私の知らない『わたし』
その数秒は忘れられないのに、それからのことはあやふやにしか覚えていない。
泣き叫び、喚き散らした記憶はある。
不用意に近付いてきたあの男を詰り、こんなキャンプに連れ出した母を罵った。
ドクドクと溢れてくる血を見て、更に興奮した。
親たちは大慌てで私を病院に連れて行ったが、どんな病院だったとか、そこでどんな治療をしたとかは一切覚えていない。
母もあの人もひたすら謝り、私はひたすら泣き続けた。
一生消えない傷が出来たことに娘が悲しんでいる。そんな風に思っていたのだろう。
しかし問題の本質はそんなところにはなかった。
私が嘆き苦しんだのはもちろん、せっかくの恭也さんの救済を無駄にしてしまったことだった。
恭也さんは肩に怪我を負ってまで、私の脚を守ってくれた。それなのに結局私は内ももに醜い傷を作ってしまったという絶望だった。
おぞましい記憶を振り払うように、急いで湯船から上がる。雑に身体を拭き、まだ水滴が残っているのに下着とパジャマを着て傷を視界から隠す。
そしてベッドに行き、頭から布団を被り胎児のように身体を丸めて震えていた。
(こんなことならお風呂に入るんじゃなかった。寒さで震えていた方がずっとましだった!)
助けを求めるように恭也さんを思い浮かべる。
なぜかその姿は今愛し合う恋人となった恭也さんではなく、もう忘れかけていた前髪で目まで隠れてしまっていた二十六歳の不健康そうな恭也さんだった。
同じ恭也さんなのに、今の恭也さんと何か違う。その姿を思い出し、ハッと息を飲む。
子供の頃は分からなかったが、今に思えばあんなに前髪が伸びたサラリーマンはいない気がする。ミュージシャンだからあんな髪型だったのだろうか。
しかし恭也さんは前髪を切り、普通に就職してしまっている。
本来ならばミュージシャンになるはずだったのに、未来が変わってしまったのかもしれない。
もしかしたら私が恭也さんの芸術家としての可能性を狭めてしまっているのだろうか。
過去を変えた為に未来が変わっているのだろうか。
そう考えたとき、今さらながらに大切なことに気付き背筋に緊張が走った。
なぜ恭也さんは過去に戻ってまで私の運命を変えてくれたのだろうか?
過去を変えれば当然未来が変わる危険性がある。その危険を顧みず、なぜ恭也さんはそんなことをしたのか。
恭也さんは私を『未来のお嫁さん』だと言ってくれた。
それは即ちなにもせずにそのまま暮らしていれば、私と恭也さんは結婚したということに他ならない。
それでもなお、私の過去を塗り替える意味とはなんだったのだろうか?
その答えは頭を悩まさなくても本当は分かっていた。分かっていて、目を背けていただけだ。
私は七歳の時に変質者にイタズラをされ、十一歳で脚に醜い傷を負い、十三歳で家出をして実家とは縁を切ってチンピラのような男の家に転がり込んだ。
どれ一つとして結婚相手に望むような事柄ではない。
それでも恭也さんは私と結婚してくれようとしてくれた。でももし回避できるなら、どれもすべて回避した方がいい。
幼い頃のトラウマも、穢れのような傷も、実家を捨てた事実も、ない方がいいに決まっている。
それにそんな歳で男の家に住み着いたなら、色んな男にも抱かれて、その後転落した人生を歩んでいたに違いない。一体恭也さんはどんな私と結婚しようとしてくれていたのだろう。相当荒んでいたのは間違いない。
そんな未来を回避するために、恭也さんは幼い私を助けてくれた。それなのに私は結局脚に消えない傷を負い、実家を捨ててしまっている。
せっかくの恭也さんの努力を無駄にしてしまった。
寒気がして、更に身体を縮こまる。
せっかく変えた過去が元通りだ。過去が変えられなかったなら、もう私のことなどどうでもよくなっているかもしれない。
「そんなっ……そんなはずはない……」
恭也さんは私の内ももの傷を見ても嫌悪感なんて見せなかった。「気にしなくていい」と言ってくれた。
(でもそれが本心だとは限らない……)
その不吉な予感は、どんどん私の中で膨らんでいく。
私の人生には恭也さんしかいなかった。その恭也さんがいなくなるなんて、想像もつかない暗闇だ。
「嫌っ……そんなの嫌っ……嫌っ……嫌嫌嫌嫌っ……」
『想い』は過ぎると『重い』なり、男から疎まれる。
琴葉の指摘は理解している。
でも私はそれに歯止めをかけるなんて出来そうになかった。
私と恭也さんは文字通り『時を超えて』想い合っている。他の恋人同士と同じ尺度で考えないで欲しい。
そんな風に考えていた。
しかしそれは一方的に、どこまでも一方的に、私の方が感じているだけだ。
恭也さんには私と過去に出逢った記憶はない。
時を超えてるのは、私だけだ。
恭也さんは一年と少し前に知り合った女の子くらいにしか思っていない。
──いや、本当にそうなのだろうか?
過去に戻れる力があるなら、恭也さんは昔の自分に会える。
会って私のことを話してくれている可能性がある。
でも今のところ恭也さんは私のことを覚えてくれている気配はない。もしかするとそれは何か理由があってのことなのだろうか。
けど、なぜ覚えていない振りをするのだろうか。
その理由は想像もつかなかった。




