忘れられない夜のこと
洗い物を終えた石川さんが戻って来てからポテトチップスなどのスナック類を広げてチューハイやビールで乾杯をする。石川さんはお酒が飲めないので炭酸水を飲んでいた。
「曲ってどんなタイミングで思い付くものなんですか?」
軽い気持ちでそう訊くと恭也さんは「んー」と唸って難しい顔をして考え出した。
「その曲にもよるんだよね。突然買い物中に浮かんだものもあるし、書こうと思って唸りながら書いたのもあるし」
「色々なパターンがあるんですね」
「でも最初に出来たものというのは大概は未完成で辿々しくて粗削りなんだよね。そこからブラッシュアップしていく感じかな。その過程で全く違う曲になることもしばしばだし」
適当に答えずきちんと伝えようとしてくれるのが嬉しかった。
音楽について語るときの恭也さんは普段の物静かな印象とまるで違う。本当に音作りが好きなのだと感じる。
子供のようにキラキラとしたその目を、私はずっと見ていたかった。
最初にギブアップしたのは琴葉だった。眠そうにうつらうつらするのでベッドに寝かされた。
本当は帰る予定だったけどおかげで泊まる流れになりそうで、無自覚な琴葉のアシストに感謝した。
石川さんも何度もあくびし、しまいに床で丸くなった。
「石川も寝るのか? 鹿ノ子さんも疲れたでしょ。一応一組だけなら布団あるから」
「えー? 私も床でごろ寝でいいですよ」
「お姫様にそんなことさせるわけにはいきません」
笑いながら恭也さんはテーブルやら空き缶を片付けてスペースを作ってくれる。
軽いジョークの『お姫様』なんだと分かっていたが、心臓は厚かましくも高鳴っていた。
一緒にゴミを片付け、押し入れから布団を出して敷く。
「ほら、使ってね」
「え、でも」
遠慮の押し問答が始まる前に恭也さんは電気を豆電球にして床に転がってしまった。
「ありがとうございます。お休みなさい」と言ってから布団に潜り込む。思ったほど恭也さんの匂いは染みついておらず、少しガッカリした。琴葉の寝転がるベッドはもっと恭也さんの匂いに満ちているのだろうか。
そんなことを考える自分が変態みたいで恥ずかしくなった。
オレンジ色の優しい灯りの下で、私はいつまでも寝付くことが出来なかった。
飲めないお酒を飲んだからか、それとも恭也さんの近くで寝ているからか、血液はいつまでも激しく循環しており落ち着いてくれない。
寝返りを打つ振りをして恭也さんの顔を見る。
十二月に再会したときから今日に至るまで、恭也さんは私のことを覚えている様子は一度も見せなかった。
初めは覚えているのに隠しているだけなのかも、と期待もしたがどうやら本気で記憶にないようだった。そもそも覚えていたとして、記憶がない振りをする理由が私には分からない。
淡く切ないあの愛しい記憶は私だけのものだと思うと悲しくなった。まるで愛し合った日々を忘れ、恋人を他人だと思っている人を愛するような辛さだ。
記憶の中の恭也さんと比べて若いので違和感を覚えた顔も、今ではすっかり馴染んでいた。
もちろん人間として尊敬して惹かれているが、容姿も好きだ。長すぎる前髪以外は。
未来の世界では目を被うほどの長い前髪が流行ってるなんて言っていたけど、そんな変な髪型はこの時代で流行っていない。
「嘘つき……」
十三歳の頃の想い出がこみ上げて、自然と笑顔になった。
「嘘つき?」
突然恭也さんは目をぱちっと開き、もっさりとした前髪の隙間から見詰めてくる。
「わっ……!? お、起きてたんですか?」
「なに、嘘つきって?」
「内緒です」
二人の寝息より大きくならないよう、小さな声で囁きあう。必然聞き取りづらいから、互いに少しづつ近付いた。
夕陽のような穏やかなオレンジに染まった恭也さんの顔がそばにあった。はじめは二十歳近くあった年の差もどんどん縮まり、今は僅か一歳差になっていた。
キスをしても、それ以上のことをしても、誰にも咎められない。そんな関係になったんだと思うと、心臓は暴走を始めてしまう。
「時おり鹿ノ子さんって不思議だよね」
「不思議?」
「だって普段は大人しくて、静かに人の言うことに肯くだけなのに、たまに凄く情熱的だし」
情熱的というのは出逢ったライブハウスでの逆ナン的な行動のことを言ってるんだろう。あの時のことは今でもこうしてたまにネタにされてからかわれる。
「それにたまに僕と昔からの知り合いみたいなこと言うよね」
「そうかな? 気のせいですよ」
「僕たちってどこかであったこと、あったんだっけ?」
「それは……」
真剣に訊かれ、思わず助けに来てくれたエピソードを話しそうにそうになる。真実を話したところで信じて貰えるはずがない。
それに将来結婚する予定だなんて言ったら絶対に引かれる。変なことを言って未来が変わってしまったら、元も子もない。
「分からない。前世で逢ってたりして、私たち」
「なにそれ」
恭也さんは声を出さないように、喉の奥で声を殺しながら笑った。そして私の布団の中に手を忍ばせてくる。
布団の中で手を握られた瞬間、息が止まった。
「恭也さん……?」
もう恭也さんは笑っていなかった。
真剣な目で真っ直ぐ私を見詰めてくれていた。
「好きだ。鹿ノ子さん。俺と、付き合って欲しい……」
「えっ……」
言われた瞬間、涙が溢れてしまった。
鼻の奥がつんとして、せっかく照れた恭也さんの顔が滲んで見られなかった。
答えなんて一つしかないのに、喉が詰まって声が出ないから必死で手を握りかえして意志を伝える。
予想外のリアクションだったのか、恭也さんは慌ててしまっていた。
早く答えないとと気ばかりが急いて、声を出そうとしたら器官に涙やら唾液が逆流して咳き込んでしまう。
「大丈夫?」
背中を擦ってくれる恭也さんの大きな手が優しかった。
きっと今の私の顔は見せられたもんじゃない。
顔を恭也さんの胸に押し付け、なんとか声を振り絞った。
「ありがとうございます。私なんかでよければ、彼女にして下さい。ずっとそばに、置いて下さい」
一気にそう言ってまた咳き込んだ。
その瞬間──
「おめでとうっ!」
「やったな、恭也!」
突然寝ていたはずの二人が跳ね起きて祝福してきた。
「え?」
「は?」
私たちは驚きのあまり硬直し、すぐに抱き合った姿勢を解いて離れた。
「な、なんで起きてるんだよ」
「なんでって……いきなり深刻に話し始めるから起きちゃったんだよ」
「鹿ノ子の咳もうるさかったしね」
恭也さんは顔を真っ赤にして俯く。きっと私もそれ以上に赤い顔をしていたんだろう。
「二人とも奥手だから見ていてやきもきしたんだから」
琴葉が笑いながらからかった瞬間、隣の部屋から壁を叩いてくる音がして慌てて黙った。
私は恭也さんと目を合わせながら、声を出さずに笑った。琴葉も、石川さんも声を出さずに笑っていた。息を殺して笑うのが、こんなに楽しいことだなんて今日まで知らなかった。
孤独や悲しみが多かった分、嬉しさも濃く強く感じられる。そう思えばこれまでの人生も報われる気がした。
二十歳の二月の終わりのこの夜のことを、私は生涯忘れないだろう。




