豪雨の川辺
川で遊んでいた子供たちは大慌てで駆け出していく。しかし急な雨を凌ぐためか、みんな橋の下へと駆け込んできていた。確かに子供の考えでは雨がかからない橋梁の影というのは恰好の避難場所に見えるのだろう。
「君たちっ! そこは駄目だ! 川が増水して危険だぞ!」
叫びながら川原へと降りていく。服は雨で数倍の重さになっていたし、髪からはぼたぼたと水が滴っていた。
僕の警告を聞いた子供たちは我先にと土手を上がっていく。
しかしその中に鹿ノ子さんの姿がなかった。
「鹿ノ子さんはいないのか!」
雨音と子供たちの騒ぐ声を掻き消す音量で叫んだ。しかしパニック状態なのか、誰一人答えてくれなかった。
少し上流川辺を見ると一人の女の子がいた。みんなが放っていった網やカゴを抱え、バランスを崩してよたよた歩いている。
一目見ただけで分かった。それは六年生になった鹿ノ子さんだ。
「鹿ノ子さん何やってんだ! 危ないから早く逃げろ!」
急いで駆け寄り手を握った。
「網とか持っていかないと!」
「そんなものはいいから! 早くっ!」
負の因果は断ち切れない。そんな予感がしていた。
歴史が変わって山で怪我をしなかった鹿ノ子さんだが、代わりに川で怪我をする。
直感的にそう思った。
強く手を引くと渋々ではあるが、鹿ノ子さんも川から離れてくれた。
水かさが増す前にすぐにここから離れなければならない。
しかし慌て過ぎたのがよくなかった。
鹿ノ子さんは躓きかけ、少し子供っぽい動物が描かれた髪飾りを落としてしまった。
「待って! 髪留め落としちゃった!」
「そんなものいいから」
「よくない!」
網の時とは違って諦めきれないのか、鹿ノ子さんは僕の手を振り払ってその場にしゃがんだ。
仕方なく僕も一緒に探す。激しい雨に打ち付けられた水面は飛沫を上げ全く川底が見えないから手探りだ。
「もう無理だ。危ないから逃げよう!」
「大切なものなの! 絶対なくしちゃいけない、宝物だから」
豪雨のせいで気が急いていたこともあり、僕も鹿ノ子さんも声を張り上げてしまっていた。
「あっ!?」
探すのに夢中になりすぎた鹿ノ子さんは足許が疎かになり、ぐらりと体勢を崩してしまった。
「きゃあっ!」
「危ないっ!」
慌てて僕も川に足を突っ込み、倒れかけた鹿ノ子さんを支える。だが情けないことに僕も藻に足を取られ、一緒に滑って川の中へと落ちてしまった。
ただ幸いにも六年生の鹿ノ子さんの身体はまだ細くて小さかったから、僕の腕の中にすっぽりと納まってくれた。
何があっても鹿ノ子さんを守らなくてはいけない。
川は先ほどまでの優しいせせらぎとは別人のように荒れ狂っていた。僕たちの身体はその勢いの増した川の流れに揉みくちゃにされる。
それでも必死に両腕で包んだ鹿ノ子さんの身体を守った。さすがに苦しくなって息を吸おうとしたが、逆に大量の水を飲んでしまう。
上も下も分からず転げ回るうち肩と背中に激しい衝撃が走った。
「ぐはっ!!」
どうやら岩にぶつかったらしく、それでようやく止まることが出来た。
ゴホゴホと咳き込みながら、何とか身を起こす。
「大丈夫っ!?」
僕の腕の中に納まった鹿ノ子さんは、心配そうに僕の顔を見上げていた。早く安全を確保しようと鹿ノ子さんを抱き上げようとしたら激痛が走った。
「ああ。大丈夫。鹿ノ子さんは?」
「大丈夫」
痛みを隠して鹿ノ子さんを抱き上げると、比較的流れがマシなところを選びながら、何とか川を抜け出して陸へと生還した。
陸に戻ると鹿ノ子さんは恥ずかしそうに「下りるから」と僕の腕から逃れていく。覚束ない足取りでなんとか土手の上まで登り、僕と鹿ノ子さんは力尽きたようにその場に倒れた。
もちろん既に川で遊んでいた子供たちは一人も残っていなかった。
雨脚は先ほどよりは弱まっていたが、まだ降り止みそうもない。でもここまで濡れてしまったら今さら雨宿りもなかった。
雨が降ってくる空を見上げていると長い針が無数に落ちてくるように見えた。
「きゃっ!? おじさん血が出てるっ!」
「え? ああ、本当だ」
シャツは肩の辺が切れており、そこから血が滲み出していた。
でも興奮のためか痛みはほとんど感じず、誰か他人の傷にさえ思えた。
「早く手当てしないと……」
「大丈夫だよ。ありがとう」
鹿ノ子さんは不安そうに僕の傷口を見ていた。ずぶ濡れになった服が貼りついて、身体の線が浮き出てしまっている。
もちろん将来の鹿ノ子さんのような女性らしいボディラインとはほど遠いが、少しづつその片鱗を見せる膨らみや丸みを感じてドキリと危うい焦りを感じてしまった。
「早く帰らないと風邪引いちゃうよ」
誤魔化すように立ち上がると今さら鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめてしまった。
「大丈夫?」
鹿ノ子さんは慌てて肩を貸すように身を寄せてきた。子供ならではの高い体温を感じる。
雨に濡れた髪から水が滴っていた。不安げに歪んだ表情は未来の彼女とそっくりだった。
「ごめん。助けに来たのにこっちが怪我するなんてダサいよな」
「ううん……そんなことないよ。私のせいで、ごめんなさい」
僕の顔を覗き込んでいた鹿ノ子さんの顔が、ハッと何かに気付いた顔に変わった。
「もしかして……おじさん、あの時の」
「気付いた? ていうか覚えてくれていたんだ?」
「うん。私と将来結婚するっていう、あのおじさんだよね」
「ああ。そうだよ」
鹿ノ子さんは目で驚き、頬で笑い、ちょっと尖らせた唇で怒りを表していた。
「なんか、頭の中ぐちゃぐちゃで何からツッコんだらいいのか分かんない」
取り敢えず照れ隠しも兼ねて怒ることにしたのか、ツンとした声でそう言いながら僕を睨んだ。それがいかにも鹿ノ子さんらしくて嬉しかった。