そなたこそが、幼き頃より我が唯一。
本日三話目です。
「は……?」
意味が分からずアーシャが首を曲げると、歪んだ視界の中に、ナバダの不敵な笑みがあった。
まるで、してやったりとでも言いたげに。
「挑発に乗ってくれて助かったわ。あたしに面と向かってその気持ちを言えたあんたと、あんたの為にキレてる皇帝が……見ててムカつくけど、安心するのよ。化け物みたいなあんたらも、ちゃんと人間なんだって思えるから」
ナバダは、ふん、と鼻を鳴らして、笑みを消した。
「言い分は分かったわ。あんたが納得出来なくても、皇帝が納得すれば問題ないんでしょ?」
「……一体、貴女は、何を……仰って、ますの?」
「凡人には簡単な話を、あんたに教えてあげるわ。お互いの気持ちはね、普通、言わなきゃ相手に伝わらないのよ。どれだけ賢いあんたでも、全知全能の皇帝だって、人の心の全てが見えてる訳じゃないの。今あんたは、口に出して『言った』でしょう? ……聞いたわよね? 皇帝」
ナバダが、どこか清々した顔をしている彼女が、陛下に目を向ける。
「あんたもあんたで、アーシャに甘え過ぎなのよ。アーシャに生きていて欲しいなら、苦しんで欲しくないなら、あんたがしなきゃいけないのは……今こいつが口にした『願い』を叶える為に、正面から自分の気持ちを、ちゃんと自分の口で伝えることなんじゃないの?」
彼女の、陛下への問いかけは。
アーシャが、そう訊くことすら思いつきもしなかったものだった。
「ねぇ、皇帝。あんたは今、本当に孤独なの? こんなにあんたを想ってる、アーシャが居るのに」
※※※
アウゴは、そのやり取りの全てを、ナバダに言われた通りに黙って見ていた。
そして、感心していた。
ーーーなるほど、甘え、か。
多少楽しませてくれるだけの凡俗と思っていたナバダが、初めて『人』として、目に見えたような気がした。
そして、自分が少々気に入っている者達……ナバダのみならず、アーシャの家族やリケロス、ベリアやミレイアといった者達に、何故自分が興味を抱いたのかに、意識を向けた。
そうして、在るままに在るのみ、と思っていた己の抱く想いに……『その意味を問う』という概念を、初めて加えてみた。
人を想う、というのが、どういうことであるか。
それをどうやって示すのか。
『彼らはそれを体現しているが故に、彼らを気に入っている』のだと。
そうした解釈を、初めて『己の想い』というものに加えてみた。
ーーーなるほど。
問えば、解せば、『人』の在りようを識るのは、まるで造作もない話だった。
彼らは、アウゴやアーシャの意志を、在りようを、好ましく思ってはおらずとも。
アウゴという個人を、あるいはアーシャという女性を、認めようと寄り添う者達だったのだと。
故に気に入っていた。
大切なものを捨て置かぬという、気概を。
その気概を持つ者の筆頭が、そして己が大切と想う者の筆頭が、アウゴにとってはアーシャだったのだ。
在りのままのアウゴを受け入れようと、自身の身に余る程に、その両手を伸ばしてくれていたのが、アーシャだったのだと。
力ではなく。
知恵でもなく。
そして、意志でもなく。
抱く想いこそが、人の本質。
その『解』は、まるで天啓のように感じられた。
ーーーなるほど、なるほど。ナバダの言う通り、容易きこと。確かに、道理。
『人の在りよう』からも真理が得られるものなのだと、アウゴは今、初めて知った。
故にアウゴは、ナバダの言う『甘え』とやらを、アーシャの為に捨てることにする。
そのようなものは、己にとって、アーシャと比べるべくもなく必要のないものであったから。
「アーシャ」
アウゴは、ナバダに近づいて彼女を受け取るとーーー抱いたまま膝をついた。
すると横たわるように膝に乗ったアーシャが、驚愕に目を見開き、細く掠れた声を上げる。
「陛、下、なり、ません……臣下の、前で、お膝を……!」
「良い。そなたもこれらも、我の臣下ではない。そして今の我は『皇帝』ではない」
一人の、アウゴとして。
『人』として。
伝えなければ伝わらぬというのなら、伝えよう。
相手に寄り添うというのが、どういうことなのか。
大切に想うというのが、どういうことなのか。
それは、相手の望みを叶えることばかりではないのだ、ということを、たった今、知ったが故に。
アーシャの真の願いを、たった今、知ったが故に。
アウゴは、そのままアーシャを抱きしめて、魔導陣を敷きながら耳元に囁く。
「我の孤独や悲しみなど、遥か昔に、既に癒されている。ナバダの言う通り、そなたの存在によって」
「……!?」
アーシャの体が強張り、呆然と止まったように感じた。
「そなたが、我を見て『悲しい』と、そう口にしたあの時より、そなたこそが、我が孤独を癒してくれた者だった」
自分ですら、気付いていなかった。
自分が『悲しく孤独』なのだということに。
あまりにも、それが当たり前であったから。
そして一度は、危険と感じてアーシャを遠ざけた。
その悲しみが癒されていくことを、孤独が失せることを、自らの存在が変質し消滅するかの如く感じたから。
だが、違ったのだ。
「同じ場所から、我と共に世界を見る必要など、ない」
アーシャが共に在る、ただそれだけで良い。
それ以外の何かなど、アウゴはアーシャに求めていなかった。
その笑みが。
興味を持ったものに対して輝く瞳が。
アウゴに語り掛けてくれる、その声が。
己自身以外の全てに対する、優しく強き心を持つ、アーシャが。
アウゴを見つめてくれるこの少女が、そこに在るだけで、良いのだ。
固まっている彼女に、アウゴは二種の魔術を行使する。
一つは、癒しの魔術。
斬り飛ばされ、打ち捨てられた彼女の腕が浮き上がり、体の断面に張り付くと、何事もなかったかのように元に戻る。
顔の火傷痕以外の全身と、ついでにアーシャと共に挑み守った、ウォルフガングという男の傷も褒美として癒しておく。
消耗した体力までは戻らないが、少なくとももう、命の危機はない。
「アーシャ。そなたこそが、幼き頃より我が唯一。そなたが望むなら、どのようにでも在ろう。そなたが既にしてこの世に在ることのみが、我が奇跡であることを、伝えよう」
もう一つの魔術は『幻想花』に封じた彼女の記憶を戻すもの。
「かつて幻想の内にしかなかった比翼連理の存在を、そなたの求めた幻想を、我はもう、とうにこの手に得ているのだ」
義眼より放たれた幼き頃の交流の記憶が、アーシャの内に蘇る。
「陛下……アウ、ゴ……?」
記憶を取り戻したアーシャの呼び掛けに、そっと顔を離すと。
彼女は戻った記憶との混乱の内にあるのか、焦点の合わない目でこちらを見ていた。
その懐かしい呼びかけに、アウゴは微笑む。
「是。我は、アウゴ・ミドラ=バルア。『幻想花』を手に、幻想ではないそなたに出会った者」
その土で汚れた頬に、愛おしさを込めて手を添える。
「アーシャ、我は全てを為そう。そなたの、望み通りに」
「アウゴ……!」
それを伝えると、アーシャの頬に、つぅ、と一筋、涙が伝う。
しかしその涙は、彼女自身の安堵ではない。
苦行から解き放たれた者のものではなく……アウゴを案ずる涙。
震える手で、アーシャもこちらの頬に指先を伸ばしてくる。
「それで、それで、本当に、よろしいのですの……? だって、変わることを押し付けられるのは、お辛いことでは、ないのですの?」
「そなたは、我の為に強く変わろうとしたのだろう? それは辛きことであったのか」
「いいえ、そのようなことは決して……!」
「そも、我が変わるというのは、如何なることを指す? 弱き者を解し、世界を安寧に導くよう努めること……そのようなものは、そなたが傷つかぬ為であれば、全て容易き些事に過ぎぬ」
「アウゴ……」
「そなたさえ、そのままで在れば良いのだ。我の想いは、そなたと同様なれば」
アウゴは心からの想いを伝える。
愛しいアーシャの想いは、今聞いたその願いは、何よりも嬉しきものであったから。
同じだけのものを、返すのだ。
「愛している、アーシャ。そなた唯一人を。これまでも、この先も」
アウゴは、くしゃりと顔を歪めたアーシャを再び強く抱き締める。
「そなたが在るだけで、我は満たされている。この手の内に閉じ込めて、大切にしまいこんでおきたいと望むほどに。自らの為でなく、その行動が我の為だと言うのなら、もう、傷つかなくとも良い」
「ぅ……」
「弱きままに在ることを、赦す。我にあらゆることを求めるのを赦す。故に……そなたは、そなたのままで在れ。そのままのそなたを、愛しているのだ」
「ぅう……! アウゴ……! わたくしも、わたくしも……お慕い申し上げております……アウゴ……!!」
アーシャが、アウゴの背に手を回して、抱き締め返してくれる。
本当に、こんなに簡単なことだとは。
『人』の考えというのも、なるほど、侮れないものだ。
ただ想いを伝え、伝えられ、この腕に抱くだけで。
これ程までに深く、今までよりもなお満たされるとは、思わなかった。
「あ、アウゴに届かぬ、ふがいなき、我が身で、申し訳ございません……!」
「良い。そのように思ったことはない」
「アウゴに、アウゴのままに、在って欲しいと……わたくしは、ただ、そう、願って……!」
「我は我のまま、在る。そなたがいる、ただそれだけで、我は我として幸福の内に在れるのだ」
「ぅ、うう……うわぁああん……!!」
アーシャが、ついに泣き声を上げる。
それはまるで産声のように、アウゴの耳に響いた。
アーシャがアウゴを化け物のままで居させていた、とナバダは言ったが。
彼女を苦難の内に押し込めていたのも、おそらくは『想いを伝える』という行為の意味を知らなかった、アウゴ自身だったのだ。
「泣くな、アーシャ。すまなかった」
「申し訳、ございま……ア、アウゴが、謝る、ことなど……ひぐっ……何一つ、ひっく、ござ、いま、せ……」
ん、と、その言葉を最後に、アーシャがふっと気を失う。
張り詰めていたものが、切れたのだろう。
その体をそっと横抱きにして、アウゴは立ち上がった。
愛おしい。
これほどの愛おしさを感じる方法を教えてくれたナバダに、アウゴが感謝を込めて目を向けると。
彼女は、呆れたように髪をかきあげていた。




