抗えない運命の傷痕
祝勝会は午後九時半にはお開きとなった。
かなり早いが、それは二人が私と恭也さんへ気遣ってくれたものだった。
もう以前のように四人で雑魚寝などはしない。
石川さんが最初に自分の部屋へと戻り、そのあとに琴葉が「じゃあね」と変な笑みを残して部屋を出て行った。
恭也さんとのことを訊かれて答えた時の「え? まだなの?」と驚いた琴葉の顔が、先ほどの意味深な笑みと重なり、心臓がばくんばくんっと大きく振るえ始める。
二人が帰ると部屋はやけに大きなものに感じられた。
「なんか急に静かになっちゃったね」
「ええ。いつも琴葉がうるさくてすいません」
テーブルの上には使ったままの皿がいくつかそのままになっていた。食べ終えたチキンの骨というものは、どこか享楽の罪の残り香をほんの少しだけ感じさせる。
「琴葉ったら片付けもしないで」
皿を手に立ち上がろうとすると、その手を掴まれた。
「片付けはあとでいいよ。それより隣に来て」
「う、うん……」
恭也さんの顔は見られなかった。
視界の外から手が伸び、頭を撫でられる。いつもより少しぎこちない動きだった。それで恭也さんも同じことを考えているんだと確信する。
私たちは二月の終わりに付き合って以来、キスまでしかしていない。
それだって数えるほどだ。
好きすぎると臆病になるなんて、今まで知らなかった。
そして進展を先延ばしにするほど照れ臭さが増していくことも知った。
「鹿ノ子さん」
囁くように呼ばれ、心が愛撫された。頭を撫でていた恭也さんの手がゆっくりと降りてきて、私の顎に添えられる。
そのまま優しくくいっと持ち上げられた。髪がサラサラと流れ落ち、目の前に恭也さんの顔が現れた。
「恭也さん……」
「鹿ノ子さん、好きだよ」
恭也さんの指が顔にかかった髪を丁寧に掬って払い除けてくれる。
髪を切った恭也さんにはまだ正直慣れていない。でも目を覆うほど長い前髪がなくなっても、私のことを覚えていなくても、恭也さんは私の大切な恭也さんだ。
ゆっくりと顔が近付いてくるのに併せて目を閉じる。
唇同士が触れ合う柔らかな感触。
私の頬を撫でる恭也さんの指。
私も恭也さんの喉元に手のひらを添えた。
恭也さんが部屋の灯りを消そうとし、慌ててそれを遮った。
「待って……下さい」
私が踏み込めなかったのには、照れ臭さだけじゃなくてもう一つ理由があった。本当はそちらの理由の方が遙かに大きい。
意を決した私はスカートをたくし上げ、内ももを見せる。恭也さんがそれを見て息を飲んだのがわかった。
「醜いでしょ」
私は内ももに這いつくばるムカデのような傷を指差し、ぎこちなく笑った。
「これは……」
「ごめんなさい」
せっかく十一歳の時に身を挺して救ってもらったのに、結局私は脚に醜い刻印のような傷を負った。
「謝ることなんてないよ。これは、いつ出来たの?」
「これは……」
悼む恭也さんの顔を見て、疑心に満ちた気味の悪い感情が渦巻いた。まるでその傷口に巣食っている魔物が暴れ出したかのように、心を黒く覆っていく。
「小学校六年生の頃、川で遊んでいて出来た傷なの」
恭也さんの目を見詰めて、噓をついた。どんな些細な動揺も見逃さない監視カメラのように、その目を凝視した。
「可哀想に……」
恭也さんは悲痛の面持ちになる。確実に動揺している顔だった。でもそれが傷に対してのものなのか、私の噓に対してのものなのかまでは分からなかった。
その判断がつかないうちに、恭也さんはそのムカデにキスをした。
その途端まるで憑きものが成仏したように、過去に囚われて黒く濁ったものが霧散した。恭也さんのキスには穢れを祓って癒す力があるかのようだった。
過去を覚えていなくても、そんなことは関係ない。この人は私の初恋の人だ。
記憶があればあの日の恭也さん。記憶がなければ違う恭也さん。
心のどこかでそんな風に考えていた自分に腹が立った。
大切な人を試すようなことをするなんて、私は最低な人間だ。
「ごめんなさい。こんな傷を作った身体で」
「馬鹿だな。そんなことを気にしていたの?」
「だって。嫌われると思って」
「そんなことで嫌うわけないだろ」
恭也さんは少し怒っているようだった。
「僕はそんなこと気にしない。なにも気に病むことなんてなかったのに」
恭也さんは私のために涙を滲ませてくれていた。
「泣かないで下さい」
「脚の傷は癒やせないけれど、君の心の傷を癒したい」
「はい……」
その言葉も十一歳の時に聞いた言葉に似ている。
愛しい人の胸に抱かれ、私も熱いものがこみ上げてきた。
灯りを消し、私たちはこれまでの時間を取り戻すように、全身で愛していることを伝え合った。




