灯りの消えた部屋を見上げる夜
「そうだなぁ。鹿ノ子ちゃんに足りないの自信でしょ」
「自信、ですか?」
予想もしていなかった答えにどう反応していいか分からなかった。
「美人だし、気が利くし、何ごとも一生懸命なんだからあとは自分に自信を持つこと」
「そうでしょうか?」
「はい、そういうとこ」
癖で傾げてしまっていた首をくいっと真っ直ぐに矯正される。
「好きな男がいるなら好きだって伝えなよ。待ってるだけじゃ駄目」
「でも、そんなことをして嫌われたら」
「いいじゃないの。嫌われたって。嫌われないようにして忘れ去られるより、嫌われても覚えられてる方がましじゃない?」
山郷さんらしい、思いきりのある考え方だった。
嫌われるよりも忘れ去られる方が切ない。それはその通りだった。
一日たりとも恭也さんを忘れた日はなかったが、それは私の話だ。
恭也さんからしてみれば、私はもう三年も前に別れた女でしかないのかもしれない。今さらそんなことに気付く。
嫌われてしまったら二十六歳の約束までなくなってしまう。そんなことに恐れていた自分が馬鹿馬鹿しい。
あるのかないのか分からないものを恐れるより、今の気持ちを大切にしなければ意味がない。
そう思うといても立ってもいられなかった。
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げてから慌てて恭也さんのマンションへと向かっていた。もちろんそこは三年前に住んでいたところだから、今もそこにいるのかは分からない。
でもとにかく行動に移したかった。
マンションの前についてからスマホを手に持ち、大きく息を吸う。
オートロックだから中には入れないのでここから電話で呼び出すつもりだ。
緊張で震える指をなんとか動かし、発信を押した。
電話はツーコールで出てくれた。しかし通話相手は全く知らない人だった。メッセージを送っても届かない。恭也さんはとっくに連絡先を変え、私との繋がりを切ってしまっていた。
私が繋がってると思って大切に握っていた糸は、とっくに切れていた。
「いいよ。そうじゃないかなって思ってたから」
独り言を呟くとマンションの植え込みに腰掛ける。ここで帰ってくるまで待ち続けるつもりだ。
嫌われたくない、邪魔したくない、三年後には迎えに来てくれる。そう思ってこれまで待ち続けてきた。
しかし今はそんな気は全くない。直接会って話をする。会って想いを全て話す。そう決めていた。
やがて夜になり、マンションの部屋には灯りがつき始める。
まだ恭也さんはこの前を通っていない。見落としていない自信はあった。しかし恭也さんの住んでいるはずの部屋には既に灯りがともっていた。
(きっとずっと家にいたんだ)
ならば出て来るまで待つつもりだった。
時が経ち、寒風に震えながら両手のひらを擦り合わせる。やがて部屋の灯りもぽつぽつと消え始めていく。
祈るように見詰めていた恭也さんの部屋の灯りがぷつりと消える。
「あっ……」
その瞬間、心の奥で何かが潰れた感触を感じた。
薄々気付いている。
もうここに恭也さんは住んでいないと言うことに。
それでも待つつもりだった。
食事もトイレも我慢していたから限界も近い。その時脳裏に石川さんのことが浮かんだ。
『あの人なら恭也さんの住所を知っているかもしれない』
非常識な時間だと知りつつ、私は石川さんに電話をかけた。
石川さんはスマホを弄っていたのかワンコールもせずに取ってくれた。
「あの、お久し振りです。鹿ノ子です」
名字を名乗りたくなくて、早口でそう告げる。でも寒さで口がうまく回らなかった。
「おお。久し振り。元気だった?」
石川さんの声は相変わらず優しげで、受話器越しでも肉声のように温かみを感じた。
「実は恭也さんの住所を知りたいのですが」
近況もなにも伝えずに本題を切り出すと、受話器の向こうで戸惑っている様子を感じ取った。
「もしもし? 聞こえてますか?」
「聞こえてるよ。なんで今さらそんなことを?」
「会って話がしたいんです。どうしても伝えたいことがあって」
「……やめておいた方がいいんじゃない?」
恭也さんの住所を知らないとは言わなかった。それだけで充分、期待が持てた。
「どうしても伝えないといけないんです。お願いします」
「恭也はもう音楽も辞めた。俺もしばらく会ってないんだよ」
「わかりました。教えてくれないなら今から石川さんの家に行きます。教えてくれるまで帰らないつもりですから」
「ちょっ……やめてよ」
私の執念に怖じ気づいたのか、それまで落ち着いていた石川さんは急にたじろいだ。
「今すぐ行きます。待ってて下さいね」
「分かった。教えるから来ないで」
狂気染みた私に恐れをなしたのか、石川さんは観念して恭也さんの住所を教えてくれた。でもこれできっと私は着信拒否にされてしまうだろう。
それでも仕方ない。全てをなげうってでも、今の私は恭也さんに会いにいかなければならない。
教えて貰った恭也さんの住まいはかなり離れた場所だった。当然の歩いてはいけない。
駅に行くのももどかしく、私はタクシーで向かった。
「ここが恭也さんの住んでいるところなんだ……」
先ほどのマンションとは比較にならないほど寂れたアパートだった。でもどこに住んでいようが、お金持ちだろうが貧乏だろうがそんなことは関係ない。
私は恭也さんさえいれば、それでいいのだから。
午前二時過ぎ。教えて貰った205号室は当たり前だが灯りが消えており、ひっそりと闇に沈んでいた。
なんでもないマンションのなんでもない部屋の窓なのに、あそこに恭也さんがいると思うと特別な場所に思えた。
別れてから約三年間、いや七歳の頃から想い続けた人がそこにいる。そう思うと胸が熱くなった。
さすがにこの時間に訪問する訳にもいかない。とはいえ目を離した隙にいなくなるのではないかという恐怖もあった。だから私は日が昇るまでそこで待つことにした。
もしかすると私は傍から見たらストーカーなのだろうか。別にどう思われようが構わない。
私は本当に久し振りに安らいだ気持ちで、夜明けまでその場所で代わり映えのしない景色を眺めていた。
指の感覚を失うほど身体が冷えても平気だった。陽が昇れば恭也さんと逢える。そう思えば一晩くらい寒空の下で凍えるのも平気だった。