紙子さんの質問
寝室に現れた紙子さんを、オレの開ききった瞳孔はHDの鮮明さで捉えた。
彼女は呼び鈴も鳴らさず、マンション二階の窓も開けずに、レースカーテンから漏れ出る青い月光に照らされていた。女子大の制服みたいなお気に入りのブレザー姿で、上向きに整えたまつ毛が床と平行になるまで俯き、少しだけ口を尖らせる。
「結局さあ、この世でもの言えるのは今この世で生きてる人間だけなのよね、そうなのよね」
オレは枕から頭を浮かせるでもなく横に立っている紙子さんを見ていた。夢なんだろうと思いながらも、おずおずと手を握ってみるが、金縛りにはなっていなかった。
「尖らせてたんじゃないの。重力ってやつ。口の周り引き締めると、こう、ね?」
なるほど、すっきりとした少し物足りないくらいの薄いくちびるに戻る。そしてオレに覆いかぶさるように腰を折り曲げ少し笑うと、体を真っ直ぐに直し、長い髪を左手でかき上げながらベッドの足側に腰を下ろした。
やはりと言うべきなのだろう、体重は感じなかった。オレは彼女に気づかれないよう、ゆっくりと足を引っ込める。
「そりゃそうなのはわかるんだ。死人に口あり、だったら裁判所も随分仕事が減るだろうし。いや、そうでもないかな。殺人事件ばかりじゃないし」
ベッドに両手を突っぱり、上半身をのけ反らせて、上げたり下ろしたりしている両方のつま先を見ながらそう言う紙子さんに、オレは思う。
まあそうかも。しかし、そんなことより……。
「あたしはなんなんだ、ってことだよね。喋ってるし。いきなり寝室に入ってひとのベットの上に座り込んで。夜中だっていうのに失礼だわ」
そう、そういうことだよ。紙子さん。
「死んでみてわかったことが結構あるのよ。ほらあ、覚えてない? 先に死んだほうが化けて出て説明するって約束したじゃん。いつだっけ」
そう言えば、そんな話をしたこともあった。二年くらい前だったか二人で資料室の古いカタログなんかを整理してたとき。
「そう。なんでだったか死後の世界の話になったじゃない? あの頃そういうの会社で流行ってて肝試しとか行っちゃったりしてたからだっけかな。上岡先輩、マジで墓場に連れてくとか言い出して、しんじられなかった」
紙子さんは本当に楽しそうに薄いくちびるを両方に引っ張って目を細める。生きていた頃そのままに。
しかし、幽霊を目の前にしたオレの冷静さは何だ。墓場の肝試しどころの話じゃあないだろう、と思うと急に恐怖が頭をもたげるのを感じ、強く目を閉じる。と、瞼の裏で一点の光が爆発した。眩しさに耐えかね細く目を開ける。
夢なんだろう? もう少し楽しい話しようよ。頼むよ。と俺は念じる。
「夢じゃないよ」
紙子さんの鋭い視線がオレの目に刺さる。確かに、夢にしては余りにも鮮明すぎる。でも現実だとすると、紙子さんは、あまりに映像的すぎる。
「いやだ、そんな顔しないでよ。結局死んでみてわかったのはね、そういうことじゃ無いんだってことなのよ」
じゃあどういうことなの?
「要領が掴めてきたわね。そうやって頭の中で思ってくれれば私にも聞こえる。でも喋られても聞こえないの」
喋ると聞こえないの? じゃあこれは?
オレは右手でパチンと指を鳴らした。
「駄目。つまり音は聞こえない。光ってさあ、ほら、えっとなんか素粒子でさあ」
光子?
「そうそう、それ。そういう素粒子ってのは、なんとか出来るわけ。見たり動かしたり。だから今だって座ってるように見えるだろうけどこれって空気椅子なのよ。おしりに布団の触感は無いの」
じゃあオレが思ってることがわかるってのは?
「そこが問題なのよねえ。難しいんだけど、聞いたところを話すとね――無意識ってのはこの世には無い――つまりこの世ってのはあなたが居るここなんだけど、ここには無いみたいな感じ? わかる?」
じゃあ無意識ってのはクラウドサーバーみたいに別のところにあって、オレとそっちを繋いでるってこと?
「そんなかんじかな。なんか説明された時は数学のグラフみたいなの書いてあって、パンフに」
パンフ?
「そうなの。あたしすごいラッキーでね、福引で当たったのこれ」
これって? 福引で当たった旅行的なことなの?
「そう。一等賞、現世ツアー六泊七日の旅、みたいな」
そういう町内会的な世界なわけ? そっちは。
紙子さんは大げさに体を折って笑い出した。
「そう……それはちょっと……違うわね」
じゃあどういうこと?
「まあ、福引っていうのは例えでね。よく聞くじゃない、光が射してて神様みたいなのが居るとか、お花畑に親戚とかお婆ちゃんが立ってるとか。そういうんじゃ無くて、なんていうかなあ。そう、海みたいなウオーターベッドみたいな感じなの。そこで気分よくふわふわっと漂ってたのよ。わたしが漂ってるのか漂わせてる水のほうになっちゃったのかわからないくらい。そしたら急に生きてた時みたいな意識とか体とかが戻ってきてね、気がついたら自己啓発セミナー会場みたいなところで、ホワイトボードの前に座っていたの」
体が戻る?
「そう、いい気分だったのよ。最初データ抜いちゃうよみたいなこと言われるんだけど、なんだかわからないしそんなことどうでもいいくらい気持ちいいわけ。いや、逆かな? 私のデータなんかは価値が無いからそんなことされてもゴキゲンでいられたのかも。――まあでも、そうしていたかったのに突然そんなところで、足の細いグラグラするビニール張りの椅子に座らされてさ。内心ちょっと不満だった」
そう、なんだ。
「そしたら、私は皆さんをこちらの世界にお招きできて嬉しく思います。とか挨拶する白髪のナイスミドルがツイードのジャケットを脱ぎながらパンフの説明を始めたの。あたし混乱しちゃって」
なるほど。それは無理もないかも。
「でしょう? それまで体も意識も無いみたいな『ザ・あの世』なところに居たのに、突然なんだもの」
うん、そこまではわかったよ。それで?
「あ。……で、この今居る世界とは、とか生きていた頃の世界とは、とかの説明を聞いたわ。なんとなくしかわからない、かなり物理とかの話だったの。でもまあまあ面白かった」
じゃあ、さ。紙子さんがここに居るっていうのも、スーパーナチュラルな出来事じゃ無く学者が頑張れば解明できる、みたいなことなの?
「それは原理的に不可能だ。っておじさんは言ってた。かなり頭良さそうな若い子があなたと同じような質問してね、つまり生きてる人間っていうのは例えるならコンピューターゲームの中のキャラみたいなもんだって、おじさんは説明したのよ」
へーぇ……。
「あたしも実感は出来る。こちらからは自由に操作できるけど、キャラがモニター越しにこっちを認識したりは出来ないでしょう。そういうソフトや機械を意図的にくっ付けたりしない限りはだけど」
じゃあそれって。俺はいったいどういう存在……。
「巨大な無意識に支えられた氷山の一角。海面の上にチラッと出てるのが人間ってことね。そして無意識は私たちの側と同じもので出来てる。海の底なんてどうなってるか実感できなくても、陸で暮らしてる人達はやっぱり底から盛りあがった部分で暮らしてるじゃない。何不自由無く、そんなこととは、まるで別のことで悩みながらね。そういうことよ」
紙子さんは、それまでの楽しそうな表情を消して、生きていた時いつもそうしていたように顔を伏せた。オレは手足が異常にだるいことに気がついた。枕を背中に挟んで少しだけ上体を起こしているだけだっていうのに。
「まだこの世にあった意識を忘れていない、死後間もない者から選び出された人達は、こうしてこの世に帰って実験する役目を託されたの」
実験ってどういうこと?
「あの世は満員らしいのよ」
満員だとどうなるの?
紙子さんは眉を少しあげると、首をがくんと落とし少し笑った。
「こんな話聞いたこと無い? 死んで行った人を数えると、今生きてる人ひとりに二十人近いオバケがとりついていることになるって」
それであっちが、満員? だからどうしようって言うの?
「やり直す、らしいわ。あっちの方も適当に整理してこっちも更地にしてまた一から」
ちょっと横暴に聞こえるけど――。
「あなた、ゲームリセットするのにキャラ達の権利なんか考える? そんなわけ無いよね。元々不平等なのよ。宇宙は不平等に出来ている。なのにこっちの人達ときたら好奇心だといえば何事も許されると思って、原爆に飽き足らずブラックホールまで作ろうとしちゃってさ」
そんなの知らないよ。なんの話だよ。
「そういうのってあっちから見るとウザイの。もう非常識な隣人が毎夜外でわめき散らしてるみたいな迷惑加減。だったら人口過密でもあるわけだし、こっち側も再構成してしてまおうっていうわけ。もう無駄に増えないように体を乗っ取ってね。その先発隊があたし達ってこと」
静止し床を見つめ、最初からそこだけが彼女の稼動部品だったように口を動かしている。オレはわけのわからない怒りを喉に押し込んだ。
「そうよ。生きてる人全員もまさにそんな気持ちになると思う。信じられない何言ってるの? っていう怒りみたいなもの。マイケル・J・フォックスじゃないけどヘビーだよね」
わらない。
「でも、考えてみてよ。行き先はわかってるわけだしすごくラッキーじゃない。わたしはここで好きな体を見つけて永遠に平凡に暮らせるの。ガーデニングなんかしながらね」
友達や親とは? もう会えなくなるんじゃないの? 成し遂げようと頑張ってきた夢は?
「だから、そんなことなんかどうでもよくなるんだって。経験者は語るってやつ」
いや、これは夢だよ。すげえリアルではあるけど、紙子さんが夢に出てくるのは初めてじゃ無い。目が覚めれば嫌な夢を見たと思うだけだ。そんなの信じられない。
「どうしてあたしの夢を見るの?」
そりゃあ決まってるだろう。
「どうして?」
好きだったから……だよ。
「本当にそれだけ? 何かがひっかかっているからじゃないの? ほら、あの日。美沙達と呑んでて――」
その時、オレの頭の中で何かがバチンと繋がったのを感じた。そうだ、あの時オレは酔っ払って、上岡先輩と紙子さんのことを……美沙に話した。気の強い彼女の顔は確かに少し歪み、逸らした目に……そうだ、怒りが見えた。
もしかして美沙はまだ上岡先輩のことを忘れられなかったのか。それがきっかけで紙子さんは自殺した? あれはオレの嫉妬だったのか?
「そうね、言うべきじゃなかったのかもね」
そういうと紙子さんは上着のポケットから折りたたまれた紙を取り出し、下の方に書かれた赤文字を指さした。
『なお、現存する人間に恨みが残ってる方は殺害を推奨致します。あなたのこれからの生を受け取る体の他になるべく多くの人間を消去してください。地球上に存在するデータ量は現在の四分の一が適正です』
複数のサイレンが鳴り始めた。救急車と消防車に混ざって甲高くて不規則なパトカーのものも聞こえる。カーテンが回転灯の光を受け一瞬だけ真っ赤に染まると、それを見て紙子さんは優しい笑みを浮かべた。
なんなんだこれ。オレを殺すのか? オレなんかまだ富士山にも登ったこと無いんだ。せっかく始めた登山なのに。美沙も――
「美沙も殺す気だな! 上岡先輩も」
そう叫んだ瞬間紙子さんの姿が消えた。ドアの外から大勢の人の気配がした。そして火災報知機のベルがけたたましく鳴り始める。
「どうしたの?」
ドアに向けていたオレの視線は紙子さんの一言でベッドに引き戻され、静寂が戻る。
「心配すること無いの。あなたも美沙も、何も変わることなんか無いのよ、基本的には。立場が変わるってだけのことよ。運がよかったらあたしみたいにまたすぐこっちに来られる。なにせあっちは結構満席なんだから」
そう言い終えると、紙子さんだった人型は一瞬で黒い影に置き換わった。思わず瞑る瞼の裏に二個、三個と光芒が閃く。大きな花火が炸裂するような音がみぞおちを震わせ驚いて目を開ける。すると目の前のそれは大量の砂粒が鉄板を滑り落ちているような轟音を発し始めた。同時に真っ黒だったそれは白とグレーの激しく動き回る粒の塊に置き換わる。オレはそれが何かを知っていた。
「そう、ブラウン管テレビの砂の嵐」
それが紙子さんの姿なんだね。
オレがそう思うと、そのノイズの塊は笑って頷いたような気がした。
耐え難い音圧の雑音が寝室を震わせ、紙子さんの声はオレの腹の底から沸きあがる。
「ごめんね。素粒子しかこの世に干渉させられないから、こんなことしか出来なくて」
その白とグレーの嵐にかたどられた紙子さんはゆっくりとオレの体に這い上がってきて、漆黒の口をオレの目の前で開いた。反射的に目を閉じ喚きながら紙子さんを振り払おうとそうとするが、その体は映像のように空虚だった。
赤黒いまぶたの裏側に五個、六個と閃光がほとばしる。それは瞬く間に数を増やし目の前で無数のフラッシュを焚かれているような耐え難い光量になる。堪らず目を開けるが四肢はもはやオレの意思では動かなくなっていた。死へと向かっていることがはっきりわかるほどの疲労感が全身に纏わりつき、苦しい吐息で胃が締め付けられる。不意に熱気に襲われそれと同時に部屋の四方が発火する。
また紙子さんの姿は唐突に消えた。そよ風に揺れるシルクのような艶かしい動きで炎はあっという間に壁を覆いつくし、天井を煙で満たす。すべての物が黄金色に輝き美しかった。
緊急車両はマンションの下に続々と集まり、複数の叫び声が聞こえる。そして鳴り響くベルの音にまじり、放火犯確保、という怒声が聞こえる。息が苦しい!
「火事!」
オレはそう叫び跳ね起きようとするが、手足が動かない。
そして見知った紙子さんの姿が再度オレの上に覆いかぶさる。
炎の光を反射して濡れ輝くその目、はらりと落ちてくる長い髪の毛、白いブラウスの襟、大きく膨らんだ胸の右側に張られたブレザーのワッペンを見ながら、その口から吐き出される蒼白い光に胸を焼かれる。
すでに声を上げる力も無く、あらゆる感覚も薄れていた。これは紙子さんの優しさなんだろうか? それとも夢の続きなんだろうか? オレは火事で煙を吸い死んでゆくのか、それとも紙子さんが? もはやそれらすべてがどうでもよく感じられる。
天井を這う炎の轟音を圧倒する紙子さんの声が、後頭部や隣の部屋や屋根裏から湧き上がり頭蓋を揺らした。
「死後に行くところがわかってから殺されるって気分どう? 安心感ある? それとも退屈? まだ信じてないからやっぱ不安? 唐突に現れてすぐやっちゃったほうが――なんかあたしって無粋だったかなあ? ねえどうなの? すごく興味あるの。教えてよねえ、ねえったら!」
意識が途切れ、再び目を開ける。
なるほどと思った。
見渡す限りの水みたいなものに浮かんでいる。丁度体温ほどのそれは相当の粘度をもって緩やかにうねり、大の字になって浮かぶオレを揺りかごのリズムで揺らす。
全くの自然がオレを心地よく包んでいる。海以外何も無いがこれは自然であると認識することは容易だった。
そして寝床を作り家を密閉し必死に街という殻を広げて、自然から自分を守ろうとしていたあっちの世界を思いだす。
「そりゃ、ミュータントだと思われても仕方ないか」
体はどうなってるんだと思い、手を見ようと持ち上げるが何も起きない。足を上げても体を捻っても状況は変わらない。人間という「モノ」に僅かばかりの思考力と訳のわからないココロという何かがくっ付いた状態から、オレはただの「モノ思う物」へと変わったのだろう。
ただそれだけのことなのかもしれない。
なるほどなとオレは再び思い、そんな些細なことはどうでもよくなる。
「ソラリスの海……いやまだオレの体はベッドの上なのか」
形の無い口で、振るわせる空気すら無い無色の明るい空に向かってオレは何かに問いかけた。答えは得られず浮遊感と幸福感に再度満たされただけだった。
『データ抽出。798―68バンチ08007。遺伝子番号……』
声なのか、投影された文字を読んだのかもわからないが、何かが告げられ、オレの情報がこの「海」に注ぎ込まれたことを悟る。知識データを集めることが、この「海」の唯一の欲望なんだろう。
おそらく、紙子さんの最後の質問もそういうことなんだろう。
彼女もオレもやっと自然に帰れたということなのかもしれない。オレは多分ここに留まり、彼女は自己複製の欲望も持たず、ただあるがままの――あの砂の嵐の存在のまま――あそこに在り続けるのだろう。
――あの時、ゴジラみたいだ、って思ったよ紙子さん。聞こえるかい――
それきり、浮遊の心地よさだけがオレの存在を証明する唯一のデータとなった。
最後に少し笑ったんだったろうか。
終わり