通報事案?
自宅にしているアパートの部屋がそれほど遠くなかったこともあり、俺は彼女を部屋に運ぶことにした。
救急車を呼ぶことも考えたのだが、彼女はどう見ても寝ているように見えたのだ。病気でないのに救急車を呼ぶのは躊躇われるし、呼んだら俺が説明しないといけないし、場合によっては同伴しないといけなくなる。
そうなると、パスタが冷めてしまうではないか。
今日は寒い。あの場に放置もできなかったので仕方ない。変なところに触らないように気を付けながら、彼女に肩を貸す形で家まで帰ってきた。途中で誰にも会わなかったのは幸いだった。
「はむはむ」
俺は 1LK のリビングにクッションを並べて女性を寝かせると、パスタを食べた。
ベッドはダメだ。昨日の夜に一人でハッスルしたので汚れている。洗濯しようとしてサボっていたのは後悔するしかない。
あと、ベッドまでの道のりも遠い。汚部屋とまでは言わないが、ゲームのパッケージやら段ボール箱が散乱している。人間を担いで移動するのは難しい状態だった。これも反省。
「ん・・・」
女性が目を覚ましたのは、きっちり2時間後、俺が昼ご飯を食べ終わってゲームを再開してからのことだった。
「あの、ここは?」
「ああ、起きたんですね。キーケースを受け取ったら急に倒れたので。近かったので俺の部屋に運びました」
初対面の人に、ゲームしながらってのも失礼だろう。ゲームをポーズして女性に向き直る。
俺がへたれ男性だからよかったものの、鬼畜な人間だったら寝てる間に大変なことになっていたぞ。そういう妄想をしなかったとは口が裂けても言えないが、感謝してほしいものだ。
まぁ、今だって誤解を招きかねない状況だし、もしも彼女が通報したら事案である。キーケースを拾って届けてくれた彼女のことだから、大丈夫だとは思うけど。
「それは、ご迷惑をおかけしました」
金髪の髪を波立たせて、女性が微かに頭を下げる。
「いえ、大丈夫ならいいのですが。・・・迷惑と言えば、倒れる前にも何か言ってませんでした?」
「ええ、はい。私の体質で、定期的に意識を失ってしまうものですから」
貧血のようなものだろうか。
「それは大変ですね・・・」
「でも大丈夫です。信頼できる人がいるときしか倒れません。それ以外の時は、気合いでなんとかしてます」
笑顔で、ぐっと拳を握る女性。その浮世離れした容姿も相まって、童貞には刺激が強すぎる。ありていに言えば、惚れてしまいそうだ。
「いや、俺の前で倒れましたよね」
「ええ、そうですけど?」
「どこかで会ったことが?」
「初対面ですね!」
信頼できる人間の前でしか倒れないと言ったじゃないですか。嘘おっしゃい!と言い返したい。
「さっき、信頼できる人が云々と」
「ええ、あなたは信頼できる人でしょう?」
何を当たり前のことを、という顔で会話のキャッチボールを剛速球で投げ返してくる。俺はボールを受け取り損ねて胸に食らった。
美人局か?ハニートラップか?いや、そうに違いない。
何が起こっても大丈夫なように、俺は彼女から見えないところでスマホを操作し、緊急連絡の準備をした。ボタンひとつで通報できる状態にしておく。
「いやいやいや。名前も知らないのに」
「信頼できるかどうかは、私には見ればわかります!」
そんなバカな。いやしかし、彼女が嘘や冗談を言っている様子はない。宗教家だったの?俺を入信させようとしてるとか?
「はぁ、そうですか。とりあえず、元気になったのなら帰ってもらってもいいですかね」
これ以上、この女性と会話してはいけない気がする。なにせ、美人過ぎるのだ。妖精の世界から抜け出してきたと言っても許される容姿だし、加えて一緒の空間にいると良い匂いがする。
さっきから俺のハートを撃ち抜く発言をしてくるし、マジで惚れてしまったら宗教家でもハニートラップでも美人局でも、簡単に騙されること請け合いだ。そして今の俺は、惚れかけてると言ってもいい。状態異常の魅了ってやつだ。
「あの、それなんですけど・・・実は困ってまして・・・」
「帰る家がないとか言わないでくださいよ」
まさか家出少女じゃないよな。
「・・・ないです」
まさかの家出少女だった。大きなため息が出る。瞑目。
独身っぽい男性を狙ったのか?それならば頷けるけど。俺は明らかに童貞、じゃなかった、独り身に見えるだろうし。
倒れたときは本当によく寝ていると思ったが、あれは演技かもしれない。いや、でもなぁ――
「わかりました」
ここまで来ると厄介ごとでしかない。とはいえ、袖振り合うも他生の縁とも言うし、キーケースの恩もある。どうせ仕事と部屋を往復する日々だし、少しぐらいなら彼女の力になってあげてもいいだろう。
腕を組んで考える。まずは問題を整理するのがいいだろう。これでも新卒組の中では問題解決能力を評価されている方だ。定評がある、と言ってもいい。
目を閉じたまま、必要な情報を考える。まずは関係者の連絡先だな。
「両親か、友達か、学校。どれか教えてください」
嗅ぎ慣れない香りが鼻腔をくすぐる。
目を開けると、ドアップで女性の顔があった。
「うわあっ・・・いっつ」
思わず仰け反る。彼我の距離は10㎝も無かった。俺が少しでも近づけばキスしていただろう距離。
そして、仰け反った拍子に壁に頭をうちつけてしまった。痛い。背中も床にぶつけたので痛みを発している。くそっ、童貞だからってバカにしやがって!
それにしてもいい匂いがした。痛みと匂いで脳内の報酬関数が壊れたように感じる。
「脅すのは本意ではないのですけれど、お許しくださいね?」
「は?」
剣呑なワードが出てきたので、痛みにこらえて彼女を見る。
彼女は、俺のスマホを片手に掲げ、緊急通報ボタンに指を向けながら、俺に向かってニコリと微笑んだ。
「同居か、通報か、お選びください」