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第2話


 灯織はトランクケースを握る手に力を込めて、目の前の障子に向かって声をかけた。


「あの、お母さん、失礼します」


 少しして障子が開く。

「……あら、灯織さん」


 顔を出したのは、灯織の母親であるちづるだ。


 ちづるは背後をちらりと見て、周囲にだれもいないことを確認する。

 おそらく、夫の玄真(げんしん)がいないことを確認したのだ。ちづるはあからさまに娘の灯織をやっかむが、玄真はそういう態度をよしとしない。だからといって、灯織をかばうわけではないが。


「行くの?」

「はい」

「そう。元気でね」

「……はい」

 灯織はぺこりと一度頭を下げて、一歩下がった。そのまま出ていくつもりだった。


 ――しかし、

「待ちなさい、灯織さん」

 振り返ると、ちづるが立ち上がって灯織の前に立つ。

「念のため言っておきますけど、あなたに帰る家はありませんからね」


 心臓を見えないなにかに握り潰されたように、灯織は息ができなくなった。


「でも、花嫁修行は一ヶ月って……」

「そうよ。でも花嫁修行というのは、嫁に行く前提でするものでしょう? あなたは一ヶ月後、本堂家の花嫁になるのだから、うちに戻ることない。そのつもりでこちらも養子を探してますから」

「養子ですか」

「もともと本堂家にはうちを任せる養子にいいかたがいないか、探してもらうよう頼んでいたんですよ」


 灯織は驚く。それは初耳だった。


 ちづるは、あらなに驚いてるの、とでも言うような顔で灯織を見た。


「当たり前でしょう? だって、千家灯織は千家家のひとり娘なのよ。あなたが嫁いだら、うちの後継ぎがいなくなっちゃうじゃない」

「それは、そうですが……」


 まるで蛇のような威圧的なちづるの眼差しの前で、灯織は立ちすくむ。


 ……でも、結婚をやめたいと伝えるなら、今しかないかもしれない。勇気を振り絞り、灯織は言った。

「あの、お母さん。私、やっぱり紅月さんとの結婚は……」


 できません、と言おうとした瞬間だった。


 パン、と高い音がした。一瞬なんの音か分からず、灯織は呆然とする。しばらくして頬がじわりと熱を持ち、痺れ始めた。

 打たれたのだ。そろそろと顔を上げると、ちづるは鬼のような形相で灯織を見下ろしていた。

「なに馬鹿なこと言ってるの? あなた、じぶんに拒否権があるとでも思ってるわけ? ひと殺しのあなたなんかに」


 ――ひと殺し。


 ちづるの言葉は、灯織の胸に重く深く落ちた。


「で、ですが……もし、私の正体が露見してしまったら、千家家が……」


 震える声で言い返すが、ちづるはそれを鼻で笑い飛ばした。


「露見しなけりゃいいだけの話でしょう。失敗は許さない。もし万が一、うちになにか損害が被るようなことがあったら、あなただけでなく、あなたの家族もすべてあやかし庁へ報告しますから。そのつもりでね」

「…………」

 なによその顔は、と、ちづるが灯織を睨む。

「あなたは私の娘を殺したのよ? その罪を忘れたとは言わせませんからね」


 胸に茨の棘が刺さったような、ちくちくとした痛みが走る。呼吸が苦しくなっていく。


「あなたの名前は千家灯織。いいえ、今この屋敷の敷居を出た瞬間から本堂灯織なの。何度も言わせないでちょうだい」


 それじゃあ元気でね。そう言い捨てると、ちづるは灯織の横をすり抜けていく。

 ちづるのそれは、まるで女中に向けられたような台詞であったが、灯織は返事をするしかなかった。


「……はい、お母さん」


 灯織はちづるのうしろ姿をその場で立ち尽くしたまま、ただ見送った。


 灯織には、千家家の人間以外にぜったいに知られてはいけない秘密がある。知られたら、それこそこの婚姻が破談になるだけでは済まされない。


 灯織は、千家家のひとり娘でありながらも、女中同然の扱いを受けていた。



 ***



 灯織は家を出る前に、千家家が管理する千本通(せんぼんどおり)神社の庭園に向かった。


 庭には秋特有の少し乾燥した花が咲いている。花々は少々色褪せていて物悲しいが、その代わりに葉が鮮やかな装いになっていた。時折吹く風がひんやりとして心地良い。


 灯織は、幼い頃から暇さえあればここに来ていた。


 庭園に植えられた椿の木へそっと寄ると、葉を二枚、優しくちぎる。葉を手に持ったまま、境内の池へと向かった。


 神社には池がある。

 灯織は池のふちに座ると、そっと椿の葉を一枚供えた。池のなかにいた魚たちは灯織に気付くと一斉に四方に散らばるように逃げていく。


「……おはよう、灯織。あのね、私、とうとう紅月さんのところへ行くことになったよ」


 灯織は、池に話しかけるように呟く。

 池の空気はひんやりとしていた。


「……いつもこんなものしかあげられなくて、ごめんね」

 言いながら、灯織は小脇に供えた椿の葉を見た。

 本当はもっとちゃんとした花束を供えてやりたいが、灯織には、自由になるお金はない。それどころか、庭の花を詰んだだけでも大目玉を食らうだろう。

 そのため、供えたことすら気付かれないよう、椿の葉を添えてやることしかできないのである。


 ――そう。


 この池には、千家家の本物の令嬢である灯織が眠っているのだった。



 ***



 灯織――本来の名を一華(いちか)という――は、現在十五歳になるが、千家家のひとり娘でありながら、ひどく冷遇されている。

 理由は、灯織が灯織ではなく身代わりの娘であるからだ。


 灯織の身代わりとなった一華はもともと、千家家が管理する神社の眷属(けんぞく)であった。


 人魚族から派生した金魚のあやかしだ。神域に住んでいることもあり、強い妖力を持つ一華たち金魚の一族は、自在に姿を変えることができた。


 一方で、神職を生業とする千家家のひとり娘であった灯織。

 灯織はその特別な生まれから、幼い頃からあやかしを認知することができたため、一華とは姉妹のように育ち、お互いにかけがえのない存在だった。


 ――しかしあるとき、その悲劇は起きた。


 隠れ鬼をしていた灯織が、池に落下したのである。灯織はそのまま池のなかで溺れ、帰らぬひととなった。


 池へ落ちた灯織に一華が気付き、助けたときにはもう、灯織は息をしていなかった。


 灯織は、泳ぐことができなかったのだ。いや、たとえ泳げたとしても、水を吸った着物を着た状態では、どちらにせよ手遅れとなったかもしれないが。


 その後ひとり娘を失った千家家は、眷属である一華を人間殺しだとして重い罰を与えることにした。


 一華から、名前を取り上げたのだ。


 あやかしにとって、名前は魂である。名前を奪われることは、そのあやかしの価値を奪うことと同義であった。


 一方で灯織は、由緒ある華族のひとり娘であり、古来よりあやかしとひととの関係を繋いできた神職の家系に生まれた大切な子ども。既に決められた許嫁もいる。


 千家家にとって、灯織が死ぬことは許されなかった。


 そして一族は、一華が名前を奪われたことがほかのあやかしたちへ露見することを恐れた。もしあやかしたちへ知られたら、じぶんたちまで蔑まれる。一族の名が汚れる。一歩間違えば、一族もろとも幽世へ強制送還となる可能性すらある。


 一華の祖父は決断した。


 一族から、一華を勘当する。さらに灯織を殺した贖罪(しょくざい)として、一華を千家家へ差し出すと――。


 もともと一華は一族のなかでも妖力が弱く、強い妖力を持つ兄と比較され、常に冷遇されてきた。一族にとっては、一華の兄さえいればなんの問題もなかったのだ。


 結果一華は名前を奪われ、一族から勘当された。

 そして、ひと知れず千家灯織の身代わりとなったのである。

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