街灯
出張先からの帰り道、気が付けばどんどん不安と恐怖が押し寄せて来る、そんな話です。
街灯しか明かりの無い夜道を歩いていた。
ギリギリ2車線ある道路で、歩道は無い。周りは民家と田畑。
都会では当たり前の、店やマンションの明かりというものは、肝心の建物自体が存在しない。
時間はまだ20時程度のはずだが、民家の明かりは遮光カーテンから微かに漏れる程度で、そもそも既に消灯している家も多い。消灯以前に空き家なのかもしれない。
ただ、たいていの家は田舎特有の広い庭を持っていたので、人が住んでいるのかどうかは道路から歩きながら見ただけでは分からない。
なんにせよ人影は無い。
そんな道を、しばらく歩くとY字路になった。
(こんな道だっただろうか?)
そもそもY字路は行きと帰りの印象が違う。ましてや来た時はまだ昼間だったので、元々方向音痴の自覚のある男は不安になった。
「帰りはY字路が多くて、初めての人は迷いやすいから気を付けてくださいね」
男は、さっきまで商談をしていた女性の言葉を思い出した。
男は製薬会社の営業をしている。今日商談で訪れた八乃塚病院は少し高台にあり、かつて大地主の敷地だったという。
その為、この地の道は八乃塚病院、即ち、かつての大地主の領地に集まるように出来ており、行きは適当に歩いても着いてしまうが、帰り道は枝分かれが多く分かりにくいとのこと。
「まぁ、迷ったら携帯の地図のナビで行きますよ」
「この辺はまだ大丈夫だけど、途中、結構な田舎道あるでしょ。あの辺、電波悪いのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。だから、病院から駅までは、左、左、右、左、右で覚えておいてください。それが一番近いですから」
女性の言葉を思い出し、男はY字路を左に曲がった。
営業窓口担当の彼女は話好きで、なかなか商談が進まず辟易したものだが、今となってはそれがありがたかった。
しばらく歩くと川があった。
わりと川幅が広く、長い橋が架かっている。
この橋は覚えている。つまり、道の選択は間違っていない。
男は少し安心した。
橋を渡り始めると、むわっとした湿気が顔を覆った。
背中とリュックの間が汗でじっとりしてきた。
橋を渡っているのは、やはり男一人だった。
歩行者はもちろん、自転車、車も通っていない。川下からのカエルの声がするだけだった。
橋を渡り終えてしばらすすると、またY字路。男は左に曲がった。
次第に民家がまばらになり、田んぼばかりになってきた。
(この辺から電波悪いんだっけか?)
男は携帯を見ると案の定、圏外だった。
カエルの声は一層大きい。
街頭の間隔は広くなり、5m先の路面も良く見えなくなった。本当にポツポツと続く街頭しか見えない。
周りが暗い分、遠くの明かりはよく見える。数百メートル先には車が通っている大通りもありそうだ。
それに比べて今歩いている道は、申し訳程度に舗装されているが、砂利が転がり、両端は雑草で覆われている。
本当にこの道で大丈夫なのだろうか?
とりあえず、大通りに出て、車の標識を見て歩いた方が確実なのでは?
しかし、方向音痴の男は、独自の判断で道を行った結果、失敗した経験の方が多い。しかも地元の人から「迷いやすい」と言われた道だ。余計なことはしない方がいいのかなと考え直した。
そう考えて、しばらく歩いては見たものの、やはり気になることがあった。
もう随分歩いたが、先はまだまだ一本道が続いている。
Y字路が多いのではなかったか?
そもそも来た時はこんな道は通っていない。
もちろん、地元の人が教えてくれた道を元に歩いているので、来た道と一致しないのかもしれない。
しかし、こんなに違うものか?
来た時もそんなに遠回りした印象は無かったが、既に来た時よりも長く歩いているような気がする。
せめて、行く道の先がもっと明かりが見えていれば、そこを目指して行けるのだがそうではない。
漆黒の闇とまでは言わないが、同じような街灯の明かりがどこまでも続いているように見える。
その行きつく先は、黒い山しか見えない。
やはり、どこかで間違ったかもしれない。
引き返した方がいいのでは?
その考えが頭をよぎった頃、頭上でブルッと羽音がした。
男が即座に「羽音」と判断したのは、やはり病院の女性の話だった。
「もう一つ気を付けて欲しいのは、この辺はスズメ蜂が多いんですよ。駆除する習慣があまり無いんでね」
「田んぼの為ですか?」
男は聞いた。スズメ蜂は作物の害虫駆除をする益虫でもあると聞いたことがあるからだ。
「いえ、神様なの」
女性は、そこでこの地の由来を話した。今でこそ「八乃塚」と書いて「ヤノツカ」と読むが、昔は「ハチノツカ」だった。漢字も元々は「蜂乃塚」だったとのこと。
そして民話やら、蔑ろにした際の祟りやら様々語ってくれたが、正直男はほとんど聞き流していた。
「でも、もう夜だし大丈夫ですよね。スズメ蜂は夜活動しないでしょ?」
「あら詳しいのね」
「仕事柄、蜂毒なんかの話題はよくドクターから聞きますので」
男は純粋な営業職なので、もともと薬や医療の専門知識があったわけではない。ただ、こういう基礎知識は人よりは触れる機会が多かった。
「なら分かるわよね」
女性は、声のトーンを低くして言った。
「けっこういるのよ。この辺のハチは夜にでも。だから何か特別な力を持っていると思いません?」
「はぁ」
「だからね、この地に伝わる対処法を教えます。夜に蜂にあったら、振り返らずにまっすぐ800歩数えて走ってください。そうすれば大丈夫だから」
「ありがとうございます」
男は答えつつ、内心白けていた。
(ハチだから800?安易だな。そもそも800歩も走ったら約1kmじゃないか。そんなに逃げたら大丈夫なのは当たり前だろ)
しかし、実際に視界の無い夜道で羽音を聞いてしまった。
そして、次にカチッ、カチッという音がした。
(マズイっ)
羽音だけなら、こちらから危害を加えなければ問題ないことが多い。しかし。カチカチ言う音はスズメバチが顎を鳴らす警告音だ。
近くに巣があるのかもしれない。
男は走り出した。
音だけで相手が見えない以上、巣の位置の予測がつかない。
これはもう、ある程度の距離を走り抜けるしかない。
(8、9、10、1、2、3、4、5、6、7、8、9、20、1、2)
男は頭で数えながら走った。
どこまで数えるか?
本当に800まで数える?
いやさすがにそこまでしなくてもいいと思うが・・・
(6、7、8、9、120、1、2、3)
もう追っては来ないのではないか?しかし自分の呼吸音と足音で羽音はよく分からない。
(5、6、7、8、9、250。いや、240だったかな?念の為240!、1、2、3)
さすがにもう大丈夫だとは思うが、なんか止め時を逃した。
(7、8、9、800!)
男は走り切った。
数が分からなくなった際は、少ない方に倒したので、実際は800歩を超えてかなり走っただろう。
頭から水を被ったような汗をかいていた。
もう汗を拭うのも面倒な量なので、垂れるままにして歩いた。どうせ周りに人なんていないんだ。かまやしない。
とにかく、羽音はもうしない。逃げ切れたようだ。
一安心すると急に踵と踝のあたりがズキズキした。
革靴でけっこうな距離を走ったので靴擦れができたのだ。
腰のベルトのあたりも擦れてヒリヒリする。
リュックの肩紐が当たる部分同様だ。
まいったな。
この状態で駅までどれくらい歩くんだ?
そこで男は嫌なことに気が付いた。
もう1kmも走ったが、道は合っているのだろうか??
Y字路が多いのではなかったか?
今の道が正しいなら駅までは後3つY字路があるはずだ。
ひょとして、走っている間にY字路を見落としている?
もし見落としていたとしたら、どうなる?
間違った道を来てしまったなら、引き返さなければいけない。
正しい道を来たとしても、複数見落としていたらどうなる?
今が何個目のY字路を過ぎた所かも分からない。
戻るか?スズメ蜂の巣がある道を?
それとも一旦、比較的明るく見える遠くの道路を目指してみるか?
男は今いる道の前後を見渡した。
行も戻りも等間隔の街頭だけが見え、行きつく先は黒い山。
ただカエルの声だけが響いていた。