魚たちに話しかけた。
「いいなぁ。私も混ざりたい」
彼らはあやかしではない。だから、灯織の声は届かない。
でも、だから話しかけられた。
あやかしとしての名前を奪われた灯織は、今やあやかしたちのなかでは蔑むべきもの、虐げるべきものとして認識されている。本来の姿に戻ったが最後、灯織はおそらく、現世にいるすべてのあやかしから攻撃を受けることになるだろう。
灯織はあの事件以来、家族に捨てられ、千家家には虐げられ、ずっと孤独に生きてきた。
――ここに、灯織がいてくれたらな……。
そう、心のなかで思う。だけど、それを口にすることはぜったいに許されない。
灯織は、もう会うことのできない親友への想いを、言葉ではなく涙に変えて零した。
しばらく池をぼんやりと眺めていると、灯織の横をひんやりとした静かな風が抜けていく。
水面が揺らめき、そこに写っていた月が消えた。金魚たちが離れていく。
え、と思っていると、背後で砂利を踏み締める音がした。
「こんなところにいたのか」
灯織が振り返ると、池の向こう側に浴衣姿の紅月が立っていた。
「紅月さん」
灯織は慌てて濡れた頬を拭いながら、立ち上がる。紅月は灯織に優しく微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「灯織さんは、金魚が好きなのか?」
紅月が訊ねる。
「え?」
灯織は首を傾げた。
「昼間もここにいたから」
あぁ、と思う。
「……いえ。ただ……水を見ていると落ち着くので」
不思議なものだ。水のなかにいた頃は、水面の波紋や金魚の泳ぐ姿に心が動いたことなんて一度たりともなかった。それどころか、ひとの姿になることのほうがわくわくしたくらいなのに。
「寒くない?」
となりにやってきた紅月は、自身が羽織っていた羽織りを灯織の肩へかけた。
「え……あ、ありがとうございます……」
夜中に外に出るなんてはしたない、と怒られるかと思ったが、紅月に不機嫌な様子は見られない。
紅月は灯織のとなりに立つと、空を見上げた。
「金魚もいいが、今日は月がきれいだな」
言われて灯織は空を見上げた。
漆黒の闇のなかに、黄金色に輝く三日月があった。
「本当だ……」
小さく感嘆する灯織を見て、紅月が微笑む。
「さて、そろそろ戻ろう。せっかく風呂に入ったのに、身体が冷えてしまうから」
「…………」
紅月に促されるが、灯織はその場から動くことができない。
このあとのことを想像すると、どうしても。
正体が露見することも怖いが、それと同じくらい、知り合ったばかりの紅月に求められることにも抵抗があった。
――もし、今。同じ寝室に行くのが怖い、と本音を言ったら、紅月はどんな反応をするのだろう。
紅月が振り向いた。
「……灯織さん?」
「……あ、その……すみません」
なんと言えばいいのか分からず、灯織はただ謝り、羽織りを強く握った。既に数歩歩き出していた紅月が、ゆっくりと戻ってくる。
「……君はすぐに謝るんだな」
そばへ戻ってきた紅月が呟く。
おずおずと顔を上げると、紅月と目が合った。
月明かりに照らされた紅月の顔は、微笑んでいるのにどこか寂しげに見える。
「灯織さん。俺たちはまだ夫婦じゃない。だから、寝室はべつだよ」
「……え、そ、そう……なのですか?」
反射的に反応してから、ハッとする。紅月が苦笑した。
「……やっぱり、心配していたのはそこか」
灯織は俯く。
「……す、すみません」
「べつに君が謝ることじゃない。俺たちはまだ正式な夫婦になったわけではないし、もとより俺もそんなつもりはなかったから」
ほっとした。
「そうだ。この際だから取り決めでも作ろうか」
「取り決めですか?」
「この一ヶ月間、俺たちは夫婦のまねごとをするわけだけど、まだ夫婦じゃないから。お互い仲良く過ごせるよう、ある程度の線を引くんだ」
「それは……」
きょとんと目を瞬かせる灯織に、紅月が補足する。
「たとえば、朝と夜はなるべくいっしょに食事をする、とか」
なるほど、とほっとした顔をした灯織に、紅月が微笑む。
そうしてふたりは池の縁に並んでしゃがみこみ、これからの一ヶ月間の取り決めを交わした。
一、寝室、風呂はべつべつに。
一、朝と夜はいっしょに過ごす。
一、紅月の仕事場には来ないこと。
「あとは、そうだな……一日一回口付けを交わす、とか」
ある程度決めごとが定まったあと、紅月が不意に爆弾を投下した。
それまで和やかだった空気が、一瞬にして霧散する。言葉を失った灯織を見て、紅月がぷっと吹き出した。少し残念そうに。
「やっぱりそれはだめか」
「あ……いや、あのだめではないんですけど……その、ちょっと早いような」
わたわたし始める灯織に、紅月はさらに迫る。
「じゃあ、一日一度、抱き合うというのならいい?」
「だ……抱き合う……!?」
灯織の顔は、月明かりのなかでもそうと分かるほど、真っ赤になっていた。
「もちろん、それ以上のことはしない。だけど少しくらい、夫婦らしいこともしたい。……だめか?」
まっすぐな眼差しで言われてしまい、灯織は困惑した。しかし、紅月はかなり灯織を気遣ってくれている。これ以上わがままを言うのは申し訳ない。
「……わ、分かりました」
びくびくしながら頷くと、承知されると思わなかったのか、紅月が驚いた顔を灯織に向ける。
「えっ、いいの?」
「だ、抱き合う、だけ……なら」
どちらにせよ灯織は経験がないが、口付けよりは気が楽な気がする。たぶん。
紅月は少しの間黙り込んだあと、ふっと俯いた。
どうしたのだろう、と灯織が様子をうかがっていると、紅月が呆然としていることに気付いた。
「紅月さん……?」
「……いや、ごめん。まさかいいって言われると思わなくて」
もしかして、冗談のつもりだったのだろうか。真面目に反応してしまったことに恥ずかしさがじわじわと込み上げてくる。
「す、すみません、私その……い、今のはやっぱりなしで」
言いかける灯織の手を、紅月が掴んだ。息を呑む。
「だめだよ。なしはなし」
「で、でも……」
紅月の眼差しに、もう逃げられない、と灯織は悟る。
「……はい」
紅月は灯織が頷くと、その手を掴んだまま立ち上がる。合わせるように、灯織も立った。
手を引かれ、距離が縮まる。紅月が優しく灯織の背中に手を回すと、灯織の頬が紅月の胸板にぴたりとくっついた。合わさった肌からは、どきどきというどちらのものか分からない心臓の音が聴こえてくるようだった。