陛下が、おいでになられましたわ!
「さて、始めますわよ!」
庭に出たアーシャは、顔の脇の縦ロールはそのままに後ろ髪を結え、高い位置で巻き込むように纏めた。
入念に体をほぐしていくものの、身を包むのは普段着のものと外見は変わらないドレスのままだ。
よほど天気が悪い時以外は、アーシャは欠かさず鍛錬を行っている。
―――淑女たるもの、どのような状況や格好でも戦えないといけませんものね!
といっても、このドレス自体は糸に刻印を刻み込んだ【魔力布】と呼ばれるもので出来ており、服として頑丈なだけでなく、動きの補助をし、質のいい防御結界を常に纏った状態を保つ衣服だ。
美麗さと実践的な要素を併せ持つ優れもので、アーシャは気に入っていた。
準備運動を終えて、竜の意匠を施した二丁の魔剣銃【メイデンズ・リボルヴァ】を手に、まずは型を舞う。
アーシャの使う得物自体はかなり特殊なものではあるけれど、動きの基礎を教えてくれた相手はおり、魔力を込めた剣で戦う『魔法剣術』と呼ばれる武道の師範だ。
型を終え、次は木に下げた的に魔力で生成した弾丸を撃ち込む訓練、さらに丸太を使って魔力と意思で伸縮する銃剣で切り込む訓練などを行う。
一通りの鍛錬を終えたアーシャは、額の汗を拭った。
「今日は、ちょっと暑いですわね!」
汗の染み込んだドレスを、清浄の魔術で綺麗にしたアーシャは、氷の魔力弾を適当に木の幹に撃ち込み、木陰に入って生成された氷と扇で涼を取る。
すると、大体終わりの時間を承知している婆やが、喉の渇きを癒す紅茶を手に屋敷から出てくるのが見えた。
同時に、雲の少ない空にポツンと染みた黒い影が、こちらに舞い降りてくるのが視界の端に映る。
アーシャの体の半分ほどもある、黒い大鷲だ。
それを見つけた瞬間に笑みを浮かべる。
「陛下!」
と声を上げて、アーシャは木陰から飛び出した。
あの漆黒の鳥は、陛下の使い魔だ。
陛下は文武魔道の全てに精通しておられる方ではあるけれど、その中でも特に魔導の扱いに優れており〝稀代の魔導皇帝〟と呼ばれている。
今見えている使い魔も、陛下がご自身の魔力によって作られたものだった。
「陛下ぁ〜!」
舞い降りた大鷲にアーシャが満面の笑みで手を振ると、大鷲は軽く首を傾けた後、スゥ、と姿を消す。
「あら? ……少しくらいお話しして下さってもよろしいのに、つれないですわね!」
ぷく、と頬を膨らませて腰に手を当てた後、アーシャは、大鷲がいたところにヒラリと落ちた手紙を手に取る。
そこには一言『一週間後の夜、自室のベランダにて。』とだけ、書かれていた。
「まぁ!」
「どうなさいましたか、アーシャ様」
近づいてきた婆やが、シワだらけの顔を柔和に笑ませて問うのに、アーシャはうふふ、と頬を緩ませる。
「陛下からのお手紙ですわ! 内容は、秘密ですわ!」
「おや、おや。よろしいことにございますねぇ」
婆やはうなずく間に、従った侍女が滑らかな手際でパラソルを立てて椅子を用意し、別の一人が恭しく手布を差し出してくれる。
「感謝いたしますわ!」
アーシャはそれで汗を拭うと、柑橘類を絞った、爽やかな風味の紅茶を嗜む。
「今日も大変、美味しいですわね!」
「それは、ようございました。こうしてアーシャお嬢様のお世話をする時間も、もういくらもございませんからねぇ」
ふやふやとうなずく婆やに、ふと、アーシャは問いかける。
「……婆やは、何も言いませんのね?」
父母も妹も、それぞれに違う反応を見せたのに、彼女だけはいつもと変わらない。
「アーシャお嬢様もお転婆でございますけれど、最初にお仕えした大奥様も、それはそれは破天荒な方でございましたからねぇ」
そんな疑問に、婆やはのんびりとうなずきながら、答えた。
婆やは、どこか懐かしむような遠い目をして、顔のシワをクシャリと歪ませ、笑みを浮かべる。
「大奥様が、【紅蓮の私兵】を自ら率いて、建国の戦場を跳ね回るのに付き合ったことを思えば、アーシャお嬢様が辺境への赴くくらいのこと、お散歩に出られるのと変わりのうございますよ」
「お婆さまも? それは心強い言葉をいただきましたわ!」
祖母は、アーシャが物心つく頃には亡くなっていた。
祖父や父に、祖母の若い頃のことを尋ねると、ずいぶんと口を濁されていたのは、そうした事情があったらしい。
「アーシャお嬢様は、前向きなところも、後ろを気にしないところも、大奥様によく似ておられますからねぇ。婆やといたしましては、さもありなん、と思っておりますよ」
「それは、褒められているのかしら?」
「さて、どうでしょうねぇ」
まぁ、どちらでも構いはしないのだけれど。
優雅にお茶を飲み終えたアーシャは、静かに椅子から腰を上げた。
「昼過ぎに、少し買い物に出ますわ! 婆や、旅に必要なものに詳しいのなら、付き合っていただけまして?」
「ええ、ええ。仰せのままに」
のんびりと頭を下げる婆やに頷いてから、アーシャは着替えのために屋敷に引っ込んだ。
※※※
そして、南部に赴く為の、様々な準備をしながら一週間。
―――陛下が、おいでになる日ですわっ!!
今日という日を心待ちにしていたアーシャは、早々に自室に引っ込んで気合を入れつつも慎ましやかな格好をすることに全力を注いだ。
理由は言わなかったが、侍女に頼んでお風呂で肌を入念に磨き上げる。
夜着は、使い古したもので会うのは恥ずかしいので、淡い青色の透けないものを新しく出して貰い、髪に香油を薄く塗り込んだ。
夜着の上からショールを羽織って準備万端に姿を整えたアーシャは、もう一度部屋の姿見でじっくりと確認した自分の姿に、満足して頷く。
―――完璧ですわ!
出来れば、すっぴんではなく化粧もしたいところではあったけれど、そこまでやってしまうと流石に理由を問われたり、怪しまれてしまうだろう。
お相手が皇帝陛下なので、文句は言われないと思うけれど……年頃の乙女が、夜に殿方と二人きりで会うというのは外聞の悪い話なのだ。
つまり、親に知られるのは恥ずかしい。
それにアーシャは『親に内緒で、夜に陛下に会う』という、悪いことをするのが何だかドキドキして嬉しいと思ってしまった。
そして、約束の時間を今か今かと待ち侘びた。
―――早く、来ていただけないかしら。
アーシャが、落ち着かずに部屋の中とベランダを行ったり来たりしていると、ふと、三日前に父が手に入れてくれた生き物の檻が目に入った。
―――そうですわ!
待っている間に、『それ』の相手をしようと、アーシャはいそいそと近くに寄る。
そして話しかけたり、檻を指先で叩いたりしてみるが。
「あなた本当に、餌の時以外はちっとも動きませんわねぇ」
鉄柵の隙間から見えるのは、鮮やかな紫色をした半透明の球体。
檻に差すように横向きに通された枝に触腕でぶら下がる、にゅるん、とした『それ』が、父に所望した護衛の生き物だ。
『それ』は今、雫型に垂れ下がっており、ピクリとも動かない。
「見れば見るほど、可愛らしいですけれど……どうすれば意思疎通出来るのかしら?」
母は『ウニョウニョしてて気持ち悪い』と言っていたけれど、アーシャにとっては色合いも美しいし、どことなく愛嬌がある気がする。
目も耳も口もないし、喜怒哀楽すら分からないけれど、腹に一物以上の黒さを抱えている人間を相手にするよりも楽しいのは間違いない。
アーシャは気まぐれに、餌として用意した向日葵の種を柵の隙間から差し込んだ。
すると、どうやって認識しているのか、ぴくん、と反応した球体が、敷きつめた草の上にとさりと落ちる。
そしてノロノロと這ってくると、落ちた向日葵の種を、ぷにゅん、と取り込んだ。
アーシャがジーッと見ていると、まるで咀嚼するように種がパキパキと割れていき、ゴクン、と飲み込むような音と共に、半透明の体に溶け消えた。
「何度見ても、不思議ですわねぇ」
「……【擬態粘生物】か。これはまた、珍しいものだな」
「そうなんですのよ。お父様にお願いして手に入れて貰ったのですけれど……って陛むぐッ!?」
「静かに、アーシャ」
いつの間に現れたのか。
横から覗き込んで、心地よい低い声でアーシャにお声がけして下さった陛下に、驚きの声を上げかけて。
口を、その大きく冷ややかな手で塞がれた。
今日の陛下は、最初に出会った時のような飾り気のない服装をしている。
佩いた腰の剣には呪玉が埋まっていて、煌びやかではないが精緻な細工が全体に施されている。
しかし、そんなことより何より。
―――ああ……陛下の御手の感触が、香りが、わたくしの口元に……!!
思わず、アーシャは恍惚としてしまった。
しかし陛下を前にして、流石にずっとそれに酔っているわけにもいかない。
声を上げない、とアーシャが仕草で示すと、そっと口元から手が外された。
大変、名残惜しい気持ちを感じつつ、アーシャは礼儀の姿勢を取る。
「皇国をあまねく照らす漆黒の太陽、アウゴ・ミドラ=バルア皇帝陛下に、リボルヴァ公爵家令嬢アーシャがご挨拶申し上げます……!」
「良い」
「このようなところまで足をお運びいただき、誠にありがとうございます……!!」
はしゃぐ気持ちを抑え切れず、弾んだ小声で言いながら、アーシャがうっとりとそのご尊顔を見上げると、陛下は少しだけ口元を緩められた。
「ですが、宜しかったのですか?」
「たまに息抜きをする程度、問題などない。城は息が詰まる。化けの皮を被った獣ばかりで、そなたのように心地よき『人』は少ない故に」
「わ、わたくしの側が心地よいだなんて、そんな……光栄ですわ……!」
嬉しいお言葉にモジモジするアーシャに、陛下は軽く目を細めてられてから、檻の魔物……スライムボガードを指差した。
「それを、手元に」
「え? 分かりましたわ!」
命じられて、アーシャは疑問も挟まずに檻を開けた。
餌を食べてノロノロと枝に戻ろうとしていた柔らかい体をそっと掴むと、陛下の前に差し出す。
「これを、どうなさいますの?」
「扱い方を、心得ていないのだろう?」
「それは、はい。恥ずかしながら……」
この魔物は、意思疎通出来れば、使い魔としては最上級の存在だと言われている。
魔女や吸血鬼の従えるコウモリや黒猫以上に、変幻に長けるらしい……のだけれど。
「どのように言葉を伝えたらいいのか、知り及ぶ人がいないと……」
スライムボガード自体は、昔から存在する生き物であり、記録上では魔法使いも使役出来るとされている。
しかし現存する使い手は、その方法を秘匿としていたり、あるいは元々魔物使いの才覚を備えた者だったりと、アーシャが参考に出来る相手がいなかったのだ。
もし、術師側に膨大な魔力が必要だったりすれば、アーシャには扱い切れない可能性もあった。
けれど陛下は、心の内を読んだように、いつもより心なしか楽しそうな様子で、饒舌に語り始めた。
「スライムボガードを従えるに、膨大な魔力は必要ない。まずは、吊り触腕を指に巻き、吊り下げよ。この生き物が最も落ち着く状態だ」
「こ、こうですの?」
球体の一部を掴むと触腕が伸びたので、くるりと指に巻くと、まるで抵抗なく魔物は巻き付いてそこにぶら下がった。
「ボガードが安らげば、次はそよ風のように軽く揺する。赤子のゆりかごのように、緩やかに」
「……ねーんねーん、ころりよー♪」
するとスライムボガードは、心地良さそうに体を震わせた。
そして。
「あ。う、薄く光りましたわ!」
「光を、直視せぬことだ。発光は、まどろみ、安らいだ証であり、幻惑の効果を持つ。眠る間に敵に襲われぬための備えだ」
「はー……興味深いですわ!」
「我も同様に思う」
陛下も興味深いらしい。
先ほどの陛下のお言葉から察するに、このスライムボガードという生き物は、眠っている間は催眠魔術を常に行使している状態になる、ということなのだろう。
言われた通りに直視しないように気をつけながら、アーシャは尋ねた。
「ここから、どういたしますの?」
「この状態で、指先から少量の魔力を垂らし込む。スライムボガードが安らぎに心を開いていれば、そなたと意志が繋がる」
言われて、アーシャは慎重に、魔力を流した。
―――あなた、初めまして。わたくしのことが分かって?
そう問いかけると、ふるる、と再び震えたボガードから、意志の響きが還ってきた。
タネ、オイシイ。
そういう意思が伝わってくる。
少なくとも、アーシャに対して好意的な気持ちを持ってくれているみたいだった。
「つ、伝わりましたわ……!」
「では、何かに変化するよう、魔力に託して頼んでみると良い。そなたのイメージが明確であるほど、変化は顕著となる」
―――イメージ……。
言われて、アーシャは少し悩んだ。
使い魔として、変化する何か。
一番よく覚えているのは。
「……!」
「ほう」
アーシャがイメージしたものとは少し違ったが、魔物は、にゅるりと姿を変えた。
手のひらに乗るくらいの、黒い小鳥へと。
「これは、我が使い魔か?」
「そ、そうですわ!」
一番よく見ている使い魔といえば、たまに来る陛下の使い魔しか思いつかなかったのだ。
サイズこそ小鳥で幼い印象だが、力強い大鷲の面影がある。
「上出来だ、アーシャ。才がある」
「お褒めに預かり、光栄ですわ!」
陛下に褒められた、と舞い上がったアーシャだが、そこでふと、思い出した。
「は! 陛下、陛下。わたくし不敬にも、最初にお聞きするのを忘れていたのですけれど!!」
「述べよ」
「あの……」
元に戻ったボガードを軽く握り、アーシャは上目遣いで人差し指をこすり合わせる。
「何故、今日はわたくし、謁見の栄誉を賜ったのでしょう……?」
そう。
何故今日、陛下がわざわざ約束を取り付けてまで、この場に現れたのか。
それを聞くのを、アーシャはすっかり忘れていたのだ。