捨てた過去
恭也さん達と別れてすぐに、琴葉は私の腕をぐいっと掴みにやけた顔をして睨んできた。酔っているのもあってか、ちょっとたちの悪いセクハラおじさんみたいな表情をしている。
「ちょっとどういうことよ」
「な、なにが?」
「なに惚けてるの。今日一日の鹿ノ子の言動よ。おかしすぎるでしょ?」
「そうかなぁ?」
惚けてみたもののぎゅっと腕を握られてしまう。
「訳わかんないバンドのライブに行って、そこにいた男の人にいきなり逆ナンして」
「逆ナンなんてしてないし」
「居酒屋に行ったら目をハートにして恭也さんと話してるし。いつもの素っ気なくてガードの堅い鹿ノ子とはまるで別人。一体何があったわけ?」
責めるというより面白がっている。琴葉は好奇の目をして私をからかってきた。それに少し嬉しそうだ。
確かに普段の私の行動とはかけ離れた行動だっただろう。琴葉じゃなくても、普段の私を知っている人ならば誰でも異変に気付くくらいに。
「なんて言うか、その……」
親友の琴葉には隠さずに言ってしまいたい。私の今夜の喜びを分かち合ってもらいたかった。
しかしそれを話すというならば、恭也さんが三度も過去の私に逢いに来てくれ、ピンチを救ってくれたことまで話さなくてはならない。
そんな荒唐無稽な内容を話したところで理解してもらえるはずがないだろう。
「ピンときた、というか。運命的なものを感じたの」
「アグレッシブレモンに?」
「そんなわけないでしょ。恭也さんに、だよ」
そう口に出した瞬間、恥ずかしさで顔やら全身が熱くなった。そしてそれが恋というものなんだと実感した。
「へー? ほおー? ピンと来た、ねぇ。あの鹿ノ子が」
少し不服そうに目や口を動かすのは、これまで何人も琴葉が紹介してくれた男性に見向きもしなかったからだろう。紹介された人達はいいとか悪いとかじゃなく、恭也さんじゃないからもちろん全員断った。
「いいでしょ、もう。ちゃんと答えたし」
掴まれた腕を押し退けて、照れ隠しに怒った振りをした。
「なにそのマジな照れ方。可愛い」
せっかく腕の拘束を解いたのに、琴葉は私に抱き付いて頬ずりをしてくる。行き交う人はなにごとかと振り返り笑っていた。
とても恥ずかしかったけど、私の変化に琴葉が喜んでくれるのが嬉しくもあった。
本当は変化なんてしていない、ただ運命の時が来ただけなんだけど、それはやっぱり黙っておいた。
────
──
恭也さんは都内の大学に通っていた。一緒にいた石川さんは同じ大学で同じ大学アパートに住む友人らしい。
二人とも別に音楽系の専攻ではなく、経済学部に籍を置いている。わたしの一つ上の二十一歳で、三回生。就職は経理関係を希望している。
どんな些細な事柄でも、恭也さんの情報を知ると心が躍った。
きっと昨日のお昼御飯がカップラーメンだったら身体を心配しただろうし、猫好きならば私も犬派から乗り換えただろう。
それくらい、恭也さんの何もかもに夢中になってしまった。
私の中の恭也さん像がどんどんとアップデートされていく。そしてその度に遙か遠くに感じていた彼が、生身の血の通う人間として近付いていった。
しかしやはり残念ながら恭也さんは私のことを全く覚えてくれてはいなかった。
彼に何度も助けられたことで、私の今がある。その感謝を伝えたくても恭也さん自信に記憶がないのではどうしようもない。
寂しかったが、今となれば些細なことだった。
現実としてすぐそばに恭也さんがいてくれるなら、過去のことなど取るに足らない。
少なくともこの時は、そう考えていた。
着信音が鳴り、風呂上がりの私は慌てて携帯を手に取った。
しかし発信者は恭也さんではなく、実家の母だった。躊躇ったものの無視するのも忍びなく、私は通話をタップした。
「もしもし、鹿ノ子?」
久し振りに聞く母の声は間延びして何気ない振りをしていたが、どこか不安げに揺らいでいた。
私の健康に気遣う話題や、物騒な世の中だから気を引き締めろということを言ってきた。母はそんな『本当に訊きたいことは言いづらい』という印象しか受けない会話を五分ほど続けていた。
「ところで鹿ノ子、春休みには帰ってくるの?」
さり気なく会話に織り交ぜたように、ようやく母は本題に入った。
大きな声でもないのに、スマホを耳から遠ざけたくなる。
「んー……バイト忙しいし、無理かな」
「えー? お正月も帰ってこなかったんだから帰ってきなさいよ」
落胆を隠すために逆に大袈裟に落胆した振りをして、母が受話器の向こうで笑っていた。
「うん、まあ……考えておく」
「お父さんも会いたがってるよ?」
そういわれた瞬間、動悸と目眩が襲い掛かって来て、携帯を落としかけてしまった。
母の再婚相手の、柔和だけれども得体の知れない男の顔が脳裏に浮かぶ。
「うん。考えておくけど、多分無理。ごめんね」
そう返すのが精一杯だった。
何も知らない母には罪はない。しかしあの人は母の『旦那』ではあるが、私の『お父さん』ではない。それだけは分かっていて欲しかった。
別に私と母を捨てた生物学上の父親に遠慮しているわけではない。
でも十六歳になって母が再婚をした相手を『お父さん』と呼ぶのには抵抗があることは理解して欲しかった。
確かにあの人は貧しい私たち母娘に優しくしてくれた。
今では母の離婚も再婚も大人の都合だから仕方ないと思える程度には成長していた。
それに引っ越した先はそれまで住んでいたアパートはおろか、両親が離婚する前に住んでいたアパートとも比較にならない立派なマンションだった。
感謝はしている。
不安定だった生活は一気に安定した。高校はもちろん、大学の入学金も出してくれた。
それでも私は、あの人を父と思うことは、一生涯出来ないだろう。
通話の切れた携帯電話を、私はいつまでも耳に当てて虚空をぼんやり眺めていた。