めちゃくちゃ怒ってやがるな!
「カカカカカ!! 愉しいなァ!! なァ!?」
今までにない程に高揚している、ロウシュを目にして……ベリアは呆然としていた。
ーーー見えない。全く。
そこで戦っていることは、分かる。
蜘蛛の足を持つ魔性の巨体が、とてつもない速度で跳ね回ることで地面が抉れる様子。
円を描くような足の動きで軽やかに刃を振るう、ロウシュ。
それは、見えるのだ。
しかし、その巨体が次にどのように動くのか。
ロウシュの両腕が、どうやってその攻撃を防いでいるのか。
それが、まるで読めないのだ。
ロウシュの動きは、魔性に比べれば決して速い訳ではない。
むしろ動きは必要最小限なのに、刃を置いた場所に魔性の攻撃が飛んできて、防ぐ。
魔性がいきなり影に潜もうと、瞬間的な移動であり得ない角度から攻撃を仕掛けようと、それがロウシュに届かない。
逆に、いきなり掻き消えるような速度で彼が腕を動かしたかと思ったら、魔性の体が引き裂かれて紫の血飛沫が舞う。
世界最高峰の戦闘、が、一体どういうものなのか。
『この速さが必要だ』とロウシュが言ったのは、全く間違いではなかった。
「カカカ、テメェにゃ核があるなァ!? そろそろ届かせてくれても良いんだぜェ!?」
『強』
「おぉ、ワシを強いと認めるか! ワシもまだまだ捨てたもんじゃねぇなァ!?」
『狂』
「カカカカカ、そいつに関しては今更よなァ!!」
ーーーこれが……アーシャ様の目指すもの……。いや、もっと……。
ベリアは絶望していた。
初めて、アーシャ様の目標が無謀に見えた。
この地に来てから、ナバダが彼女に苦言を呈するのを見るのは、決して良い気分ではなかった。
しかし、こんな。
ーーー皇帝陛下に並び立つなど……不可能なのでは……?
これだけの戦闘を繰り広げる、ロウシュが。
〝六悪〟の眷属であろう魔性に、一歩も引かないどころか明らかに優位な戦闘を行なっている、アーシャ様の師匠の腕を……手加減なさった上で、さらに斬り飛ばしたのが、皇帝陛下なのだ。
『喜』
魔性が口にした言葉に、ロウシュが同じく喜びの表情で応える。
「カカカ、テメェも同類か! 覇を競うは至高よな!」
『是』
そんな、親しげな会話すら交わしながら、それでも両者の動きは止まらない。
ふらりと思わず後ろに下がったベリアの背中に、イオがそっと手を添えてきた。
「ベリア? どうしたの?」
「無理だ……アーシャ様、は……」
思わず、目尻に涙が滲む。
「どれ程の努力をしても……きっと、皇帝陛下には届かない……」
口にすると、また涙が溢れる。
あれ程、お望みになっておられるのに。
アーシャ様は決して、その望みには手が届かないのだ。
それがベリアにも分かった。
分かって、しまった。
「アーシャ様、は……アーシャ様の、努力は……」
無意味。
革命は成せるかもしれない。
〝六悪〟もきっと、アーシャ様なら倒してくれるだろう。
けれど、アーシャ様の本当の望みは……そうした偉業を成し遂げることでは、ないのだ。
「ベリア……」
「どう足掻いても届かないお方を……愛してしまった、アーシャ様は……どうなってしまうのだ……」
その先にある最悪の結末を、口にしたくはなかった。
口にしたら、現実になってしまいそうで。
「私は……アーシャ様の気高さに、どれ程の逆境にあろうと決して諦めないその在り方に、その御心に、忠誠を誓ったのに、私は……」
理解してしまった。
彼女が挑む最大の逆境が、逆境ではなく、ただの無謀なのだと。
けれど決して、アーシャ様はその道を諦めないだろう。
その事実に……ベリアは絶望してしまったのだ。
「アーシャ様は……」
「ベリア」
不意に、ベリアはイオに後ろから体を抱かれた。
自分と同じくらいの身長の、青年の顔が肩口に乗り、耳元に囁かれる。
「そうはならない。きっと、そうはならないから。だから、落ち着いて」
イオの声に、ベリアは涙が滲んだ視界の端に、彼の顔を捉えて問い掛ける。
「何故、そう、言える……?」
「姉さんが、いるからだ」
イオの声には、ハッキリと信頼が滲んでいた。
「姉さんは、答えを見つけた。アーシャ様の無謀に、ただ一人正面から向き合って、今までアーシャ様に苦言を呈して来たのは、姉さんだから」
ナバダ。
『村を任せる』と、背を向けて駆けて行った彼女の姿を、ベリアは思い出す。
「だから、答えを見つけてくれた姉さんなら……きっと、何とかしてくれる筈だ」
「どう、出来るという? アーシャ様は、皇帝陛下に並び立たんと挑んでおられるのだ……貴族学校で遠目に見た時から、ずっと……そう仰っていることを、皆が知っている……」
その望みを諦めたら。
あれだけの努力をしてまで求めたものを諦めたら、アーシャ様はどうなってしまうのか。
あの方は、ただただ皇帝陛下を想い、横に立つことを求めておられるのに。
民に対する、臣下に対する広く大きな慈愛を抱ける程の高潔な心で、崇拝する陛下の御許に辿り着くことを至上としておられるのに。
その目標が、折れてしまったら。
「方法は、分からない。姉さんの見てきたアーシャ様は、姉さんだけのものだから。もしかしたら、そこに俺達とは違う答えがあるかもしれない。……それを信じたいと、俺は思う。だってそれはアーシャ様と、姉さんが選んだことだから」
「……アーシャ様と、ナバダが……?」
「そうだよ。ロウシュが言ってただろう? アーシャ様は、色んな人の生き方を信じてるって。姉さんも、信じることを決めた。だったら、アーシャ様に従う君が、姉さんを大切に思う俺が……二人の選択を信じないのは、嘘だろう?」
選択。
自ら選び取ること。
誰かに従うと選んだのなら、その、心までもを信じること。
「仰せのままに、と、私は、アーシャ様に……」
「そう。でもそれは、盲目的に信じることとは違う。アーシャ様が、一体何を考えて、何を望んで、どう行動してきた人なのか。それを知った上で……それでも従うのが、忠誠ってやつなんじゃないのかな」
「……私は、アーシャ様のことを、何も」
何も、知らない。
昔は、遠目に見ていただけだった。
その強い生き方に、憧れていた。
ナバダのように、対立し、無数の言葉を交わし、その上でアーシャ様と共に在るようになった訳では、ないのだ。
陛下に言われて、喜んでこの地に来た。
そして、拒絶を。
『救われるべき者を第一に考え、国の在りようを示すのが貴族』だと。
それがアーシャ様の望む、忠臣の在りようだと。
「私は……アーシャ様を、知らない……」
ベリアの選択を受け入れない、と理解を示した上で拒絶したアーシャ様と違い。
あの瞬間まで、ベリアは自分の理想を、あの方に押し付けていただけだったのだ。
自分は、アーシャ様の内心を知ろうとする努力を、していなかった。
「私の忠誠は……私の……私のこと、だけを……」
「そうじゃない。君は今まで、知らなかったことがあっただけだ。アーシャ様は君の忠義は受け入れるけど、示し方が間違っていると言っていたんだ。だから、これから知れば良い。今までの君の忠誠が、アーシャ様を大切に想う心が、偽りだった訳じゃない」
イオの言葉は、どこまでも優しくて。
だからこそ、身を引き裂くような痛みを感じた。
「あの方を、支えて差し上げたい……と、私は、今でも……そう思うのだ」
「分かるよ」
「けれど、私には、力も、あの方の内心を慮る深慮も、なかった」
「そうだね」
「これから、が、あるのなら……」
ベリアはそこで一度唇を噛んで言葉を殺し、別の問いかけを、それでも震えてしまう声で呟く。
「私より、アーシャ様を知るナバダは…………あの方を、救ってくれるだろうか…………」
「姉さんなら、きっと」
そうしたやり取りの間に、目の前の闘争は決着がついたようだった。
「おい!? 逃げんのかァ!?」
『惜。再』
意外なことに、それは命の奪い合いによって決着がつかなかったようだった。
魔性が何かを気にして、大きく飛び退ったのだ。
そうして、呼びかけに答えた直後に、忽然と姿を消した。
「チッ……流石に、逃げられたら追えねーなァ! せっかく久々に楽しい死合いだったのになァ!!」
珍しく不機嫌そうにガシガシと頭を掻いたロウシュは、左の太刀を鞘に仕舞う。
すると、まるで最初からそこになかったかのように、彼の右腕がもう一本の太刀と共に消えた。
「早ぇなおい!?」
だが、それで脅威が去ったと理解したのか、ジッと真剣に戦闘を眺めていたシャレイドが口を開く。
「今回は、お前の対処できる範囲だったから何とかなったが。今後もう一度、同じようなことがあったら……『魔性の平原』から出て行けよ」
「カカカ! 安心しろよ、シャレイド。雑魚弟子が絡んでなかったら、流石にやらねーからな!」
すぐに機嫌を直したらしいロウシュと、とんでもなく不機嫌なシャレイドのやり取りを聞いて、ベリアは遠くに目を向ける。
「アーシャ様の戦いは、終わったのか……?」
「まぁ、そうだろうな! あの焦りようだからな!」
ロウシュの言葉に、ふとベリアは気付く。
「なら、あの魔性を逃してはならんだろう!」
もしフェニカが負けてあの魔性、ニールが向こうに行ったのなら、アーシャ様が危険だ。
血の気が一気に引いたベリアに、ロウシュが片眉を上げる。
「これだから雑魚はよ。気づかねーのか?」
「何を……」
と、言いかけたところで、森の方に暗雲が渦巻き徐々に大きくなっていくのが見える。
「あれ、は?」
「皇帝が森にいる。……しかもめちゃくちゃ怒ってやがるな!」
カカカ、とロウシュが笑うが、ベリアは笑えなかった。
イオもシャレイドも、顔を強張らせている。
黒雲の方から突然吹き抜けてきた、地鳴りを伴う魔力の波動は……根源的な恐怖に脳裏が痺れる程、とてつもないものだったから。




