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もう一人の『きょうや』さん

 仕事を頑張れるのは大学入学金の返済が一番の原動力だ。

 お金を返さなければいつまでも母の再婚相手と縁を切れない。そんな歪な情熱だけが私をなんとか奮い立たせている。


 しかし仕事というのはやる気だけでは上手くいかない。

 相変わらず私はミスの連発で社内での立ち位置は日に日に悪くなっていた。それでも京谷さんは私を見棄てずに助けてくれている。

 そこに何らかの下心があるからだと私は自分に言い聞かせていた。そうでもしないと彼の優しさに揺らいでしまうような気がしていた。それくらい、今の私は寂しさで心が弱っている。


 秋と冬の曖昧な境目のある日、京谷さんが二日連続で会社を休んだ。どうやら風邪を拗らせてしまったらしい。幸いその二日間とも、私はミスらしいミスをせずに済んだ。それどころか珍しく課長に褒められた。

 皮肉なものでその喜びをすぐに伝えられない寂しさで、私は京谷さんのありがたさに気付かされた。


 仕事帰りに私は京谷さんのアパートへと向かっていた。住所は以前年賀状を出すために聞いていたので知っている。

 お見舞いである果物の入った篭を片手にインターフォンを押した。


「はぁい」


 開いたドアからマスクをしてパジャマの上にダウンジャケットを羽織った京谷さんが顔を出す。

 迷惑そうに細められた目は、来訪者が私だと分かると驚いたように見開かれた。

 先ほどまで寝ていたのかボサボサの髪だった。前髪が鬱陶しそうに少し目にかかっている。

 マスクをして前髪が隠れているとどこか恭也さんに似ている気がしてドキッとした。


「突然すいません。あの、お見舞いです」

「え? あ、ありがとう。来てくれるなら連絡くれたらいいのにっ。部屋が散らかっていて」

「連絡したらうつるといけないから来なくていいって言うんじゃないですか?」


 見透かしたように言うとばつが悪そうに頭を掻いた。その仕草はちょっと可愛い。

 部屋に入るのは少し躊躇われたが、具合が悪そうなので少し世話を焼かせてもらおうと上がり込んだ。それくらい普段世話になってるお礼にしても罰は当たらないだろう。


 仕事はきちんとしている割に部屋は意外と散らかっていた。

 なんだかんだ理由をつけて起き上がろうとする京谷さんをベッドに寝かせて掃除をはじめる。


「本当に掃除なんていいから」

「駄目ですよ。汚れた部屋だと空気も澱んで風邪の治りも遅くなります」


 医学的な根拠に乏しそうな理由を口にすると、自分でもなんだかおかしくなり笑ってしまった。

 ゴミを袋に纏めた後、CDやらゲームのコントローラが散らばるオーディオラックに手をつける。


「ああ! そっちの方は本当にいいから!」

「怪しい慌てぶりですね。大丈夫ですよ。私だっていい歳なんですからエッチなDVD見たくらいでは騒ぎませんから」

「違うんだ。その辺りにゴキブリの巣があるから」

「きゃっ!? 嘘っ!?」

「噓だけど」

「もうっ! 大人しく寝てて下さい!」


 こんな少し気を許したやり取りも、職場では出来ないことだ。でも今日は気を引き締めようとは思わずにいられる自分がいた。

 散らばったCDを片付けている最中、私はそれを見つけてしまった。


「えっ……これって……」


 頭がレモンの人間がギターを弾いているイラスト。そこには『アグレッシブレモン』と書かれていた。


「わっ!? それはマジで駄目!」


 京谷さんは慌てて飛び起きて私からCDを奪い取った。


 『アグレッシブレモン』


 忘れかけていた記憶が甦る。

 それは私と恭也さんが出逢った二十歳の誕生日にライブをしていたバンドの名前だ。


「京谷さんはそのバンドのファンなんですか?」


 アグレッシブレモンはインディーズバンドだ。そのCDを持っているとなると、ファンでないわけがない。意味のない質問のはずだった。

 しかしその答えは予想外のものだった。


「いや……ファンというか……俺がやっていたバンドなんだよね、それ」

「えっ……ええーっ!?」


 人畜無害級に大人しい京谷さんがあの暴力的な音楽を奏でるパンクバンドのメンバーだなんて信じられなかった。


「それより安斎さんがこのバンドを知ってる方が僕には驚きだよ」

「それは、まあ、ちょっとした事情で」


 まだ落ち着かない心臓を抑えながら答える。

 しかしふとその時、一つの憶測が浮かんで更に鼓動が速くなった。


 京谷さんは読みようによっては『きょうたに』ではなく、『きょうや』と読めることに気付いた。


(まさか……)


 私はあの夜恭也さんと出逢えた。運命の人と再会できた。そう確信した。

 しかし当然目の前にいるこの『京谷さん』とも出逢っていた。

 私は『きょうやさん』を取り違えてしまったのだろうか?


(いや、あり得ない)


 すぐにその可能性を打ち消す。

 恭也さんは『川神恭也』とフルネームを名乗っていた。『きょうや』違いなどあるはずがない。

 こんな突飛なことを思い付くのはどうにかして自分の人生に『恭也さん』を繫げようとするからだ。


「でも安斎さんに聴いてもらっていたとは光栄だな」


 京谷さんは笑おうとして咳き込む。ちゃんと寝てるように注意すると素直に従ってくれた。


「彼氏の影響です」


 なんとなく親しくなり過ぎてしまう気がして、緩んだ雰囲気の栓を締めるようにそう伝えた。


「へえ。変わった趣味の人と付き合ってるんだね」

「実際にそのバンドで演奏している人よりはマシです」

「はは。確かに」


 もっと否定してくると思っていたのに、すんなり認められてしまうと私が意地の悪い女みたいで居心地が悪くなる。


「なんで辞めちゃったんですか?」

「才能がないからだよ」


 まるで私の質問を予測していたように即答だった。


「そろそろ解散するかって言ったとき、誰も反対しなかったよ。誰かにそう言ってもらうのを待っていたみたいに、僕たちは解散した」

「でもライブにお客さん沢山いましたよね。凄く盛り上がっていたし」

「まあね。でもあれではプロとしてやっていけない」


 私が恭也さんと出逢ったあの夜。同じ場所で同じ空気を感じていたというだけで、京谷さんが少しだけ近い存在になった気がした。

 その言葉も、恭也さんを彷彿させた。

 これ以上ここにいてはいけない。

 脳に警鐘が鳴り響いていた。


「あの、私帰ります。お大事になさって下さい」


 玄関まで見送ろうとするのを固辞して慌てて部屋を出る。

 片脚で立ちながら、ちゃんと履けていなかった靴の踵に指を入れて穿き直した。

 いつの間にかじっとりと濡れていた背中を、晩秋の風が吹き抜けてゾクッとさせる。

 ほんの少しだけでも京谷さんに惹かれそうになった自分を戒める。


 足早に立ち去りながら、私はまた『きょうやさん』の取り違えの可能性を思い浮かべては否定した。



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