ハンバーグを食べる人
今は十一月だ。一晩中外にいて過ごせる季節ではない。空が白み始める頃には肌の感覚はなくなっていた。足の指も手の指も自分のものではないかのように痺れて動かない。
あと少しで恭也さんと逢える。その精神力だけで何とか堪え凌いでいた。
朝の六時半過ぎに部屋に灯りがつく。自分を取り巻く環境はなにも変わっていないのにそれだけで少し温かく感じた。
両手を擦り合わせ、はあっと息を吐く。ここまできたのに限界を感じ始めたとき、部屋のカーテンが開いた。咄嗟に電信柱の裏に隠れたが、恭也さんはベランダに出て来る様子はなかった。
(恭也さんがすぐそこにいる)
いくら凝視しても中の様子は伺えない。なんとか中を見られないかとつま先立ちになる。もはや私は完全に不審者だ。
アパートの玄関からはちらりほらりと出勤する人たちが出て来ていた。
その一人ひとりを確認するが恭也さんの姿はなかった。
やがて205号室の電気が消えた。
(出て来る……恭也さんが……ここに来る)
緊張で足が竦んだ。
私は呪文のように山郷さんの言葉を思い返した。
私に足りないのは自信だ。
自信さえあればこの無為に過ごした三年間も取り戻せる。
その時になってようやく私は仕事帰りのぼさぼさな髪だったことを思い出した。服装もちっともお洒落じゃないし、化粧だって禿げかけている。
でも今さら出直すなんてあり得なかった。
足りないのは化粧じゃない、お洒落な服じゃない、自信なんだ。ギュッと手を握り、気持ちをなんとか鼓舞する。
気持ちを引き締め、恭也さんを待つ。私は駅の方角に立っているから、恐らく出て来た恭也さんは私の方へと向かってくるはずだ。
「お久し振りです。元気でしたか?」
「いつまで待たせるつもりなんですか?」
「もう待つのはやめました。私の方から追い掛けます」
顔を合わせたときのはじめのひと言を色々と色々と考える。
なかなかいい言葉が浮かばない。
迷っている間にエントランスからまた人が出て来た。少し離れているが顔までしっかり見える。
片手に鞄、もう片方の手にゴミ袋を持っている。スーツにネクタイを締めた姿は音楽関係者には見えない。
しかしそれは紛れもなく恭也さんだった。
「恭也さん……」
心臓が激しく伸縮を繰り返す。
行かなくちゃ。
今行かなくちゃ、必ず後悔する。
寒さと緊張で強張る顔を何とか笑顔にしようと努力した、その時だった。
「待ってよ」
マンションの玄関からゴミ袋を持った女性がつまらなさそうな顔をして恭也さんの隣を歩く。
「え?」
作りかけた笑顔は中途半端なかたちで固まる。
恭也さんがカラス除けのネットを持ち上げ、二人はゴミ袋を投げるように捨てた。
よく見ると女性の方は恭也さんが曲を提供していた歌い手、沢良木爽子だった。
二人で暮らしているのは間違いなさそうで、しかも昨日今日の初々しさは感じられなかった。
まだはじめて夜を共にしたぎこちなさがあれば、私も堪えられたかもしれない。
しかし二人の間に流れる気怠さ、遠慮のなさ、そして信頼を見せつけられ、身体が動かなかった。
恭也さんと爽子さんが近付いてくる。私は隠れることも、逃げることも出来ず、ましてや立ち向かうことも出来ず、ただ道の端で立ち尽くしていた。
「今日は恭也がご飯作る番だよね?」
「あー、そっか……チキンのトマト煮込みでいい?」
「えー、またぁ? ハンバーグがいい」
「挽き肉あったっけ?」
「ハンバーグ作ってもらおうと思って買っておいたよ」
「なんだよ、計画的犯行かよ」
「犯行ってなによ」
恭也さんは私の存在などまるで気付かず、一度もこちらを見ることもなく素通りしていった。
聞きたくもない二人の暮らしの断片を聞かされ、身体の震えが止まらなかった。
デミグラスか和風おろしかで言い争うところ辺りで、会話がフェイドアウトしていった。
「そんな……」
遅すぎた。
『今行かなくちゃ後悔する』なんて思っていたけど、もうとっくに手遅れだった。
恭也さんはずっと前から私の手の届かないところまで行ってしまっていた。
「なんで……」
身体が蹌踉めき、塀に寄り掛かった。
どれだけ呼吸を整えても息が苦しい。この辺りは酸素の量が少ないのかもしれない。本気でそう思えるくらいに息苦しかった。
「私のはず……そのハンバーグを食べるのは。私のはずだった……」
意味不明な呟きを聞かれてしまったのか、通り過ぎる人がギョッとした様子で私から距離を取った。
でもそんなことはもうどうだって構わない。
「違う。こんなの違う……やり直して。こんなはずじゃなかったの……」
収集所に捨てられた恭也さんのゴミ袋を眺めた。あの中に恭也さんの今が詰まっている。退屈な幸せを生きる恭也さんの生活が詰まっている。
ふらふらっと二三歩歩み寄って足を止めた。
まるでストーカーだ。
今の私は誰が見てもストーカーだ。
もしかしたら既に誰かが不審者として通報しているかもしれない。
警察に捕まって「あの人と私は結婚する予定だった」などと訴えたところで、私がストーカーであることを示す補強材料にしかならないだろう。
「ふふふ……ははははは……」
急に自分の二十五年間の人生が長いコントだったように思え、笑いがこみ上げる。怒る気力も起きないほど、馬鹿馬鹿しい。
それでも未練がましく振り返りながら、私はその場を立ち去った。
朝の日射しを反射させる街を歩きながら、私は帰る。でも友達も親も実家も全て捨てた私は、どこに帰ればいいのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、当てもない帰り道を歩いていた。




