二代目子鹿の髪飾り
両親には両親の人生もあるのだろう。しかし今の鹿ノ子さんにはそんなこと到底理解できないということも分かる。
親は無条件で無償の愛を与えてくれる存在。それが当たり前のことだと信じている。
親もまた人間なんだと分かるのには、まだもう少し時間がかかるだろう。
意味のない慰めや諭す言葉など、傷付いた鹿ノ子さんの心に響くはずもないし、言うべきでもない。
僕はその場に腰を下ろして夜空を見上げた。
雑草が纏った夜露の雫が跳ねて僕を湿らした。
「隣、空いてるよ」
ふざけた感じに促すと、鹿ノ子さんは不服そうにだけれども僕の隣に座ってくれた。
せせらぎの音が心地いいけど、花冷えの季節だから涼を感じるには肌寒かった。
「誰も心配してないって言ってたけど、少なくとも僕は鹿ノ子さんのことを心配しているよ」
仄暗い川は僅かばかりの光りを反射させ、穏やかに揺らいでいた。
鹿ノ子さんは返事の変わりなのか、気紛れなのか、辺りの草をブチブチっと引き抜いてそれを川に向かって投げた。草は風に煽られて水際には届かない。
「傷付いて、苦しみを知って、人は成長していく。痛みや挫折を知って、強く優しくなっていくんだと思う。理不尽なことも起こるし、納得できないこともある。でもそれも自分を成長させてくれる試練だよ。鹿ノ子さんならきっと乗り越えられる」
「勝手なこと言わないで下さい。親が離婚するんですよ? そんなに簡単に『はいそうですか』なんて受け入れられるわけないじゃないですか!」
思春期の潔癖さでは受け止めきれないことも、大人になれば仕方ないと諦められるようになる。それを心の成長と呼ぶのか、鈍化と呼ぶのか、僕にもよく分からなかった。
鹿ノ子さんは手にした懐中電灯を空に向け、カチカチとオンオフさせた。まるでSOSの信号を遠くの星に向けて送ってるように見えた。
「だいたいおじさんは一体何者なの?」
「僕は鹿ノ子さんの未来の──」
「未来の花婿さん、とか言わないでよ。私はもう中二だよ? 未来からタイムリープしてやって来たとか、そういう噓を信じる年齢じゃないんだから」
先に否定されてしまい、苦笑いを浮かべて頭を掻く。確かにそんな荒唐無稽な話を信じろという方が無理だ。
大人にはなりきれず、子供は卒業した、そんな年頃なんだろう。
でも鹿ノ子さんは僕に会いたかったのだと思う。髪に付けられた二代目子鹿のヘアピンを見ながら自分勝手に確信した。
「そうだなぁ……僕は鹿ノ子さんの『あしながおじさん』、かな」
「脚短いくせに」
秒速で否定して、すぐに言い過ぎたかなと不安そうな顔をした。けれど僕が笑ったから鹿ノ子さんも笑ってくれた。
「鹿ノ子さんがピンチの時、僕はいつでも駆け付けるよ」
「一年に一回も現れないくせに」
「もっと頻繁に会いたかった?」
からかいすぎて怒ったのか、「別に」と言って首を竦めて俯く。長い髪がサラサラと流れて、その横顔も隠してしまった。
「ここに来たら僕に会える。そう思ってくれたの?」
「はあ? ここは私のお気に入りの場所なんです。別にしょっちゅう来てますから」
顔は隠したままだったけれど、ぴょこんと耳が出ていることまでは気付いていなかったのだろう。赤く染まっているのが愛らしかった。
「大丈夫……未来は変わってきている」
独り言のように呟くと、鹿ノ子さんは物陰から様子を伺う猫の目をして僕を見た。
「以前の鹿ノ子さんは良くない輩と交友があって、家出するときもそいつらの元に泊めてもらってたんだ」
「良くない輩?」
「ほら、コンビニの前とかにたむろしてるだろ。鼻にピアスしてたりタトゥーを入れてるような奴ら」
「ないない絶対ない! 私ああいう人ら、苦手だし」
そのリアクションを見る限り、噓はないだろう。僕のしてきたことはどういうわけか、結果として彼女の素行もよくしているようだった。
「恭也さんって未来から来たんでしょ」
突然名前で呼んでそう訊いてきた。
「そうだよ」
「だったら今この瞬間はこの時代に二人の『川神恭也』がいるってこと?」
「そういうことになるね」
「会いに行かないの?」
「まあ、今は用事がないからね」
ふぅんと言ってまた鹿ノ子さんは草を毟った。
何か言いたそうで戸惑ったときに草を抜くのかも知れない。物言いたげな顔を見ながらそう思った。
「この近くに住んでるの?」
「ううん。ずっと遠くだよ」
「そうなんだ」
何となく知ってたかのような顔で頷く。ひょっとすると同姓同名の人を探してくれたことがあるのかも知れない。
「僕たちが出逢うのは、東京。鹿ノ子さんの二十歳の誕生日だよ」
「二十歳の頃、私は東京にいるんだ」
少し嬉しそうに笑った。
「そう。渋谷にある小さなライブハウスで『アグレッシブ・レモン』というバンドのライブがある。そこで僕たちは出逢うことになる。ライブハウスの名前は、確か」
「ちょっと……ちょっと待って」
鹿ノ子さんはノートを取り出し、僕の視界から逃れるように背を向けてメモを走らせていた。
僕はその背中にライブハウスの名前やライブ開始時刻を告げる。
「僕が未来から来たって信じた?」
「まさか。二十歳の誕生日に本当にここに行って恭也さんがいないことを確認するだけ」
勢いよく手帳を閉じてじろりと睨んでくる。
本当は信じてしまいたいのに騙されまいと構えてしまう。そんな表情だ。