分かっていないのは、貴女の方でしてよ。
本日二話目です。
アーシャは、未だかつてない程の怒りを感じていた。
「陛下の御心は、わたくしの手に入ってなどいませんわ。わたくしが、陛下に並び立てる存在でなければ……陛下が心からそれをお認めになれなければ、陛下の悲しみを、孤独を、真に埋めて差し上げることは叶わないのですから」
陛下に決して届かぬ程に、アーシャが弱過ぎる。
そんな事は最初から理解している。
「分かっていないのは、貴女の方でしてよ。ナバダ」
彼女には、何も見えていない。
陛下のことが、何も。
見ようとすら、していないのだから。
「人と一線を画す力、賢者すら及ばぬ叡知、世界の全てを見通す瞳……誰一人、その足元に触れることすら叶わぬ者として生まれ落ちることが、どれ程お辛いことか。誰も近くに在らぬ孤独の辛さを、何故貴女が分かりませんの?」
分からないのだろう。
だから、その御心の在りようが、どれ程悲しいのかが、どれ程お優しいのかが、分からない。
「貴女ご自身が。弟を人質に取られ、味方の一人も居らぬ中貴族社会に身を投じ、矮小ながら相似な孤独の内に在ったのに。何故分かりませんの?」
強者に要求するばかりの者たちには。
陛下が、この世で誰よりも救われねばならない方だということが、分かっていないのだ。
救われるべき、誰よりも重い命であるということが。
「わたくししかいない、その通りですわ。でもそれは、貴女が諦めたからではないですか!」
陛下が強いから。
だから、何だと言うのだろう。
何の力もない幼子が一人で道に打ち捨てられていたら、多くの者が手を差し伸べるだろう。
まして誰も周りに居らず、心細そうにしていたら。
言葉が通じず困っている者がいたら。
幼子に対するほどではなくとも、親切にする者だっている。
では、強すぎるが故に同じ立場に在る者を、何故辛くないと思えるのか。
誰も話が通じない、誰も同じ立場に立てる者がいない境遇にあるのに、何故救う必要がないと思えるのか。
救われるべき者がいるとしたら、まず皆が救わなければならないのは、陛下なのだ。
そんな陛下が、どれ程の弱き者達をお救いになられていると思うのか。
ナバダを、イオを、ダンヴァロを、ミレイアを。
苦しむ臣民の多くを、お救いになる為に最初に手を差し伸べるのは、一体、誰だと思っているのか。
「わたくしがどれ程、陛下がお優しいのかを解いても! 陛下に並び立つ道を、わたくし達が目指さねばならないのだと解いても! 貴女はその意味を、自ら考え、理解しようともしなかったではないですか!」
皇帝として、ご即位なされた時に。
もし陛下が直接赴いて反乱軍を征伐しなければ、その進軍の先に居た人々がどれだけ犠牲になったか。
冷夏を気にもせず民から税を搾り取る領主を断罪し、支援なさらなければ、どれ程の民が死に絶えることになったか。
何の見返りも求めずに、ただそれを成したのは、陛下なのに。
なのに、誰一人陛下の御心を解するどころか、顧みもせずに戯れ言を投げる。
恐怖の皇帝と。
断罪が過剰であると。
救われた者達が、それを口にする。
強いから。
恵まれているから。
持っていないものなど、何もないだろうと。
そんな訳がないのに、決めつける。
陛下を救おうともせず、身勝手な恨みばかり押し付ける者らが。
「一体誰が、わたくしと共に、陛下の御心のお側に在ろうとしてくれたのですか!? 誰もいなくなりましたわ! 誰一人! 貴女が諦めたあの瞬間から!」
ナバダは、弟を救う望みがありながら、全てを諦めて、逃げ出す為に特攻したのだ。
大切なものを失うかもしれない恐怖に、耐え切れずに。
自分が死ぬことで弟を見逃してくれるかもしれない、などという、自らを虐げた愚者、西の大公ハルシャ・タイガの『一縷の良心』に……ありもしない幻想にすがって。
あのまま高め合っていれば、陛下はナバダを選んだかもしれなかったのに。
美貌も、魔力量も、才覚も、体の強さも。
境遇以外の全てで、アーシャよりも恵まれているくせに、逃げたのだ。
陛下御自身が横に立つ者を選ぶその時まで耐えて、『選択の機会』を残していれば。
別の形で、彼女かアーシャが……『お側に在る者を陛下が自ら選ぶ』という形で、陛下の御心に至れたかもしれなかったのに。
ナバダの愚行が、陛下から『選択の機会』すら奪い去ったのに。
それでも陛下は、彼女の望みを消さぬ為に手を差し伸べたのに。
何故そのナバダが、アーシャに『諦めろ』と口にしていいと思うのか。
この上アーシャが自分の強さを諦めたら、全てが終わるのだ。
頭と視界が、痛みと血が足らないことで朦朧とする中、アーシャはそれでも、憎しみすら込めてナバダを睨みつける。
「わたくしは立たねばならぬのです! 孤独の内に、陛下が……御身か世界を滅ぼしてしまわれる前にッ!」
「「……!」」
ナバダとウォルフガングが、その言葉に息を呑む。
何故失う怖さを、悲しみを、望んだとしても決して望むものを得ることの出来ない苦痛を、知っている筈の者たちが、弱さを言い訳にして諦めようとするのか。
アーシャには、まるで理解出来ない。
他人が弱くてもいい。
他人が諦めても構わない。
けれど、陛下の御心に寄り添うことを求めるアーシャの在りように口出しすることは、断じて認めない。
アーシャは、選んだのだから。
陛下を孤独からお救いすることを。
「陛下がその優しさで、わたくしがお側に立つのを待っていて下さる間に、立たねばならぬのです! 何故、それが貴女には分かりませんの!? 陛下と同じ孤独の痛みを抱えていたのに!」
「あんた……」
アーシャは、歯を食い縛り、そして声を張る。
「わたくしが立たなければ! 陛下か、わたくしの大切な家族の未来、どちらかを失うことになるのですわ! 何故、何故、何故分からないのです!!」
陛下は、ずっと独りなのに。
強いから、耐えられてしまうから、孤独に苦しんでいても、助けなくとも良いというのなら。
弱い者が同じ苦しみを味わっていても、声を上げても、助ける道理などどこにもない筈なのに。
強い側ばかりが助けるのが当然で、苦しんでいることすら思い付きもしない、弱者の傲慢のせいで。
まして、陛下の御心に届かぬ程度の者が。
陛下の御心に、届こうともせぬ者が。
「荒野に一人立つがごときお方の足元に、その目から見ればネズミと変わらぬ者がどれだけ群れ集おうと! そのネズミの一匹を戯れに愛おしんだとしても! 誰も陛下と同じ目で世界を見て、対話することすら出来ないのです! それがどれ程に陛下を悲しませているか! わたくしが、あなた達が弱いせいで!」
その瞬間、頬に衝撃を感じた。
ナバダの平手打ちが頬に入ったのだと気づいたのは、ジィン、と痛みが走ってから。
彼女は、その目に先ほどまでよりもさらに激しい怒りを浮かべていた。
「勘違いしてんじゃないわよ!」
「勘違い? わたくしが何を勘違いしていると!?」
「あんたもあたしたちも、ネズミじゃない。人よ! そして皇帝は……皇帝の心は、あんたが思うほど人と違ったりはしないわ!」
ナバダが再び、アーシャの肩を掴む。
「偉そうなことを言ったって、あんたを大事に思って、あんたの決意を圧してでも、金化卿からあんたを救ったのよ。今、あんたを殺されそうになって、あたしに噛みつかれて激昂したのよ! 『人』を大切に思う心を、たとえあんた一人に対してだけだとしても、ちゃんと持っているのよ!!」
彼女は引かなかった。
赦し難いことに、何も分かっていない彼女が、まるで陛下の内心を代弁するように。
「皇帝を化け物にしてるのは、化け物のままに留め置いてるのは、あんた自身じゃないの! 皇帝を『人』に出来るのは、あんたしかいないのに!! アーシャ・リボルヴァ! 皇帝の心が本当に欲しいなら、あんたの弱さが、必要なのよ! あんたは、一人の非力な、公爵令嬢でしかないんだから! 弱いことを認めて、皇帝を変えないといけないのよ!」
「お断りですわ!!」
「何ですって!?」
やっぱり、ナバダは分かっていない。
陛下のことも、アーシャのことも。
だから、そんな愚かな言葉を口に出来るのだ。
「……わたくしは……わたくしが、陛下のお側に寄り添いたいのですわ!! 寄り添っていただくのではなく! 陛下に『変われ』と押し付けるのは、弱者の傲慢でしかありませんわ!!」
アーシャは、ナバダの腕を振り払う。
「わたくしが周りから押し付けられて一番煩わしかったものを、陛下に押し付けろと言うのですか!? それがどれ程酷い言葉であるかすら分からぬから、貴女は愚鈍な諦めに浸れるのですわ!!」
何も分かっていないから。
自分達と同じ考えを持つことが、当然と考えるから。
「それは心地よいのでしょうね! 自分が弱いと諦めて、異質なものを理解する努力を、並び立つ努力を放棄し続けるあなた方だけは!! 心地よいのでしょうね! 弱いから強い方に理解させればいいと、それが全て赦されると思っていれば良いのですから!!」
《鉄血の乙女》と。
アーシャを、公爵令嬢らしからぬと、どれだけの者が口にしたか。
アーシャはアーシャであるだけなのに。
恋する狂気と。
その行動を、信じがたいと。
正しいと思うことを、成し続けているだけなのに。
化物令嬢と。
この容姿を、醜いと、隠せと。
己の愚行を退け、妹を救った、誇らしい証であるのに。
ーーー『変われ』と。
自分達が『普通』で、お前がおかしいのだと。
アーシャという個人を、その在りようを、認めぬと、理解出来ぬと。
大切な両親や妹自身ですら、アーシャの誇りを、不憫だと。
本当に、アーシャの心の在りようを、丸ごと認めて下さったのは。
「ーーー陛下は、わたくしを受け入れて下さったのです! わたくしの在りようを赦して下さったのです! 本当はご自身が一番、ご自身を受け止められる存在を、救いを、赦しを、求めておられるのに!」
孤独の中、今もそこに居続けてくれていることが、優しさでなく何だと言うのか。
陛下に断罪された者達は、誰も彼も、他者を傷つけ、虐げる者ばかり。
無辜の民を自ら傷つけたことなど、一度もない。
今すぐにでもすがり付く弱者を払いのけ、その煩わしさの全てを、その手で終わらせることが出来るお方が。
それでも弱き者を救いながら、手を差しのべながら、生きていて下さっているのに。
アーシャがそのお側に立つのを、待っていて下さっているのに。
だからアーシャも、陛下を、ありとあらゆる者達を、丸ごと受け止められるようにならなければいけないのだ。
陛下のように。
「ありのままを救われたわたくしが、陛下に『変われ』などと……何故言えますの!? 待つことすら出来なかった貴女が、何故言えますの!?」
恐怖と孤独に耐えきれなかったから。
陛下に並び立つのを諦めたから。
アーシャに勝つことを、諦めたから、ナバダは。
「そんなだから、貴女は負けるのです! 機を待てずに、暗殺などという下策に走った貴女のように、わたくしは決してなりませんわ! 出来る出来ないではなく、失わぬ為にやるのです!」
成さねば、失うから。
そのままの陛下か、大切な人たちの未来、どちらかを失うから。
「陛下が陛下のまま在り、その御心を、悲しみを、孤独を、満たして差し上げる為にはーーーわたくしが、強く在らねばならぬのです!!」
どちらかが変わらなければならないのなら。
他者に変わることを要求するのではなく、自らが強く変わるのだ。
他人に押し付けられる役目ではなく、自らの意志の下に。
アーシャは魔剣銃を捨てて、ナバダの頬に平手を打ち返す。
「ナバダ・トリジーニ! 陛下やわたくしに『変われ』などと、そのまま在るなと! 努力を諦めて、弱者の立場に浸る貴女に、そんな傲慢を押し付ける資格はございませんわ!」
やればいい。
他人に要求する前に、自分がやればいいのだ。
「『変われ』と言うなら、貴女が『変われ』ばよろしいではありませんの!! 陛下と並び立てるように、貴女が努力をすればよろしいのですわ!!」
少なくとも成り代わろうとしていた金化卿のほうが、諦めていても陛下に何も要求しなかったフェニカの方が、愚かであってもナバダに比べたらまだマシだ。
「出来ますの!? 自分は出来もしないくせに、他者には『変われ』と!? 偉そうなことを言うんじゃありませんわ!! 弟一人、自分の手で助けることも出来なかったくせに!!」
自分は生きることすら、一度諦めたくせに。
陛下の御心を考えることもなく、自分が楽な方向に逃げたくせに。
「陛下はお独りなのです! 生まれた時からずっと! そんな事も分からないのに! 貴女は口出しせずに、似たような諦めを抱いた者達と傷を舐めあっていればよろしいのですわ! 仲間が幾らでもいるんですもの!! その間に、わたくしが全員救って差し上げますわ!! 陛下の御心に寄り添って! 他者を虐げる愚物を全て平定して! その為に、腕の一本くらい……ゼェ……無くなったって、構いませんわ!」
激情と疲労で、アーシャは止まれなかった。
その内心を、今まで我慢してきたことを、全てぶち撒ける。
自分が弱いことに対する鬱屈を、全て、ナバダを攻撃する刃として刺し続ける。
「『変われ』と言うなら、世界を滅ぼさぬ為に、わたくしが陛下を失わぬ為に! 今すぐわたくしの要求に応えて、わたくしよりも強い貴女が! 陛下と並び立つ存在に『変われ』ば良いのです!」
陛下にそれを要求することが、理不尽とすら思わないなら、同じ要求を突きつけるだけだ。
出来るというなら、やればいいのだ。
やってくれるなら。
自分は弱いからと言い訳して、この世で一番孤独な方を放置して『善し』とする行為を、アーシャは決して赦さない。
「誰だって構いませんわ! 誰だって! 陛下を、その孤独からお救いすることが出来る誰かが居るなら、わたくしでなくたって! 最愛の陛下の、誰よりも、救われるべき御心さえ満たされる、なら、それで! ゼェ……ヒュ……でも、わたくししか、いないの、です! 何も、出来ない、貴女には……ゼェ……目指す努力すら、放棄して、何もしないあなた方に、は!」
限界だった。
呼吸すら覚束なくなり、それでもアーシャは、精一杯息を吸い込んでから、叫ぶ。
「たとえ陛下が、孤独と退屈の内に、この世を滅ぼされたとしても! わたくしが、どのような状態になったとしても! それに口を出す資格など、ありませんわ!」
アーシャは意志の力で立ち続けることも出来なくなり、膝が勝手にガクンと折れる。
しかし、倒れ伏す前に。
目の前で膝を曲げたナバダに、下から支えられた。
「離し、なさい……!」
「それは出来ない相談ね」
ナバダは、顔は見えないけれど、何故か静かな声音で答える。
「あんたは正しいわ。いつだって真っ直ぐで、凄く正しい。だから……どれだけ弱くても、あんただけが、皇帝に届いたのよ」
「……?」
「私は諦めた。だから文句を言う資格もない、その通りよ。あんたみたいに、皇帝や世界の為に、変わろうと、強くなろうと考えることすらないんだから。あんたが居なきゃイオを一人で助けられなかったのも、事実だから、それに関しても何も言えない。……けど、あたしみたいな何も出来ない、資格のない凡人でもね」
と、ナバダはそこで何故か、おかしそうな笑みを滲ませた声で、こう告げた。
「あんたと皇帝をその苦しみから救うことだけは、簡単に出来るのよ」




