切り落とされた前髪
恭也さんと海辺の遊歩道を散歩した帰り道、駅に向かう途中で見掛けたこぢんまりとしているが趣のある喫茶店に入った。
美しい木目を活かした造りの店内は優しいオレンジ色の照明で照らされており、とろんとした雰囲気がミルクティーみたいだった。だから私はメニューを見ずにミルクティーを注文する。
三月の潮風の冷たさに凍えた体がゆっくりと温もっていくと、知らずに強張っていた筋肉が弛緩していった。
「鹿ノ子さん、なんか嬉しそうだね」
恭也さんは私の顔を見て微笑む。付き合い始めた今でも私が喜ぶからか、恭也さんは私のことを『鹿ノ子さん』と呼んでくれていた。
何年も片想いをした人が私の目の前にいて、私だけのために微笑んでくれる。これ以上の幸せなどあるはずがない。
「感謝してたんです」
「感謝?」
「こうやって恭也さんと出逢えたこと。そして恋人になれたこと。こんな素敵なことを感謝しないと罰が当たります」
素直な気持ちを伝えると、恭也さんは恥ずかしそうに首筋を掻いて笑った。
「す、すいません……また私暴走してしまいましたね。恥ずかしい」
「いや。素敵だよ。鹿ノ子さんのそういう気持ちを隠さずに真っ直ぐなところ、凄く綺麗で僕は好きだな」
「あ、ありがとうございます……なんか照れますね」
好きな人に好きと言われるのは、なんでこんなに嬉しいんだろう。
恭也さんの前にいると、私は子供のように素直になれる。
それは私の内面だけに留められず外面にも溢れ出してしまうようで、恭也さんは私の頭を子供にするように撫でてくれた。
二十歳になった今でも高校球児が歳上のお兄さんに見えるのと同じように、幼い頃から大人の恭也さんを知っているので一歳差の今でも遙か歳上に思えるのかもしれない。
「そうだよね。感謝しないと。僕みたいな取り柄もなければ格好良くもない男がこんな可愛く美しい鹿ノ子さんと付き合ってるんだから」
「またそういうこと言う。恭也さんは優しいし、音楽の才能だってあります」
なぜか恭也さんはいつもこんな感じのことを言う。私の外見を褒めているつもりなのかも知れないが、言われる度に悲しい気分にさせられた。
確かに私は子供の頃から容姿について褒められることが多かった。
でも自分では卵形の輪郭も、少しキツそうに見えてしまう大きな二重の目も、幸が薄そうな口許もあんまり好きではない。
「音楽の才能かぁ……あるのかな? 動画の再生回数だって千越えたくらいのが一つあるくらいだし」
「ありますよ。私は好きですもん。恭也さんの創る曲」
そう言って恭也さんの曲を一節歌うと、恭也さんは笑いながらその続きを一緒に歌ってくれた。
「最近曲を書いてるんだけど、ちょっと変わってきてるんだよね」
「変わってきている?」
「うん。鹿ノ子さんと付き合ってからは特に」
「えっ!? 私が原因なんですか?」
音楽作りの時間を奪ってしまっているとか、感性が鈍ってきているとか、なにか迷惑になってしまっているのだろうか。
「そんな不安そうな顔しないで。もちろんいい方向に変わってきているんだから」
恭也さんの大きな手のひらが私の頭をぽんぽんと撫でる。
「鹿ノ子さんの真っ直ぐで一途な気持ちに触れて、僕の曲に何が足りなかったものに気付かされた。僕も気持ちに素直で真っ直ぐな曲を作ってみたい。今はそう思うんだ」
恭也さんの顔には創作に魅せられたものの熱を帯びていた。
自分の言動がどのような作用を与えているのかは分からないが、少なくとも創作の熱源となれていることに喜びを覚える。
「嬉しいです。私が恭也さんの創る世界に住めるみたいで」
「僕の創る世界の住人か……鹿ノ子さんは相変わらず面白いこと言うね」
私のつまらない言葉を神の啓示のように恭也さんはメモを走らせくれていた。
恭也さんは何か思い付いたことはいつもそうやってメモを取る。あのノートを私で埋め尽くしたい。そんなこと言ったら重い女だと引かれるだろうから、絶対に言わないけれど。
「全部、恭也さんのお陰なんですよ」
「え? なに? なんのこと?」
「ううん。なんでもないです」
今の私が笑っていられるのも、すべて恭也さんのお陰だ。
恭也さんが助けてくれたから、私は大きく道を踏み外さずに生きて来られた。
とはいえ、恭也さんには私を助けてくれた記憶というものがない。少し寂しかったけど、それまで求めるのは欲張りというものだ。
そもそも記憶なんて忘れてしまうこともあるし、いつの間にか自分に都合よく改ざんされてしまっていることもある。
そんなあやふやなものよりも、今この瞬間の方がよっぽど大切だ。
「そういえば恭也さん、就活はどうですか?」
「うーん。まあ、ぼちぼちかな」
そう言って狙っている企業の説明をしてくれた。
自分の実力やポテンシャルとそれを鑑みた志望企業の説明は、先ほど音楽について語ってくれた時とはまるで違う熱量だった。
別に暗い口調というわけではない。むしろさっきと一緒で一生懸命に話してくれる。でもそれは、まるで何かを言い訳するような饒舌さだった。
「いいところに決まるといいですね」
本心ではなくそう言うと、「うん。頑張るよ」と頷いた。
その翌日、恭也さんは就活のために髪を切った。もちろん前髪もバッサリ切り落としていて、目許もさっぱりとしていた。
あれほど好きになれなかったあの前髪も、なくなってしまうとなぜだかとても寂しかった。
私が知らない恭也さんになっていく。そんな漠然とした不安が胸を掠めていった。