約束のキス
「でも二十歳の時に知り合うけど、その時は僕も鹿ノ子さんとは初対面だから気をつけてね」
「どういうこと?」
「今こうやってタイムリープして逢いに来てるのは二十六歳の僕だ。二十歳の頃の僕は、未来の自分がそんなことをしているなんて知らない。だから当然鹿ノ子さんのことも知らない」
鹿ノ子さんは少し思案した顔をして「なるほど」と頷いた。
「間違っても昔タイムリープして会いましたよね? なんて聞いちゃ駄目だよ」
「駄目なの?」
「当たり前でしょ。そんなこと言われたら変な子だと思われて絶対引かれるから」
「確かに……」
渋々と言った感じに鹿ノ子さんが頷く。
「付き合ってからも言っちゃ駄目だよ。僕は警戒心強いんだから」
「えー? じゃあいつ言うの?」
「言わなくていいだろ。恋人同士なんだし、将来は結婚するんだから。鹿ノ子さんの胸の中だけに留めておけば」
「もったいないですよ。そんなの」
「じゃあ結婚してからならいいよ」
それで手を打ったけど鹿ノ子さんはやはり不服そうだった。
「そもそも僕は鹿ノ子さんより内向的な人間だから。初対面の人と打ち解けるのが苦手なんだ。くれぐれも変なこと言って引かせないでよ」
「なんか分かる。暗そうだもんね、恭也さん」
「余計なお世話だよ」
だいぶ慣れてきてくれたのか、鹿ノ子さんは軽口を叩きながら笑った。
「暗そうっていうか、不健康そうな感じ」
「そうかな?」
「自覚ないんですか? 目が隠れそうな前髪とかやけに痩せた体つきとか真っ白な肌とか。本気で病気の人みたいですよ」
「こういう雰囲気が未来の世界では流行ってるの」
「えー? ドン引き……私はもっと爽やかな方が好き」
「そう? じゃあ爽やかな感じにするかな」
長い前髪を摘まんで、上目遣いにそれを睨む。
「別に私は恭也さんがどんな見た目になろうが関係ないですけど。あくまで一般的な忠告です」
「でもこの前髪は便利だと思うよ。バッサリ切ってすっきりしちゃったら二十歳の時に逢っても僕と気付かないんじゃないかな?」
ぼそっとそう呟くと、鹿ノ子さんはやや動揺した表情を見せた。
僕がにやけているのを見て、ようやくからかわれていると気付き、ぱすっと二の腕を叩いてきた。
「そもそもタイムスリップなんて出きるわけないですから。二十六歳にもなってそんなこと言ってて恥ずかしくないんですか?」
「まあ正直ちょっとは恥ずかしいよ。でも実際そうなんだから仕方ないし」
自分でも何故こんな力を持ったのかは分からない。しかしこの力を得たからには鹿ノ子さんのために使うと決めていた。
「はいはい。分かりました」
「でも鹿ノ子さんも気付いているんじゃない?」
「何がですか?」
「僕は鹿ノ子さんが七歳、十一歳、そして十三歳の時にやって来ている。その間鹿ノ子さんはずいぶん成長した。けれど僕の見た目は変わっていない」
鹿ノ子さんは聞こえていなかったかのように僕の方を見ず、懐中電灯で川面を照らして眺めていた。
「忘れちゃったよ」
鹿ノ子さんは急にいじけた子供のような声を出した。懐中電灯の光りは着地点を探すUFOのように出鱈目に揺らいで、川の上を漂う。
「十一歳の時はまだしも、七歳の時の記憶なんてあやふやだし。大人はみんな『大人』って一括りで、男か女かくらいの区別しかないですから。二十歳だろうが二十六歳だろうが、そんな違いは七歳の子供には分かりません」
不快な様子ではなく、寂しいことのように鹿ノ子さんは呟いた。はっきりと思い出せないのが悔しいのかもしれない。
記憶ほど盲目的に信じてしまうのに、頼りなくていい加減なものもない。でももちろん記憶が曖昧だからこそ救われることだってある。
鹿ノ子さんは自分がどんなヘアピンをつけていたとか、どんなアイスを食べていたのかなどは覚えていても、僕の顔はぼんやりと『大人の男性』としか認識していなかったのだろう。
「じゃあ今度は覚えておいてね。僕はこんな顔」
懐中電灯を持つ手を握り、僕の顔を照らさせる。鹿ノ子さんの指はとても冷たかった。
顔に当てた灯りは眩しかったけど、目を閉じないように堪える。
「なんかすぐに忘れそう」
「まあその時は仕方ないよ。でも大丈夫。鹿ノ子さんが忘れてしまっても、きっと僕は同じように鹿ノ子さんを好きになると思うから」
「はいはい」
鹿ノ子さんは自分の顔の変化を隠すように、懐中電灯の灯りを消した。
光の残像が網膜に焼き付いており、しばらくは視界がぼんやりとする。
寒気を孕んだ風が吹き、「寒い」と鹿ノ子さんは震えながら肩を抱いた。
僕はトレンチコートを広げ、鹿ノ子さんを包んで引き寄せた。
嫌がりもせず、擦り寄りもせず、ただすっぽりと僕の腕の中に収まってくれる。澄ました顔をしているが緊張で身体が強張っているのが分かった。
中学生の鹿ノ子さんと密着するのは、二十六歳の鹿ノ子さんと密着するのとはまた異質の緊張感があった。
「もう僕は過去の鹿ノ子さんに逢いに来ることはないよ」
「えっ……」
「次に会うときはお互い二十歳の時だ。未来で、待ってるからね」
そう言った瞬間、全く予期していなかった涙が溢れてしまった。鹿ノ子さんに気付かれる前に拭おうとしたが、間に合わなかった。
僕の涙を見た鹿ノ子さんは驚いたように息を飲み、じっと僕の顔を見詰めた。
「泣くほど逢いたいなら来たらいいのに。別に私も恭也さんと逢うの、嫌じゃないし」
「ありがとう」
そっと頭を撫でると鹿ノ子さんは擽ったそうに微笑んだ。
「それに私だって不安だもん。親が離婚して、これからどうしていけばいいのかも分からないし」
「大丈夫。鹿ノ子さんなら乗り越えられる」
「そうかなぁ……無理な気がする」
僕にそばにいて欲しい。鹿ノ子さんの気持ちが伝わり、胸が熱くなった。
「じゃあ日記を書いてごらん」
「日記?」
「そう。辛かったことや、人に言えなかったこと、嬉しかったこと、夢のこと。なんでもいい。僕に語り掛けるつもりで沢山書いて」
それでどうなるというものでもない。だけど心の中の重荷をノートに書くだけで、心の中を少し軽く出来るような気がした。
「うん。分かった。よく分かんないけど、分かった」
これからも頑張ること、日記を書くこと、そして二十歳の誕生日に再会すること。そんなあれこれを約束するために僕たちは指切りをした。指切りをするなんて十数年振りだ。
繋いだ小指を離すと、何かのスタートラインが切られたような気分がした。いや、ゴールラインかもしれない。
「さあ、そろそろ帰ろうか」
マントのようにトレンチコートを翻して立ち上がる。しかし鹿ノ子さんは視線を小指に落としたまま俯いて動かなかった。
「どうしたの?」
「ねぇ……」
鹿ノ子さんは意を決した顔で僕を見あげた。保湿リップしか塗っていないのに、その唇はやけに艶めかしく赤く感じた。
「指切りより……キスの方が約束を守れる気がする」
「キスって……」
「だって私たち結婚するんでしょ? だったらキスくらい普通でしょ」
緊張で引き攣っている顔が笑ってるつもりだと気付いたのは、その二秒後だった。
鹿ノ子さんの気持ちは嬉しいが、この流れでキスまでしてしまうのは躊躇われた。それに彼女が震えているのも、きっと寒さだけが理由ではなさそうだった。
「キスは大人になってからでも──」
「うちの親、キスしてるの見たことないの」
鹿ノ子さんはやや大きな声で僕の言葉を掻き消す。
「きっとキスとかしてなかったから離婚するんだよ。毎日キスする夫婦は絶対に離婚なんてしないもん。私は正直言って結婚とかしたくない。だって別れたら子供にも迷惑でしょ? 結婚生活も幸せそうにも思えないし、それだったら一人の方が──」
傷口をほじくり返すようなことを言わせたくなくて、僕は鹿ノ子さんの唇をキスで塞いだ。
触れた瞬間、鹿ノ子さんは目を見開き、びくんっと大きく震えた。
小鳥が餌を啄むようなキスだった。けれど僕の唇にはいつまでも鹿ノ子さんの柔らかな感触が残っていた。
「これで約束守れそう?」
「いまのは狡い。不意討ちだからやり直し」
照れているのと怒っているのは見分けが難しい。鹿ノ子さんの場合は口角が上がっているか、下がっているかが見分けるポイントだ。
「じゃあ」と言って肩に手を置くと、鹿ノ子さんは更に口角を上げて背筋をぴしっと伸ばして固まった。
頬を撫でながら顔を寄せる。唇が重なる瞬間、鹿ノ子さんは僕の二の腕を掴み、ギュッと握ってきた。
この瞬間、きっと世界で一番幸せなのは僕たちだろう。
三秒ほど世界第一になってからゆっくりと顔を離す。
鹿ノ子さんは何かに満足したように小さく「うん。頑張れそうかも」と呟きながら頷いた。
────
──
こうして僕の、鹿ノ子さんの運命を変えるタイムリープは終了した。
最後の締めくくりとして僕は二十歳の僕に会い、事情を説明する。
鹿ノ子さんより信じてくれるまで時間がかかったけど、最後はなんとか理解してくれた。
あとは自然に、初対面のように鹿ノ子さんと再会するだけだ。
大丈夫。
心の憂いがなくなった鹿ノ子さんはきっと幸せになれる。
そう信じていた。