最終話
辺りが暗く静まり返る頃、灯織はひっそりと濠から出た。
陸に上がった灯織の姿は、いつもと違って異国風の姿をしている。
金色の髪に、赤い瞳。かろうじてひとの姿をしているものの、この姿をだれも千家灯織だとは思わないだろう。しかし、今はこの姿でいるしかなかった。池に落ちた子どもの体温を保つために、妖力を使い果たしてしまっていたのだ。
とりあえず人気のない場所へ移動しよう。妖力の回復はそれからだ。灯織は周囲にひとがいないことを確認しながら、おそるおそる桔梗門の前を通り過ぎる。そのときだった。
「灯織さん」
呼び止められ、はっとして足を止める。門の影に、紅月が立っていた。
「よかった、無事で」
紅月が灯織のもとへ駆け寄ってくる。灯織は着物の袖で顔を隠し、後退った。
やがてそばへ来た紅月が、灯織の姿を見て息を呑んだ。その反応に、灯織は目を伏せる。
「やっぱり君は……」
紅月に正体を知られてしまった。なんと言われるのだろう。恐れから固く目を瞑る。すると、
「一華さんだったんだね」と、紅月が言った。
灯織は目を見張る。
「……どうして、その名を」
驚いた灯織を見て、紅月は苦笑した。
「やっぱり覚えていなかったか」
俺たち一度神社で会ってるんだよ、と言われ、灯織は記憶を辿る。しかし、幼い頃の記憶は灯織を失った絶望のせいか、曖昧だった。
紅月はそれ以上は追求せず、代わりにべつの問いを投げかけた。
「どうして灯織さんのふりをしてたんだ?」
問われた灯織はやはり黙り込む。それを見て、紅月が言った。
「君がご家族と上手くいっていなかったことは知ってる。それは、一華さんが灯織さんのふりをしていることと関係があるのか?」
灯織は観念したようにこくりと頷き、話し出した。
「私は、千家家に代々仕える人魚一族に生まれました。同年代だった灯織さまとは仲良くしていて……ちょうど十年ほど前のことです。灯織さまといっしょに遊んでいたとき、彼女は事故で……その責任を取って、私は千家家から名前を奪われ、一族に勘当されました。それ以来、灯織さまの身代わりとして生きてきたんです」
「千家家が人魚を喰らったという噂の元はそれか」
灯織の告白に、紅月はため息をつく。
「騙していてごめんなさい」
頭を下げようとする灯織の手を、紅月が掴む。驚いて顔を上げると、紅月はどこか後悔の滲んだ表情で灯織を見ていた。
「君が謝る必要はない。そんなことより、ずっとひとりで秘密を抱えて……辛かっただろう」
紅月は沈んだ声で言い、灯織を抱き寄せた。優しい抱擁に、灯織は込み上げてくるものをこらえるようにぎゅっと唇を噛み締める。
紅月の優しさに、胸が苦しくなる。どうしてこんなにも、紅月は優しいのだろう。
涙をこらえていると、
「君に、ずっと隠していたことがある。俺の話を聞いてくれるかな」
と今度は紅月が切り出した。
灯織が頷くと、紅月は静かに話し出す。
「本堂家の人間は、周囲の生気を奪う力を持っているんだ。生気というのは生きる力だ。分かるか?」
前向きな思考だったり、寿命そのものだったり。そういうものを食べて俺の家は繁栄してきた。そう、紅月は言う。
「でも、ひとを不幸にして得た繁栄なんて偽物だ。そう思って、俺は一族を否定し続けてきた。だが……生気を吸わなければ生きていられないことも事実で」
紅月は苦悶の表情を浮かべている。
「本堂家にとっての花嫁は贄であって、愛すべきひとではなかった」
紅月はずっと、この葛藤を抱えていたのだろう。
「俺がお試し同棲を提案したのは、灯織さんを気遣ってのことじゃない。本当は灯織さんを贄にするか悩んでいたからなんだ」
紅月は俯いた。
「お試し期間とはいえ、いっしょに住めばひととなりは分かる。君が本堂家の財産や肩書き目当てのようなひとなら、贄にしてもかまわないと思っていた。だけど――」
君はそうじゃなかった。まっすぐで優しくて、いつの間にか本気で好きになっていた、と紅月は呟く。
「だから、君とは夫婦になれないと思ったんだ。君の命を奪うことはできないと」
雪野の言うとおり、紅月は灯織を大切に思って手放したのだ。それだけで、心が救われるようだった。
そして気付いた。
紅月の優しさの裏になにがあるのか。罪悪感だ。ひとびとの命を奪ってしまう運命を背負っているからこそ、紅月は優しいひとになった。ならざるを得なかったのだ。それはなんて悲しいことなのだろう。
「……私、紅月さんを知ってほっとしたんです」
紅月がけげんそうに灯織を見る。
「ここへ来るまで、本当は恐ろしくてたまらなかった。嫁ぐ相手が残忍なひとだったらって」
灯織は紅月のケープの裾を握る。
あやかしだと知られたら殺されてしまうかもしれない。そう思うと、恐ろしくてたまらなかった。でも、紅月は灯織を大切にしてくれた。
「紅月さんはじぶんを搾取する側なのだと思っているかもしれないけれど、そんなことないです。私は、紅月さんに出会って生きたいと思えました。同じように紅月さんに救われたひと、きっとたくさんいると思います」
灯織は紅月の背中に手を回す。紅月はわずかに身を硬くしたが、すぐに灯織を抱き締め返した。
ぬくもりが伝わる。同じように、じぶんのぬくもりも紅月に伝わってほしくて、灯織は抱き締める手に力を込めた。
紅月の存在に救われたひともいるのだと、知ってほしかった。
「それに、そういうことなら私は花嫁に適任なんじゃないでしょうか」
紅月は、特殊とはいえ人間だ。人間に純血のあやかしがやられることはない。つまり、紅月の体質は灯織には効かない。
紅月は困った顔をした。
「でも、俺は一度君を……」
「私は紅月さんがいいんです。紅月さんじゃなきゃいやです」
灯織は雪野から、真に生きるとはどういうことかを学んだ。もう退きたくない。紅月が灯織に希望をくれたように、灯織も紅月に命を与えたい。
灯織は懇願するように押し黙る紅月を見つめる。
「……だめですか?」
紅月は静かに首を振ると、
「……本当にいいのか? 今逃げなければ、俺は二度と君を離さないよ」
灯織は頷く。
「それに、寝室もいっしょだよ?」
少しいたずらな顔をして、紅月が灯織に囁いた。甘い言葉に灯織はわずかにたじろぐも、しかしすぐに紅月に向き直る。
「の、望むところです」
紅月は小さく笑うと、灯織を軽々と抱き上げる。灯織は慌てて紅月にしがみついた。紅月は灯織を見下ろすと、優しく問いかけた。
「一華。俺の花嫁になってくれますか?」
紅月に本当の名前を呼ばれ、泣きそうになりながらも灯織は「はい」と笑顔で頷くのだった。