二十三歳の誕生日
普通恋人と別れても時が経てばどんなに深い傷でも癒えていく。いや、風化していくというのが正しいのだろうか。
過去はどんどんと遠離っていくかのだから、やがて仕方のない過去と割り切れるのだろう。
しかし私の場合はそうならなかった。
確かに二十三歳の恭也さんは遠離っても、結婚を約束した二十六歳の恭也さんは近付いてくるのだから。
でもその最後の拠り所も、今やあやふやになってきてしまっていた。
恭也さんがやって来て私の危機を三度も救ってくれた。とはいえそれは動画はおろか写真すら残っておらず、私の記憶の中にしかない。
(本当にそんなことがあったのだろうか?)
最近では自分でも自信がなくなってきた。
恭也さんが助けてくれたことで何か残っていれば証拠にも出来る。しかし恭也さんがしてくれたことはむしろ逆だった。
変質者にイタズラされなかった。太ももに傷を作らなかった。家出をして道を踏み外さなかった。
全部『あったこと』を『なかった』ことにしてくれた。
全ては私の妄想で、恭也さんは未来からやって来なかったと考える方が現実的だ。
『婚約者が未来からやって来て、助けてくれた? まさか。妄想でしょ?』
誰に相談してもだいたいそう片付けられてしまうだろう。私が否定すればするほど、妄想癖の強い人と思われるだけだ。
もし全てが妄想ならば恭也さんが二十六歳の時に私と結婚するというのも、もちろんあり得ないことになる。
私はあり得ない未来を待って毎日を過ごしているのだろうか。
二十三歳の誕生日、私は独り部屋の中でそんな堂々巡りの思考を巡らせていた。
(いや、唯一の拠り所はある!)
私は押し入れを開け、遣わないものを入れた段ボールを引っ張り出す。そしてその奥底にしまってある日記帳をそっと手に取った。
ページを捲ると、それはすぐに見付かった。
小学六年生の時に私が恭也さんに送ったポエムだ。
今は違う歌詞になってしまったけれど、『誰も知らない少女の脱皮』にこの詩を入れてくれていた。
最後の一行だけは恭也さんの歌詞に採用されなかったけれど、全く同じ詩だ。偶然に一致するはずはない。
それに私はこの日記を恭也さんに見せたこともない。
これが恭也さんが過去の私と会った何よりの動かぬ証拠だ。
「いや、それも言い切れない……」
日記のその部分を見て光が射しかけたが、すぐに他の可能性に気付いてしまった。
私が見せていなくても、恭也さんが勝手に見た可能性がある。
段ボールの底の方に隠してはいたが、鍵などはないので見ようと思えば簡単に見ることが出来る。
結局証拠は何もない。記憶などと言うあやふやなものに縋るしかなかった。
SNSを開くと『お誕生日おめでとう』と画面一杯に花が咲いて風船が無数に飛んでいった。
それを見て今日初めて誕生日を祝われたことに気付いた。
会社に行き、帰ってきたらこうして恭也さんを思い出して過ごす。ただその繰り返しの毎日だった。
本当は会いに行けばいいのだろうが、そんなことをして嫌われてしまったら未来の結婚まで消えてしまいそうで怖かった。
今日も恭也さんのエゴサーチをしようとしたところで、来客を告げるベルが鳴った。
別れて一年。もう期待してドアへと駆け寄ることもなくなった。
とはいえ居留守を使うほど希望は捨てきれてはいない。
ドアを開けると、冬の風が細かい筋のように吹き込んで入ってくる。
「やあ、突然ごめんね」
そこには仕事帰りの京谷さんが立っていた。
「京谷さん……どうしたんですか?」
「今日は一日中外回りで渡せなかったから」
そう言って綺麗にリボンを付けられた袋を渡してくる。
「お誕生日おめでとう」
「あ……知ってたんですか?」
「前に聞いたから」
元パンクロッカーとは思えない柔和な笑みを浮かべてそう言った。
胸がざわつく。思わずプレゼントを受け取りそうになり、慌てて手を引っ込めた。
「前に彼氏がいるともお伝えしたと思いますけど?」
「そっちは忘れた」
「都合のいい記憶なんですね」
おかしくて笑ったら、よく分からない感情がこみ上げて鼻の奥がつんとした。
私なんかに優しくして、この人はなにがしたいのだろう。どれだけ愛されようが、私はそれを返さない。
「ごめんなさい。それは受け取れません」
「そんな大層なものじゃないから」
「いえ。ものじゃなくて、気持ちは、大層なものだと思います」
傷付けられたから誰かを傷付け返したい。そう思ったこともあった。でも真っ直ぐな京谷さんの気持ちをぶつけられると、とてもそんなことは出来ない。
「私にはもう構わないで下さい。お願いします」
心の底から詫びながら深く頭を下げた。京谷さんが息を飲む気配を頭上で感じていた。
「わかった。ごめんね」
そう言われても頭は上げなかった。石川さんのつま先がくるりと回り、踵が遠離っていく。ドアクローザーの油圧でゆっくりとドアが閉まり、外からは立ち去っていく足音が聞こえた。
「馬鹿だな、私」
俯いたまま呟くと、先ほどの鼻の奥のツンとした感覚は更に強くなって痛いくらいだった。
床にぼたぼたと水滴が落ちていく。
幸せになるのを拒むように生きる自分が馬鹿馬鹿しくなる。
でも必ず恭也さんは迎えに来てくれる。そう信じて唇を噛んだ。
年が明けるとすぐに私は会社を辞めてパートを始めた。なるべく男性がいない職場で働きたかった。




