淑女の体にみだりに触れてはなりませんわ!
「そのドレス、紅蓮のヤツよね? 貴女のお祖母様の。……なら、これくらいやっても死にはしないでしょう?」
フェニカが言いながら、パチン、と指を鳴らす。
何らかの合図。
けれど、何も起こらなかった。
「あら」
「ふふ。これくらい、というのは、どれくらいですの?」
アーシャは、嫣然と笑みを浮かべながら、扇を閉じる。
「リボルヴァ公爵家の〝影〟の力、あまりナメない方が宜しいですわよ?」
フェニカの合図は、おそらく自分の私兵を動かす為のものだったのだろう。
観葉植物の、ベッドの、机の下の『影』の中辺りに魔術で潜んでいる者達が居たのだろうと思うけれど、おそらく今、同じく潜んだこちらの〝影〟に首元を押さえられて動けなくなっている筈だ。
アーシャに限らず、リボルヴァの直系、そして高位貴族の多くは、そうして守られている。
本来は皇都でも旅先でも同様に守られるけれど、アーシャは『魔性の平原』に旅立つ際にそれを断った。
旅立つ前に婆やに聞いた話によると、〝影〟らはお祖母様に付き従って各地の戦乱を飛び回った、という婆やを筆頭に、歴戦の勇士によって鍛えられた者達。
婚約者候補として覇を競っていた、ナバダが……本来は暗殺に特化した能力を磨き、魔力を読む優れた『目』を持っている彼女でさえもが、かろうじてその存在に気付けた程度。
アーシャを暗殺する隙の至っては髪一筋すら見つけられなかった、という手練れの群れである。
けれど、フェニカは狼狽えなかった。
「ふぅん……なら、これでどうかしら?」
フェニカがちゅっ、と小さく、口づけを投げるように唇を鳴らすと。
アーシャの視界が.
ぶつん、と半分、いきなり塞がれた。
ーーー!?
見えなくなったのは、右目。
陛下から授かった義眼の視力である。
ーーー陛下の魔力が、切断された……!?
それは驚愕に値する所業だった。
例え魔力の一筋とはいえ、まさか陛下の行いに干渉する程の魔術を、彼女が操るとは思っていなかったのだ。
けれど、驚き、思考したのはほんの一瞬。
扇を投げるのではなく、持つ手から力を抜くことで最速で取り落とし、両脇の下に手を差し込みながらアーシャは後ろに跳ぶ。
直後に、今自分がいた空間を上下左右から串刺しにするように、矢が飛来してお互いにぶつかって弾け、あるいは地面に突き立った。
アーシャはそのまま部屋の外に、扉を突き破って出ようとしたが……その背に当たる筈の出口の扉の感触が、ない。
彼女が座る部屋の床以外が消滅し、その周りには深淵の闇が広がっていた。
部屋の片隅に控えていた、侍女や侍従の姿も消えている。
「……《異空結界》……!?」
「ご名答よ」
魔導書に記されていたので知識として知ってはいたけれど、実際に目にするのは初めてだ。
《異空結界》は、現世から、術師を中心とした一定の空間とそこに在るものを切り離し、力量に応じて広がった異空間と呼ばれる場所に閉じ込めるもの。
陛下が、金化卿を弑すのに行った、陽光を召喚した空間魔術と、同系統の魔術である。
多分、それによって〝影〟らもアーシャ達から切り離されたのだろう。
一部は【淑女のバッグ】のような物を収納する魔術として残っているが、部屋を丸ごと切り離すような規模で、呪文も魔導陣もなしに行使するのは、尋常ではない。
ほぼ遺失魔術に近いのだ。
凄まじい魔術の練度と理解の深さ、そして膨大な魔力がなければ、なし得ないこと。
ーーー強さを好む、という評判に、偽りなしですわね!
フェニカ自身が、途轍もない魔術師なのだ。
そう思いながら、闇そのものなのに感触のあるそこ……本来なら扉をくぐり抜けた廊下に位置する場所に、アーシャが着地すると。
再び、ちゅ、と音が鳴る。
魔剣銃を引き抜いたアーシャは魔力で銃剣を形成し、矢の飛来する音を頼りに、自分の体に当たる軌道にあった複数を一息で斬り伏せた。
こちらは、招来の魔術だろう。
先ほどの矢も今の矢も、誰かが放っているのではなく、空間を自由に繋げるフェニカによって招来されたものなのだ。
キキキ! と重なるような甲高い音の余韻が残る間に、アーシャは銃口をフェニカに向けて引き金を絞った。
放ったのは、最も破壊力のある《火》の魔弾だったが、フェニカに到達する前にフッ、と消滅する。
「やるじゃない! 思ったより強いのね! 目も塞いだのに!」
歓喜の声を上げるフェニカに、アーシャはトン、と一度その場で跳ねてから、距離を詰めた。
「元々、隻眼でしてよ!」
視力が陛下の御力で回復したのは、つい最近である。
それまでアーシャは、隻眼のまま魔剣銃を操り、死角となる位置から来る一撃を音で探る訓練をしていたのだ。
むしろ、本来の戦闘スタイルはこちらなのである。
そして飛び道具が届かないのであれば、近接で始末するしかない。
「フッ!」
一直線に跳んだアーシャは、魔力の刃でフェニカの頭を狙ったが……その刃が、横から突き出してきた拳によって弾かれる。
それまで黙ってこちらのやり取りを見ていたニールの、無感情な瞳がアーシャを捉えていた。
「卑怯ですこと!」
「手加減よ、むしろ」
ドレスの裾を翻して身を伏せたアーシャの頭上を、ニールの蹴りが疾り抜ける。
先に彼を始末しようと、テーブルを肩で押し上げたアーシャは、その跳ねて視界を遮った板の後ろから魔弾を連射した。
ガガガガガ! と音を立てて貫かれたテーブルが燃えた以外に、手応えはない。
ーーー後ろ!
ニールが回り込んだ気配を感じたアーシャは、優雅に座ったまま微動だにしないフェニカの頭上を飛んで盾にする。
しかし、ついでに彼女の頭を狙うと、それもまた、彼の拳で叩かれて軌道を逸らされた。
そのまま、フェニカの背後にあった寝具に着地しようとしたが、その前にニールに腕を掴まれて、一瞬で組み伏せられる。
まるでベッドに押し倒されたような姿勢で。
「あら……淑女の体に触れるなんて無礼ですこと!」
と、アーシャは無表情にこちらを見下ろすニールの股間を膝で蹴り上げようとしたが……その前に、彼の体が消滅した。
同時に、右目の視力が戻る。
「あらぁ……思った以上に早いですわねぇ、皇帝陛下?」
アーシャが上半身を起こすと。
天蓋のある寝具の隙間から、変わらぬ姿勢で座るフェニカと、その前に立って眉根を寄せている陛下の姿が見えた。
「酷いですわ。わたくしの夫を、呆気なく殺してしまわれるなんて」
「何をしている」
いつの間にか、部屋の周りの壁が復活していた。
異空間を、陛下がその御力で砕いたのだろう。
「ふふ、ちょっとしたお遊びですわ。陛下が認める婚約者が、どの程度の者なのか興味がありましたの」
「……害意はなかった、と?」
「ええ。その証拠に、わたくしは死んでおりませんでしょう?」
部屋の中に、何人かの死体が転がっている。
どれも、アーシャが人が潜んでいると感じていた場所……ベッドの側やテーブルのあった位置だ。
全員肌がどす黒いと感じるような紫に染まっており、何らかの魔術によって命を奪われているようだった。
「行使なさったのは、アーシャ様に害意を持っていた者を殺す魔術ですわね……ふふ、相変わらず、容赦がございませんこと。同じように害意を持っていなかったニールが直接殺されてしまったのは、アーシャ様のお体に触れたからかしら?」
どことなくうっとりしたような声音のフェニカは、ニールが殺されたことに対しては何も感じていないようだった。
「そなたを見逃す道理もない」
「あら、構いませんけれど、今ここでとなると、少々南部が荒れますわよ? それが分かっていたから、お見逃しになったのでは?」
フェニカは、小さく首を傾げてから、こちらを振り向く。
「アーシャ様が、それではよろしくないと思うから……でしょう?」
「陛下、見逃して差し上げてもよろしいかと思いますわ。もちろん、陛下のご決定であれば、わたくしはそれに従いますけれど!」
内心で溜め息を吐きながら、アーシャはそう口にした。
陛下は眉根を寄せたまま、フェニカから目を逸らす。
「……二度はない」
「ええ。もう大丈夫ですわ。この場は」
陛下はそれでフェニカに興味を失ったようで、寝台から降りたアーシャに近づき、手を差し伸べてくださる。
「恐縮ですわ!」
「良い」
陛下の御手に触れることを赦されたアーシャが上機嫌に答えると、陛下も小さく笑みを浮かべられた。
状況がまるで分かっていない侍女や侍従が、突然現れた陛下や死体に、今にも昏倒しそうな顔をしている。
「片付けておけ」
「仰せのままに」
まるで物を退かせというようにフェニカに命じた陛下に、彼女は立ち上がり、綺麗な淑女の礼を見せた。
アーシャとしても、流石に陛下の住まう皇宮で自分を傷つけようとした相手に同情はしない。
影に潜むような力量がありながら、人を害することにしかその力を行使出来ない者は、いずれ民にとっても害になる者たちである。
「陛下、わたくしは命の危機ではございませんでしたわ。陛下の行動は大変嬉しく思いますけれど、あまり御力を振るわれるのはよろしくないのではございませんか?」
「膝下での愚行を赦すつもりはない」
つまり、アーシャの為というよりも、フェニカの行為が陛下の意に沿わぬ行為であったから、という理由の方が大きいのだろう。
そう理解して、納得する。
「それなら、問題ありませんわね!」
何故か陛下が手をお離しにならないので、そのまま玉座の側まで戻ったアーシャは……陛下がお下がりになるまで、ずっと側を離れることが赦されなかった。
幸せなので、構いはしないのだけれど。
ーーーさて、どう致しましょう?
パーティーが終わって『魔性の平原』に戻った後、宣戦布告された以上はフェニカを落としに行かねばならない。
けれど、あれ程の練度の魔術師だと思っていなかったので、その点については少し考え直す必要があった。




