戻りますわ!
そうして、『魔性の平原』に帰還する日。
アーシャは旅支度を整えて、畏れ多くも御自ら送って下さるという執務室の陛下を訪ね、まず御礼を申し上げた。
「陛下御自ら送迎していただけることに、感謝致しますわ!」
「良い」
アーシャが頭を上げると、頬杖を突いた陛下に質問を受ける。
「ミレイアは、そなたの言葉を受けたか」
「受け取られた、と思いますわ。未だ救われてはおりませんけれど!」
アーシャがミレイアに語った言葉は、ただの道標である。
彼女にかけたのは慰めの言葉ではなく、変えられない事実を受けて、心に折り合いをつける為の手助けであったから。
でも何となく、ミレイアは死を選ばないだろうと、アーシャは思っていた。
陛下はその答えをどう思ったのか、小さく微笑まれる。
「そなたの思う、救いとは?」
「生きている者が未来に、そして自らの幸福に目を向けることですわ」
そのような問いかけを陛下がなさるのは珍しい、と思いながら、アーシャは即答する。
「死者を想う者は、未来を見ていないか」
「想う事そのものが悪い訳ではありませんわ。けれど、想う者が死ぬまで囚われてしまうのであれば、それは必要のないものかと思いますわ」
例えばそれが、『大切な人を大切に想う気持ち』であれば、そのまま抱いていても問題はないだろう。
けれど、ウォルフガングやミレイアのように、奪われた者が囚われる気持ちは、死者との思い出ではなく、『奪った者への恨み』なのである。
「恨むことが、やがて自らの幸福へと繋がる道筋でないのであれば、捨てること。捨てられないのであれば『終わる』ことが慈悲であり、救いでしょう」
恨みは、言うなれば他者を害する気持ちである。
復讐の対象となった者に対する害意だけなら、まだ良い。
けれど暴走した復讐心は、得てして関係のないものまで巻き込んで肥大化する。
そう、ウォルフが彼の婚約者を奪った貴族本人を既に殺しているにも拘わらず、未だにフェニカや陛下までも恨むように。
では、その両名を殺せば納得するのかとウォルフガングに問いかけても、今の彼は本当の意味での答えを出せないだろう。
口では、納得すると言うかもしれない。
けれど成し遂げたとしても、ウォルフガングが満たされることはない、とアーシャは思う。
「何をしたとて、死者は戻りませんわ」
彼が本当に取り戻したいと思っているのは、彼の婚約者なのだ。
それを守り切れなかったという悔恨は、折り合いをつける以外の方法では昇華されない。
『その為の手段が復讐である』という明確な自覚を、ウォルフガングは未だ持ち合わせていないのだから。
だから揺れる。
納得し切れていないから、その手段を探している最中なのだ。
「戻らぬ事実と自分の心に折り合いをつける為でないなら、気が晴れることすらないのならば、復讐心はやがて、世界そのものへと向くでしょう」
憎しみという負の感情を原動力に未来を向かず、過去に囚われ続ける者は、決して幸福にはならない。
常に被害者としての意識を持ち続け、その気持ちによって、さらに不幸への道を歩むのだ。
人を遠ざけ、遠ざけたことでさらに孤独になる。
それで生きている意味は、どこにあるのか。
死なないだけであれば、生きることで満たされないのであれば、他者を害し続けるのであれば、その歩む道は即ち餓鬼道。
そのような者は、生ける屍と変わらないのだ。
「死者への想いは、不要か」
「そこまで極端ではございませんわ。ですけれど、死者よりも生者の方が、わたくしにとっては大切ですもの。折り合いは大切ですわ」
ーーー今を生きる者ならば、やがては幸福に。
アーシャはそう思う。
気持ちに折り合いをつけられぬまま、最後まで不幸なまま死ぬことになるのなら、他者を害することにしか生きる意味を見出せない者が生きる理由とは、何なのか。
今死んでも、変わらないではないか。
ひっそりと生きるだけならともかく、周りに不幸を振り撒くのならば、尚更。
だからアーシャは、ナバダにもウォルフガングにも告げた。
他者を害する為だけに生きる餓鬼と成り果てるくらいならば、その前に命を断てと。
そうして、自分よりもさらに弱い者に害意を向けるようになる前に。
別の者を不幸にするだけの生なら、誰かを不幸にする前に。
そう、思いたくないから。
そんな生き方をして苦しむ者を、アーシャは悲しいと思うから。
だから、人が生きる以上は幸福であって欲しいと願う。
気持ちに、折り合いをつけて。
心の傷を癒して。
取り戻せるものなら取り戻して。
折り合えない間は、復讐を胸に悩めば良いとは思うけれど……少なくとも最後に自らの幸せを求められない者は、周りを幸せにすることも出来ないのだから。
幸福を得るための手助けならば、アーシャはしたいと思うから。
陛下に関することを除いて、だけれど。
「では、そなたは。家族を失った時。あるいは我が身罷った時は、どう折り合いをつける?」
その質問に、陛下は楽しげな色を瞳に浮かべた。
アーシャがどう答えるのか、きっと分かっていらっしゃるだろうに。
だって陛下は、ミレイアとアーシャの会話を聞いていたのだろうから。
「父母が、ミリィが死ねば悲しみますわ。そして存分に悲しんだ後は、楽しかった日々に想いを馳せて生きるでしょう」
そして、もう一つの質問に答える前に、満面の笑みを浮かべてみせる。
「陛下が居なくなるのであれば、わたくしも消えますわ!」
アーシャが先に死んで、陛下を待つのならともかく。
先に旅立たれた陛下をお一人にするなんて、アーシャにとってはとんでもない事である。
せめてお側に寄り添えるように、すぐに後を追うだろう。
アーシャにとっては陛下のいない生など、それだけで不幸である。
ミレイアには『陛下を害すれば復讐をする』と答えたけれど、そもそも陛下のお命を奪える者などこの世に存在しない。
おそらく陛下が消え去る時は、自らお命を絶たれる時と、寿命を迎えられた時くらいである。
どちらにせよ、すぐに後を追って何も問題のない状況だ。
すると陛下は、さらに仮定を問われた。
「では、死者を取り戻せるとしたらどうする? そなたなら、手の内に戻るとすれば、それを願うか」
意味のない仮定だった。
けれど、アーシャは陛下の御言葉故に、それについて考える。
そう、例えば陛下の御力をもってすれば、不可逆の死すら覆せると考えたなら。
「わたくしは望みませんわ。残された生者が恨みを抱くような死に方をなさったのなら、尚更」
「その意図は」
「死者が蘇りを望むのであれば、選択するのはその死者当人であるべきだからですわ。辛き記憶を抱く者もおりましょう。その方を、意に反して蘇らせることはあってはなりません」
ウォルフガングの婚約者を仮定するのなら、彼女は凌辱されて自害の道を選んだ。
それは、他者の選択である。
それも他の誰かではなく、自分の命の終わりを自ら選んだもの。
ならそれは、アーシャが干渉すべきことではない。
婚約者であるウォルフガングが望んだとしても、それは彼の選択であり、死を望んだ者の選択ではないのだ。
「さらに問う。では、辛き記憶を消して取り戻せるとしたら」
陛下の御言葉に、アーシャはうっすらと笑みの種類を変えて咲う。
「それが、死者ご本人の望みであるならば」
アーシャの答えは変わらない。
記憶が失せたとしても、辛き経験に際して死を選ぶのであれば、同様のことが起こった時に同じ道を辿るだろう。
そして死を選ぶ程の経験を他者が勝手に消すのなら、それは死者の選択を無下にするのと同義。
お互いに相容れない時に否定し合うことと、選択する自由そのものを奪うことは、アーシャの中では明確に違うのである。
そして偽りの幸福ほど、裏を返した時に他者の心を傷つける行為は、この世に存在しない。
信じた者に裏切られた時、人は最も恨みを抱くのだから。
陛下は、アーシャの答えに満足して下さったのか、一つ頷かれると立ち上がった。
ーーーけれど、釘を刺されてしまいましたわ!
アーシャは、陛下の御言葉の真意をそう考えた。
結局、命を失うことに『二度はない』のだ。
これはそういう話だった。
次に自分が命を失うような事態に陥ることがあれば、陛下は今度こそアーシャに挑戦を止めるように告げるだろう。
陛下の御心が得られないままに、お側に上がることになってしまう。
それだけは何としても、阻止しなければならない。
ミレイアの話の後に『死』に関する話題をお続けになったのは、再度の旅立ちを前に思い出させる為。
勿論、陛下の御下命を忘れることなど、アーシャにはあり得ないのだけれど。
「送ろう。手を」
「感謝致しますわ!」
ここ最近、玉体に触れる機会を多く得られて嬉しくも恥ずかしいアーシャは、そっとその手を取った。
そうして村の側に転移し、陛下と名残惜しくも別れて〝獣の民〟の村に向かうと……広場で、ナバダとイオが、長い白髪と髭を備えた老人と対峙していた。
〝獣の民〟らが遠巻きにしており、何だか一触即発の雰囲気である。
「……何をなさっておられますの?」
アーシャが目をぱちくりさせながら問いかけると、全員の視線が一斉にこちらに向く。
「村の中で、暴力を振るうような喧嘩は御法度と聞いておりますけれど。シャレイドはどこですの?」
村長の名前を出すと、側で見ていたウォルフガングが口を開いた。
「いや、それがな……」
「この爺さんが、いきなり仕掛けて来たのよ!!」
ダガーを構えたナバダが答えるが、イオは厳しい表情のまま、老人から視線を逸らせないようだった。
アーシャは、そちらをチラリと見やる。
刀を構え、皇国では見慣れぬ衣に身を包んだ隻腕の老人に、アーシャは溜め息を吐く。
「大体分かりましたわ。……お師匠様。少しでも強そうな相手と見れば挑みかかるのはおやめ下さいと、以前より何度も申し上げておりますでしょう」
「「師匠!?」」
ナバダとウォルフガングの声が重なるが、彼らが驚いた理由はそれぞれ違うようだった。
「この爺さんが!?」
「ロウシュが!?」
「ええ」
ナバダは彼がアーシャのお師匠様という事実に、顔見知りらしいウォルフガングはアーシャとの繋がりに、驚いたのだろう。
答えたアーシャが歩いて行って真ん中に割り込むと、ようやくお師匠様は刀を下ろした。
「雑魚弟子、テメェは相変わらず邪魔ばかりするな!」
「こういうのは邪魔ではなく、阻止というのですわ! 何でナバダ達に仕掛けてますの?」
「最近、人を斬ってなくてな!」
「知ったことではございませんし、厄介ごとを起こさないで下さいませ!」
「自分は厄介ごとを起こしまくる人生を送っておきながら、よく言うものよな!」
大変心外なことを言われて、アーシャはつん、と唇を尖らせた。
「厄介ごとなど、引き起こそうとはしておりませんわ! 自らの心のままに在るよう努めているだけでしてよ!」
「そいつが厄介だってんだよな!」
「「それは同感だ」」
ナバダとウォルフガングまで同調したので、アーシャが眉根を寄せていると。
カカカ、と笑ったお師匠様が、器用に片手で刀を収めると顎髭を撫でる。
「全く、雑魚弟子よりは骨がありそうだったのにな!」
「……それは多分事実ですけれど、ナバダはお師匠様が満足するような相手ではございませんでしょう。そもそも、何でここが分かりましたの?」
「ワシも今は、獣故な!」
その言葉に、なるほど、とアーシャは納得した。
お師匠様は、しばらく姿を見ないと思っていたら〝獣の民〟の一員になっていたらしい。
だから陛下が『遣わす』と言ったのだ。
「一応ナバダ達も今は〝獣の民〟であり、村の一員ですの。無体はおやめ下さいな。シャレイドに怒られますわよ!」
「どうでも良いが、獣なら仕方ねーな!」
お師匠様が肩を竦めるのを見て、アーシャは改めてナバダらに目を向ける。
「戻りましたわ!」
「おう、お帰り」
「見たら分かるわよ」
二人が答えるのと同時に、アーシャの到着を誰かに伝えられたのか「アーシャ様ー!」とベリアが走ってくるのが見えた。




