第一皇子は、側妃との生活を楽しむ
「最近楽しそうですね」
書類から顔を上げたグルークにそう話しかけられて、アレクは軽く眉宇を寄せた。
「楽しいというか、次の反応が読めない相手と話をするのは、なかなか面白い」
「反応が読めないとは、どういうことですか?」
楽しそうにルイタスが口を挟んできた。どうやら細かい陳述書を読むのに、疲れたらしい。
「例えばお前がヴィアに、酒を嗜むと言ってみろ」
「言ったらどうなるんです?」
「では踊るのですかと聞かれるぞ」
「何ですか、それ」
ルイタスは噴き出した。
あの皇女は思った以上に面白い人間のようだ。
「そう言えばエベックが、酒を飲んで踊り出す人間がいるのは本当かと、聞かれたようだ」
会話を思い出すように、アモンが口を挟んだ。
元々順応性のあるエベックは、すっかり妃殿下のペースに慣れたらしい。とにかく楽天的で明るくて、いつも生き生きと楽しそうに暮らしておいでです、と報告してきた。
その代わり、自分の中の姫君像は木っ端微塵になりましたけれど、とは、どこか疲れたエベックの弁だ。
「さっき会ったレイル卿は“ごもっとも卿”だそうだ。ネックル卿は“腹黒狸”」
くそまじめで通っていたグルークは不覚にも噴き出した。
「ヴィア側妃殿下の命名ですか?」
「いや、恐ろしい事にツィティー妃がつけたそうだ」
「……血筋を見事に引いてますね」
ヴィアといると、とにかく毎日が面白かった。
あの日以来、公式の予定が入らないかぎり、アレクは朝も夕もヴィアと一緒に食事をする。とりとめもない事を二人でしゃべり、くだらない事で笑いあう。
今朝は、夢を見ましたと起き抜けにヴィアが言うので、大変な事が起きるのかと聞いたら、まあ、ご本人にとっては大変ですわね、と首を竦めた。
レイアトーの騎士の頭に、鳥の糞が落ちたのです、と。
朝一番から脱力したが、糞を掛けられる当人にとっては、確かに大問題かもしれない。
でもこればかりは、気をつけるように言ってもどうしようもありませんものねとヴィアは笑い、抱き寄せようと末うアレクの腕を上手に躱して、床に落ちていた寝衣を拾い上げた。
十六歳の肌は、毎夜の愛撫を加える事で、そそるような艶を日ごとに増してくる。
肌はしっとりと吸い付くように柔らかく、誘うように伸ばされてくる白い腕に、アレクの理性など簡単に奪われてしまう。
ドレスに隠される部分に噛み付くように吸い付いて、薔薇色の痣をいくつも散らした。
ヴィアの世話をする女達には、アレクの執着と耽溺は全てばれている事だろう。
「明日にはいよいよお披露目ですね」
グルークに言われて、アレクはああ、と頷いた。
諸侯を招いた春の晩餐会で、初めてヴィアを側妃として同行させる。
皇女時代、一切公の場に顔を見せる事のなかったヴィアだ。一挙一動を見つめられ、さぞ疲れるに違いない。
「準備は万端ですか?」と聞かれ、アレクは大丈夫だ、と答えた。
今頃、水晶宮の威信をかけて、ヴィアの支度が整えられている筈だ。
ヴィアが纏うドレスは、肌の白さを際立たせる深紅のドレスで、胸元や袖口に繊細な白いレースが覗くものだ。
側妃になることが決まってからすぐに意匠が決められ、何度かの仮縫いを経て、ようやく完成した逸品だ。
ティアラとイヤリングとネックレスは同じ宝玉で揃えられ、ティアラの下からは、陽とも紛う眩いばかりの金髪が背に流れ落ちる。
十六歳という幼さを残しながらも、夜毎の寵愛で輝くような艶を放つヴィア妃は、往年のツィティー妃を凌ぐ圧巻の美しさだった。
ヴィアトーラを見た皇帝は、逃した魚の大きさを改めて見せつけられた思いだったのだろう。
その様子を冷めた目で眺めていた皇后は、ヴィアの挨拶に僅かに首肯しただけで、一言の声もかける事はなかった。
アントーレの騎士達に守られるように入場してきたセルティスに気付き、ヴィアは口元を綻ばせる。セルティスもまた、久しぶりに見た姉の姿に、嬉しそうな笑みを返してきた。
第一皇子に媚びたい者は、こぞってヴィアの前に膝をつく。けれど、本心からの敬意は微塵もない。
ヴィアはそつなく微笑んで、一言、二言、儀礼的に言葉を返していく。
長い夜の始まりだった。
皇帝の伯母にあたるエルク卿夫人には、ヴィアの方から挨拶に伺った。
“儀礼に煩い方だから、不興を買わないように注意して。”
母の言葉が耳に残っている。
「貴方の顔を宮廷で見るのは初めてね。体が弱くて、ずっと紫玉宮に籠っていたと聞くけど」
その体では、側妃としての務めは果たせまいと暗に言われ、どう答えるべきかヴィアは一瞬惑う。
「体は弱くございません。ただ母から、紫玉宮から出るのは控えなさいと言われておりましたので」
「何故、そのような事を?」
「わたくしは皇帝陛下のご配慮で養女にしていただいただけで、血筋の劣る身です。
このアンシェーゼの高貴な血筋を引いた方々の前に姿を現すのは、恐れ多い事だと言われました」
さりげなくエルク卿夫人を持ち上げれば、その返答は夫人の意に叶ったらしく、満足げに口の端を上げた。
「貴方はツィティー妃に本当によく似ておいでね。ツィティーもきちんと自分の分を弁えていた。
どのような時も慎ましやかに身を律し、皇后を蔑ろにするような態度は決して取らなかった」
エルク卿夫人の目は、不快そうにマイアール妃に向けられている。
身ごもったお腹をこれ見よがしに庇い、皇帝の傍らから離れようとしない側妃に、皇家の血を汚された気がするのだろう。
「本来ならば、貴方は皇帝陛下の養女であった身。アレクの正妃に迎えられても良いくらいなのに」
ここまでの言葉をかけてもらえるとは思わず、ヴィアは内心驚いた。
エルク卿夫人は余程、マイアール妃が嫌いなのだろう。
マイアール妃に対する嫌悪と反感が、そのままヴィアに対する好意に傾いた形だ。
「殿下の目に留まったのは、わたくしにとって何よりの僥倖です。
この先も、誠心誠意殿下にお仕えする所存です」
「お前、エルク卿夫人に一体何を言ったんだ」
舞踏の時間となり、儀礼にのっとりヴィアに第一曲目のダンスを申し込んだアレクは、開口一番ヴィアにそう聞いてきた。
細い腰を抱かれ、ホール中央へと導かれたヴィアは、美しい所作で右手をアレクの肩に掛ける。
「あのうるさ方がお前を褒めていたぞ」
ステップを踏むアレクの足捌きには、一分の乱れもない。いかにも注目されて踊ることに慣れた貴公子らしかった。
「特に何も」
その優美なリードに乗って、ヴィアも軽やかにステップを踏む。
「誠心誠意、貴方にお仕えすると申し上げたくらいですわ」
「その程度で、丸め込まれるものか」
半信半疑と言った様子のアレクに、ヴィアは柔らかな笑みを返すばかりだ。
無駄のないアレクのリードは、踊っていて心地良かった。羽のように軽やかにドレスの裳裾が舞う。
「それにしてもこれだけ大勢の人間に注目されて、緊張しないのか?」
「注目されるのは嫌ではありませんの。きっと踊り子であった母の血筋を引いているのですわ」
美しい衣装を着て、皆に見つめられて踊るのがとても好きだったと、母はよく口にしていた。
「でも、ここまで見つめられると、さすがに猿回しの猿になった気分ですわ」
ヴィアはそっとアレクの耳元に囁き、それからあら、と気付いたように言い添えた。
「でもわたくしは美しいから、猿は見ているあちらの方ですわね」
アレクは危うくステップを踏み間違えそうになり、僅かに体勢を崩した。
「お前な…」
驚いたようなざわめきが耳に痛い。第一皇子が人前でダンスを踏み間違えそうになるなど、前代未聞だ。
朝の光を迎えた優しい温もりの中で、ヴィアはゆっくりと覚醒する。
規則正しい寝息がすぐそばから聞こえてきて、ヴィアはうっすらと微笑を穿いた。
切れ長の琥珀の目は今は安らかに閉じられて、長い睫毛が頬に影を落としている。
柔らかな金髪が額に乱れ掛かる様は艶めかしい色気すら感じられて、傍にいる事が急に恥ずかしくなった。
そろそろ起きる時間だろう。
腕の中で身じろぎすると、引き留めるようにアレクの腕がヴィアの腰に巻きついた。
「殿下…?」
まだ半分寝ぼけたまま、アレクはヴィアの体を引き寄せる。
温もりを惜しむように腕の中にヴィアを抱き込んで、髪に顔を埋めたまま、また寝ようとした。
この方の寝起きはいつもこうだわ。
ヴィアはアレクの寝顔を見つめたまま、くすりと笑う。ヴィアもこのまま微睡みの中で過ごしたいが、そろそろ侍女達がやってくる時間だ。
「殿下、起きて」
胸に手を当てて体を離そうとすると、眠たそうに瞬きをしていたアレクが両腕で抱き込んできた。今のは故意だ。
「まだ、早い」
「早くはございません、ほら、朝の咳払いが聞こえましたわ」
いきなり踏み込まれるとヴィアが困るので、(アレクがあまり困っていないように見えるのは、ヴィアには納得がいかないが)、声を掛けるちょっと前に、侍女が小さく咳払いをしてくれるようになった。
側妃となって二か月、侍女らには見慣れた光景でも、ヴィアにはいたたまれないひと時だ。
形ばかりの側妃と割り切って水晶宮に上がったのに、初めて一夜を共にした日から、毎夜寝所に呼ばれるのが日課となった。
正妃でもないヴィアは、アレクから離れた一室をもらっているので、ヴィアがアレクの部屋に泊まると、毎朝、側妃付きの侍女が行列をなして、ヴィアのドレスや靴、装身具に至るまで、回廊を渡って持ってくることになる。
その光景を想像すると恥ずかしさで死ねる気がするので、ヴィアは努めて考えないようにしていた。
「いつもながら無粋な奴らだ」
この頃になってようやく目が覚めたらしいアレクが大きく伸びをし、寝台からしなやかに立ち上がる。
床に散らばった服を手早く身に纏っていく中、ヴィアも緞帳の陰で形ばかりの身支度を整えた。
やがてノックの音がして、躊躇いがちに侍女が声を掛けてくる。
アレクが答えを返すと、アレク付きのアメリ女官長を筆頭に、数人の侍女が入室した。
ヴィアは、侍女の一人に誘導されるままに、控えの間に入る。支度を整えるためだ。
顔を洗い、口をゆすぎ、鏡の前に座らされて、艶やかな金髪を梳られる。ヴィアは前を向いているだけだ。
香油の張った水で肌を清められ、衣装を着替えさせられるのも、すでにお馴染みになった光景だ。
皇子と朝食を共にする日は、そのまますぐに皇子の所へ連れて行かれる。
アレクの朝は忙しいので、ヴィアが悠長に身支度を整えるのを待っていられないのだ。
母はいつもどうしていただろうかと、ヴィアは思いを馳せる。
母は週に二、三度、皇帝と朝食を共にしていたように思う。
長いテーブルの端と端に座って、堅苦しくいただくのよと苦笑いしていた。
皇帝は皇后と朝食をとることが慣例として決まっていたため、母はできるだけ皇帝の誘いを断ろうとしていた。
それでなくても憎まれているのに、それ以上目立ちたくなかったのだろう。
皇帝の寝所にいる時は、いつも踊り子だった頃の事を考えているのと母は言っていた。
体は好きにさせるの、皇帝はわたくしが自分に夢中だと信じているから、信じ込ませておくのよ。どちらかが死ぬまで、だまし続けるわ。
体と心は別だと母は言った。けれどヴィアにはわからない。
皇子の眼差しや吐息に心が乱される。
弟を守るために体を差し出したのはヴィアだし、皇子はヴィアの体を好きに使う権利を行使しているに過ぎない。
自分の前に、たくさん伽の女がいたこともヴィアは知っていた。
その女達とヴィアは同列だ。飽きれば同じように捨てられるだろう。
毎日のように話をして、情が移っただけだとヴィアは思った。好きだと言った事も、言われた事もない。
同じ宮殿に暮らしているから、一緒に食事をとり、呼ばれるままに寝所に侍る、それだけだ。
でも時々、皇子はとても孤独な方だとヴィアは感じることがある。そんな時はヴィアの胸は痛む。
途轍もなく重いものを当然のように背負って、弱音を吐く事すら許されないからだ。
庇護を求める事で重荷から解放されたヴィアと違い、皇子は一生皇帝の血筋から逃れられない。
皇位を手にしなければ死ぬしかないことを知っているのだ。
救いはない、どこにも。
母親ですら、皇子を一片も愛していなかった。
離れたくないと、ヴィアは唐突に思った。
今になって気がついた。
自分は簡単に市井に下りると言っていたけれど、それは絆を分かつことなのだ。
皇族と市井に生きる民。そこに接点はない。
アレク皇子にもセルティスにも、二度と会うことが叶わなくなる日は必ずやってくるのだ。