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夏の始まりと残酷な爪痕

 『蝉時雨』という表現は涼しいところで蝉の鳴き声を聞いていた人が考えた言葉なのだと思う。

 茹だるほどの暑さの中、汗まみれになりながら聞くシャンシャンシャンシャンという神経に障る騒音は、とても『時雨』なんて涼しげな響きではない。


 まあそうは言っても十数年後の夏はこんなものの比ではないから、暑いとは言っても堪えられないほどのものではなかった。

 夏休みに入った子供たちは虫取り網片手に公園で蝉取りをしていた。

 夏の昼間は暑すぎるというSFの世界のような理由で、暗に外出禁止令が発動されている十数年後の世界では見られなくなった光景だ。


 前回の変質者から鹿ノ子さんを救った時から四年後の世界に来ている。この時代の鹿ノ子さんは小学六年生になっている計算だ。

 活発な彼女は男の子と混じって野山を駆けまわる女の子に成長しているはずだ。

 そして夏休み初日の今日は、クラスメイトと共に近くの山に行く予定になっている。


 空は見上げるのも嫌になるほど眩しく、この晴天が急変するなんてとてと思えない。

 しかし天気予報が伝えるように、午後にはこの頃の流行語にもなる『ゲリラ豪雨』がやって来る。それまでに鹿ノ子さんを見つけて無事に戻ってこなくてはいけない。


 彼女たちが探検しているはずの山に向かう最中に小さな川があった。そこで遊ぶ子供たちもたくさんいて、水を掛け合いながら甲高い声を上げてはしゃいでいた。

 涼しげな様子に心を惹かれるが、今は一刻を争う時なのでもちろん水遊びなどしている暇はない。


 山の入口は細くてもまだ道だったが、少し奥に進むとすぐに踏み固められただけの獣道になった。

 耳を澄ませても子供の声はしない。きっと既にずいぶん先まで行ってしまったのだろう。


 少し湿った土を踏みしめ、先へと進む。木々の葉が青空を覆い隠してくれているから、昼なのにこの辺りは薄暗くてひんやりするくらいだった。

 草木の匂いに懐かしい記憶が刺激されたが、懐古に耽っている暇はない。


 獣道というのは子供の味方のようで、大人の僕は歩くことを拒まれる。群生した草に躓いたり、飛び出した枝が顔にぶつかったりと数々の罠が僕を引き返させようと必死に抵抗してきた。

 それでもめげずに僕は先へと進む。もう道らしきものも分からなくなり、出鱈目に山を登っていく。

 鹿ノ子さんの守るためならば、泣き言なんて言ってられない。



 大人になった鹿ノ子さんの脚は、引き締まっていながらも女性的な滑らかな曲線美を描いていた。息を飲むような艶やかさと、相反するような清らかさも兼ね持っている。どこにも隙のない完全な美と言えた。

 ただ一点、右足の太ももに這う痛々しい傷痕を除けば。


 はじめてそれを見たとき、僕は不躾にもその縦に伸びた悪魔の爪痕を凝視してしまった。


「ああ、これ?」


 僕の視線に気付いた鹿ノ子さんは、寝癖を見られたくらいの照れ笑いを浮かべながら無残な瑕疵かしを指で撫でた。


「小学六年生の時に友達と山で遊んでてね。その時に出来た傷」


 夏休み初日だったからテンションが上がっていたこと。男子が軽々と木を昇ったり崖を登るのを見て、負けん気が起きて無茶したこと。突然スコールのような雨が降り足許を滑らせたこと。その時に尖った岩に肉が抉られて血がドクドクと溢れ出たこと。

 それらをあっけらかんとした口調で語った。


 僕は癒すように傷口にキスをしたが、もちろんそんな治癒能力は持っていない。

 鹿ノ子さんはただ擽ったそうに身を捩って笑っていた。


 時に身体の傷は心も傷付ける。

 確かに脚の傷があってもなくても鹿ノ子さんの人生に大きな変化はなかったのかも知れない。でも少なくともミニスカートを穿く選択肢は奪った。

 もちろんミニスカートを穿けないことが問題なのではない。それを気に病む心の傷が問題だった。

 鹿ノ子さんには誰よりも幸せになってもらいたい。そのためならば、僕はどんな苦労も惜しむつもりはなかった。



 いくら日陰は涼しいとは言え、所詮は夏だ。動いているとすぐにまた汗は噴き出し、うざったく伸びた前髪は濡れて目に入ってくる。こういう時は本当に面倒な髪型だ。

 ハンカチで汗を拭い、濡れた髪の毛を掻き上げた。

 草木の坂道を這うように上り、草や枝であちこちに細かい傷を作って、ようやく子供たちのはしゃぐ声に追いついた。

 木々の隙間から覗く夏空は、いつの間にか鈍色の不穏な雲に被われていた。


「おーい!」


 声を張り上げて声の元へ向かう。突然現れた見知らぬ大人の侵入者に子供たちは驚いていた。陽に焼けた小さな先住民たちは、聖域を穢してくる闖入者の僕に怪訝な視線を向けてくる。


「間もなく雨が降る。早く山から下りるんだ」


 そう警告するとみんな一斉に空を見あげ、その灰色に濁った天候について騒ぎ出した。

 しかし僕はようやくそこで歴史に変化があったことに気付いた。


「鹿ノ子さんは……岳籐鹿ノ子ちゃんはっ!?」


 このグループには男子しかいなかった。

 狼狽える僕を見て、一人の男の子が言った。


「カノコ? いないよ。カノコは川で遊んでいると思う」

「川っ!?」


 ここに来る前に見かけた小さなせせらぎで遊ぶ子供たちを思い出した。


(しまった!)


 僕はアメリカのアニメキャラが逃げ出すときのような動作で走りだした。

 歴史が変わったんだ。

 僕が七歳の頃の鹿ノ子さんの運命を変えたことが原因なのかもしれない。

 何度も躓きかけながら一気に山を駈け下りる。

 あまりに勢いよく走ったから膝が笑っていた。どんなに激しく呼吸をしても酸素が足りない。心臓が処理しきれないほど血流が勢いよく巡っていた。

 山を下りきったとき、思わずその場に倒れそうになったが、ぽつんっと頬に当たった雨粒が僕に気力を与えた。


『こんなところで倒れるわけにはいかない』


 蹌踉けながら舗装された道を再び走り出す。

 山から川に変わっても鹿ノ子さんを襲う悲劇は繰り返される。そんな不吉な予感があった。


 最初の一粒が頬に当たってから数十秒後には、雨脚はアスファルトを跳ねて煙らせるほどの勢いに達していた。

 夏の雨の匂いが、噎せ返るほど立ち籠めてきた。


『間に合ってくれ!』


 僕はもはや気力だけで小川に架かる橋まで駆け抜けた。



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