一夜が明けて
幸せな何かに包まれていた。
しかし加奈子にはそれが何による幸せなのか判別がつかなかった。だから彼女は正体を知ろうと意識の手を伸ばすが、その途端に幸福感の一部は消えようとする。仕方なく手を引っ込めると、今度はやはり「何か」が何なのか気になる。そんなことを幾度か繰り返して、加奈子は目を開いた。
「おはようございます」
すぐ傍で、低く、柔らかい声が聞こえた。
視界いっぱいに広がったペールオレンジから目線を少し上げると、優しげな笑みを浮かべた男の顔があった。同時に目に映った彼の左腕は加奈子の後頭部とも側頭部ともつかない所で、伝えるように、或いは受け取るように揺らめいている。未だに続いていた幸福感の理由はこれかと、加奈子はぼんやりとした頭で納得した。
彼女の頭を撫でながら、男はゆっくりと問う。
「朝の6時半ですけど、何か予定ありますか?」
半ば寝ぼけたままの脳をなんとか動かして、加奈子は答える。
「ううん、何も。平田は?」
「実はこの後、掛け持ちしてるサークルの方で集まりがあるんです。まあ急ぐ必要はないので、俺としてはもう少しのんびりしていたいんですけど」
「じゃあ、そうしよ」
短く答えて、加奈子は後輩の胸に顔をすり寄せた。息を吸い込むと、ほんの少し、汗とお酒の残り香が感じられた。その反応に、平田はクスリと笑う。
「いつになく素直で可愛らしいですね。まだ酔いが残ってるんですか?」
「別に……」
そうかもしれない。昨日、サークルの飲み会ではアルコールを何杯かおかわりした。強いものは飲んでいなかったはずだけど、今こうしているのは、いつもよりも多く飲んだからとも考えられる。
加奈子は頭の中から昨夜の記憶を探り当てようとした。けれど、いまひとつピンとこない。もちろん、飲み会の後の平田の誘いに乗ったのは自分の意志だし、その誘いの意味も分かっていた。だけど肝心の……行為の内容、を思い浮かべられない。
いや、途中までは覚えている。彼と経験したのは、高校生だったころのボーイフレンドにされたぎこちない愛撫や、もう卒業してしまったサークルの先輩に酔わされた末のセックスなどとは比べ物にならない交感だった。しかし、彼が……どころか、自分が果てた時の記憶すらない。
「まあ、昨日は夢中になってましたからね……お互いに」
「……そうだっけ」
――覚えてないんだけど。
でも、多分、そういうことなのだろう。つまり、頭が真っ白になるほどの夜だったと。
そう加奈子は結論付けたが、平田は彼女の返答を違う意味にとったらしい。ほんの少しだけ表情を歪めてから、彼はゆっくりと布団から這い出た。もうその顔は、日の射し始めた窓の方を向いている。傍には、ふたりの衣服が積まれていた。一番上にあるのは加奈子の下着だ。
「……じゃあ、身支度をしましょうか。シャワー浴びますか?」
肩越しにこちらを振り向いて訊いてくる平田の、ベッドについている右腕を加奈子は掴んだ。殆ど無意識のことだった。
「もう、いっちゃうの?」
平田の動きが止まった。
「……先輩?」
「わたしは、もう少し……もっと、一緒にいたい」
伝わっただろうか――伝わった、だろう。自分が起きる前から、そこに何ものかを求めていたのだ。もう彼はきっと、受け取ってくれている。
「……細野先輩」
隠しきれない緊張を乗せ、平田は語りかける。その微妙な震えは、むしろ加奈子の彼への好感に重なった。
「それは、俺の恋人になってくれるってことですか?」
平田が伝えて加奈子が受け取り、また加奈子が伝えたものを、平田は確かに受け取っていた。それを知った加奈子は躊躇わずに応えた。
「あなたが、よければ」