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第1話


 ――ときは大正。


 鎖国を解き、外国からの文化が目まぐるしく流入し始めた現世日本では、幽世の門をくぐり抜けてやってきたあやかしたちが、ひと知れず生活のなかに溶け込んでいた。


 大半のあやかしはひと好きで、ひとびとを慕い、穏やかに共生していたが、ときにひとびとの生活を脅かす邪悪なあやかしもいた。


 そのためときの政府はあやかし庁という官庁を作り、日々、邪悪なあやかしを取り締まるようになっていた。



 ***



「――ごめんください」


 秋晴れの陽射しが気持ちのいい朝、名家である本堂(ほんどう)家の邸宅に、ひとりの少女がやってきた。


 しっとりとなめらかな肌に、小さな顔。長いまつ毛に縁取られた瞳はまるで陶器人形に埋め込まれた宝石のようなこの少女は、本堂家の次期当主、紅月の許嫁――千家(せんげ)灯織(ひおり)である。


 灯織は、牡丹(ぼたん)柄の着物を着ていた。大正浪漫が浸透しつつあるこの東京で、こういった古風な格好をしている少女は珍しい。しかし、灯織は京都華族(かぞく)である。おまけに神職出身の乙女だから、流行りに疎いのは仕方がないのかもしれない。


「いらっしゃい。灯織さん」


 灯織を穏やかな笑顔で出迎えたのは、許嫁である紅月(あかつき)だった。

 本堂家はもともと、江戸幕府の諸侯を務めてきた由緒ある華族である。一方で灯織は、平安の頃から神職につく千家家のひとり娘だ。


「どうぞ、なかへ」

 紅月は、灯織の手からトランクケースを受け取ると、そのまま優雅にエスコートする。

 幼い頃より許嫁(いいなずけ)関係にあった紅月と灯織だが、面識はなかった。そのため本堂家の提案で、今日から一ヶ月間の花嫁修行――もといお試し同棲をすることになったのである。



 ***



 灯織は本堂家の人間に挨拶を済ませると、外の空気を吸いに行ってくると言って庭に出た。


 小鳥のさえずりが響く本堂家の庭は立派なもので、灯織の生家である千家家以上の豊富な草花が咲いている。

 もっとも、本堂家はこの帝国での華族第一号である。千家家も本堂家と同じ華族ではあるが、本堂家よりもずっとあとに華族の認定を受けた。つまり千家家は、本堂家よりも格下なのである。

 しかしながら今回の縁談を申し込んできたのは、本堂家のほうだった。


 家柄がなによりもものを言う時代。華族同士での婚姻は珍しいものではないが、かの有名な本堂家から縁談の話がきたといえば、ほかの華族たちも仰天したほどだ。おかげで千家家は本堂家との婚姻により、よりたしかな地位を得た。


 とはいえ、である。


 本堂家へやってきた灯織に、花の美しさや芳しさを楽しむ余裕はなかった。

「はぁ……」

 灯織は池の縁に座り込み、ため息を漏らす。

 大きな石で囲われた池のなかには、数匹の美しい金魚たちが泳いでいる。水面には、灯織の青ざめた顔が映っていた。


 ――どうしよう……。


 とうとう同棲することになってしまった。このままでは、灯織は本当に紅月と結婚しなければならなくなる。

 もしこのまま結婚したら、この先も紅月と暮らすことになる。灯織のことをなにも知らない、紅月と――。


「灯織さん?」

 うずくまっていた灯織の上に影が落ちた。灯織ははっと顔を上げる。

「あ……紅月さん」

「どうしたの? 大丈夫?」


 心配そうに灯織の顔を覗き込んできたのは、許嫁である紅月だった。


 さらりとした黒髪が陽の光に透けて、優しく揺らめく。まるで絹糸のよう、と灯織は紅月を見上げて思う。


 紅月は美しい(おもて)をしていた。おまけに誠実だ。

 帝国軍の少尉(しょうい)という肩書きを持ちながら、性格は柔和で気遣い上手。灯織ではとても釣り合わない立派なひと。


「灯織さん?」

 逆光がおさまり、ふと紅月と目が合ってはっとする。

「い、いえ! すみません。なんでもないです」

「そう? でも、少し顔色が悪いようだ。なかで休もう」

 紅月が灯織に向き合うようにしゃがみこむ。

「だ、大丈夫ですから、本当に……」


 灯織はたまらず顔を逸らした。

 紅月の優しさはありがたいが、対人に慣れていない灯織は緊張してしまう。


「だめだよ。ただでさえ、長旅を終えたばかりなのだから」

 柔らかな言いかたであるものの、その眼差しには有無を言わせない芯が垣間見える。

「さあ、こちらへ」


 灯織は大人しく従うことにした。立ち上がる灯織を、紅月がそっと支える。

 当たり前のように触れられ、灯織は反射的に手を払ってしまった。


 紅月はその瞬間、わずかに驚きの表情を浮かべたものの、すぐに柔和な笑みを貼り付けた。

「……ごめん。出会ったばかりで、馴れ馴しかったかな」

「い、いえ、すみません……」


 神職を生業(なりわい)とする千家家のひとり娘である灯織と、かねてより許嫁であった本堂紅月。


 ふたりの距離はまだ遠い。


 紅月は灯織に対して砕けた調子だが、灯織のほうは結納のときからこの調子だ。

 政略結婚だから仕方がないとはいえ、このままでは夫婦として成り立たない。そう危惧したのだろう。紅月のほうから今回、千家家へ同棲――もとい、花嫁修業の提案をしてきた。


 その意図を、灯織はもちろん理解している。しかしそれでも、灯織にはどうしても紅月を受け入れられない理由があった。

 それは……。


「あの、紅月さん」

 灯織はそろそろと紅月を見上げる。

「ん?」

 紅月はまっすぐ灯織を見下ろした。

「外ではあまり、いっしょにいないほうが……」

「どうして?」

「私たちはまだ結婚したわけではないですし」


 許嫁同士とはいえ、結婚前の男女が同じ家に住むというのは、世間的にはあまりよろしくない。

 しかし、それでもこの状況を受け入れたのは、千家家の生活が苦しかったからだ。千家家は華族ではあるものの資金援助を受ける前提でこの婚姻を受けている。つまり、本堂家の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。無事婚儀が済むまでは、千家家は本堂家の機嫌を取り続けるしかないのである。


 実際、灯織が家を出る際、くれぐれも紅月に嫌われないようにと言いつけられてきた。


「そうだけど、敷地内なら問題ないんじゃないか?」

「それは、そうですけど……」

 言い返されると思わなかった灯織は、それ以上なにも言えなくなる。そばから離れようとしない紅月に、灯織は困惑する。


 灯織には、ずっと気になっていたことがもうひとつある。


 それは、この婚姻で本堂家になんの得があるのか、である。


 千家家としてはなんとしても成就させたい婚姻だが、本堂家ほどにもなれば嫁候補はいくらでもいるはずだ。灯織との関係が危ういと感じたのならば、わざわざ花嫁修業などと称して同棲せずとも、べつの女性と婚姻すればいいだけの話である。


 本堂家はなぜ、千家家に縁談を持ちかけたのだろう……。


 考えていると、不意に紅月が灯織の手を握った。はっとして顔を上げると、紅月と目が合う。


「大丈夫。そんなに怯えなくても、灯織さんがいやがることは俺はしないよ」


 紅月が灯織の手を握ったのは一瞬だった。灯織は、紅月の体温の余韻が残った手の甲を、ぎゅっと握り込む。


「俺たちは許嫁とはいえ、まだ会ったばかりだ。少しづつ夫婦になろう」

 灯織は紅月から目を逸らす。紅月はかまわず続ける。

「これから一ヶ月よろしく。灯織さん」


 どこまでも優しい声に、灯織の胸の奥が疼く。


 ――だめだ。流されちゃ、だめ。


 灯織は目を伏せた。


「……私、先に戻ります」


 灯織は、紅月から逃げるように屋敷に戻る。紅月は追っては来なかった。

 足早に庭を歩きながら、灯織の脳裏には千家家を出たときのことが蘇っていた――。



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