外伝 カラブローネの侍女 中編
リンデが家に到着すると、家族全員がエントランスホールに揃っていた。
両親や弟家族、そして騎士に嫁した妹ジェーンも夫と子どもを連れてダナン家を訪れており、リンデは初めて会う義妹や義弟、そして三人の子ども達を一人ずつ紹介してもらった。
弟アルマンの二人の子どもは、父と同じ褐色のくせ毛をしていて、少しエラが張っている。
伯母であるリンデを見上げる眼差しはどこか冷めていて、家族としての温もりが全く感じられないのが少しリンデの気にかかった。
妹ジェーンの子どもはこの一月で四つになったらしく、何も知らずににこにこと笑っている。
鼻のあたりに薄いそばかすが散っているのを見て、リンデはふと唇を綻ばせた。
自分も小さい頃はそばかすを気にしていたが、大きくなればいつの間にか消えていた。この子も多分そうなるだろう。
顔合わせが済むと子ども達はすぐに遠ざけられ、大人達は食事の間に通された。
リンデの席は当主である父の目の前に用意された。リンデの横に弟のアルマンが座り、その正面は母のダナン卿夫人だ。
食前酒を注いでくれたのは正装に身を包んだ四十過ぎの執事で、リンデはその顔に見覚えがなかった。
以前は、ジョエルという年老いた執事とその妻で家政婦でもあるハンナがダナン家の家政をすべて担っていた。二人は小さなリンデの事を大層可愛がってくれていて、今回の帰省で彼らに会う事を楽しみにしていたリンデは少なからずがっかりした。
「ジョエルやハンナはもう家にはいないのですか?」
そう尋ねると、父のダナン卿はあっさりと頷いた。
「ああ。あの者らは年を取って働きが悪くなった。だから四年ほど前に辞めさせた」
「そう……でしたの」
辞めた時、きちんとした退職手当てが渡されたのだろうかとリンデは俄に気になった。
金に煩い父の事だ。碌な手当ても出さず、紹介状だけを渡して、年を取った二人を放逐したような気がしたのだ。
自分が事情を知っていたら、幾ばくかのお金を渡してやれたのに……とリンデは軽く唇を噛んだ。
表情を暗くしたリンデに気付いたのか、母のダナン卿夫人が声を挟んできた。
「せっかく家族で顔を合わせたというのに、辞めた使用人の事を今更言わないで頂戴。紹介状も渡しているから、きっとどこかで働いている筈よ」
元気で暮らしていますようにと思いながら、リンデは頷くしかなかった。
一方のダナン卿夫人は、使用人の事よりも別に言いたい事があったらしい。
いかにも申し訳なさそうにテーブルの上に視線を走らせ、大仰に謝ってきた。
「こんな質素な料理でごめんなさいね。離宮での食事に比べると随分見劣りがするのではなくて?」
思ってもいなかった言葉に、リンデは慌てて首を振った。
「そのような事はありませんわ。こうして皆で食卓を囲めるだけで幸せだと思いますもの」
確かにこちらの食事は、離宮でいただいていたものに比べるとかなり粗末だった。
けれど、その事についてリンデは全く気にならなかった。食事の内容そのものよりも、相手をもてなそうとする心の方が大切だと知っていたからだ。
それに自分は、この先教会で奉仕する身である。
街には食べるものにも事欠く者が多くいると聞いていて、それを思えば温かい食事をいただけるだけで有り難いと素直にそう思えた。
「貴女は家族ですもの。ありのままのわたくし達の生活を見ていただいた方がいいと思ったのよ」
穏やかに笑むリンデに、ダナン卿夫人は言い訳のように言葉を続けてきた。
「実際に生活は裕福ではないの。貴族としての面子があるから、切り詰める事のできない出費が多くあって……。
貴女の妹のジェーンの家も同じようなものよ。ほら、騎士の給金はそれほど高い訳ではないから」
妹の夫君の前でそんな話をされても、リンデは返答に困るばかりだ。
だからリンデは曖昧に微笑んで、軽く頷くだけにした。
その後も、やたらお金の話が話題に上った。
邸宅の維持費は大変だの、妹の家は金銭に余裕がなくて二人目が作れないだの、楽しくもない愚痴ばかりを聞かされる。
今の生活の一体何が不満なのだろうと、リンデは溜め息をつきたい気分になった。
弟のアルマンはきちんとした貴族家の令嬢を妻に迎え、一男一女をもうけている。ジェーンも騎士と縁を繋ぎ、跡取りとなる男児に恵まれていた。
お金が足りないというなら、身の丈に合った生活をすればいいだけなのにと、リンデは心の中で呟いた。
およそ二十年ぶりに帰って来た娘にわざわざぼやく必要などない筈だ。
不意に、カラブローネ様と一つのテーブルを囲んで刺繍をしていた頃の事が懐かしく思い出された。
もう二度とあの方に会う事は叶わないが、共に過ごしたあの穏やかなひと時は今でもリンデの大切な宝物になっている。
この家に戻らず、教会に身を寄せる事を選択していて良かったと、リンデは心からそう思った。
心に不満を溜めている人間の傍にいると、心がきしんでいく気がする。妬みや怨み、苛立ちといった悪しき感情が自分にまで伝播してきそうだ。
食事も終わり、そろそろお暇しようとリンデが算段し始めた時、父のダナン卿が不意にリンデに話しかけてきた。
「リンデの荷物はいやに少ないようだが、他の荷物はどうなっているんだ?」
「今晩泊まるホテルに置いてきておりますが」
「それで荷が少なかったのか。明日には早々にホテルを引き払って、こちらに戻ってきなさい」
言われたリンデは困惑した。
「こちらには挨拶に立ち寄っただけで、戻るつもりはありませんの。
アルマンはすでに結婚して、子どもも二人いますでしょう。今更家に戻っても、肩身が狭いばかりですわ」
「何を言うの。貴女はここの娘なのよ。帰って来るのが当たり前だわ」
十年余前、欲しくて堪らなかった言葉を今になって母から言われ、リンデは困ったように首を横に振った。
「アルマンには子どもがいますから、私がこちらで暮らすとなるとゲストルームくらいしか部屋がないでしょう。
不意の客人が来た時のために、そちらは空けておいた方がいいでしょうし」
「使用人用の部屋は空いているわ。そちらの掃除はもう済ませているの。
貴方が暮らしやすいように、いずれ調度は揃えてあげるわ。それで構わないでしょう?」
「使用人部屋に?」
リンデは思わず眉を顰めた。
両親が一体何を自分に望んでいるのかがわからない。
家族に屋根裏部屋を与えるなどあまりに非常識だし、そこまでして自分を家に呼び戻そうとする意図が見えなかった。
「……わたくしが勤め始める時、給金の半分を家に入れるようにお父様とお母様から言われました。残ったお金については、わたくしが嫁ぐ時の持参金に当てれば良いと。
わたくしもそのつもりで働いておりましたが、もう三十になってしまい、貴族の娘としては完全に行き遅れてしまいました。
今更縁を繋ごうとしても、金に窮した家か後添いを望む家か、いずれにせよわたくしの持参金を目当てにした縁組となる筈です。
そしてそのような人生を、わたくしは微塵も望んでいないのです」
二十歳を過ぎたばかりの頃は、まだ結婚を夢見ていた。
多くを望まなければ、これまでの貯蓄を持参金にしてそれなりの縁が繋げる筈だと。
けれどちょうどその頃、皇都にやって来た両親が金がないとリンデに泣きついてきて、リンデは手元にあったなけなしのお金のほとんどを二人に渡す事になってしまった。
それから三年後、五つ下の妹に縁組が決まったと知らされた。
お前との縁組を頼んでみたが、年若い令嬢の方がいいと言って断られたと父からの文で伝えられ、一晩泣き明かした事を今も覚えている。
因みにその時の縁組相手というのが、今、この場にいるの義弟のジャコバン卿だった。
もし、今も自分に結婚願望が強かったら、この状況に傷付いていたかもしれないとリンデはぼんやりと考えた。
ジャコバン卿と結婚して一児の子を生した妹に強い劣等感と羨望を覚え、平常心ではいられなかったに違いない。
今はそんな感情はどこにもなかった。
リンデは満たされていて、人を羨む必要などどこにもない。
その事を改めて神に感謝した。
そうした思い事に浸っていたリンデは、父に改めて名を呼ばれて、はっとしたように面を上げた。
「リンデ。お前が思うような縁組はなかなか見つからないかもしれないが、取りあえず戻ってきなさい。
お前はダナン家の娘なのだ。私達は喜んでお前を迎え入れよう」
「ダナン家の娘として、今更社交の場に出よと?」
リンデは無理だというように小さく笑った。
屋根裏部屋に住まわされているような三十のオールドミスを、家に招きたいと思うような貴族はいないだろう。
「もし、わたくしを招いてくれる家があったとしても、社交の場で奇異の目に晒されるのは目に見えておりますわ」
「無理に社交の場に出ずとも良いのだ」
ダナン卿は物わかり良く言った。
「我が家で暮らし、少し家の事を手伝ってくれるだけで十分だ」
「家の手伝い、ですか?」
「ああ。お前は侍女として長年、離宮で勤め上げてきた経験がある。その経験を生かしてダナン家を支えてくれたらありがたいと思っているんだ。
なに、老後の事は心配しなくていい。アルマンが責任を以ってお前の面倒をみてくれるだろう」
そうだろう? と話を振られたアルマンは、仕方がないですねといった顔で隣のリンデを見てきた。
「家族を養うのは嫡男の義務です。それを蔑ろにするつもりはありません。私の妻もその事をよくわかっています」
恩着せがましく言葉を掛けられ、自分の顔から血の気が引いていくのがリンデにはわかった。
父はおそらく、リンデのために縁を繋いでくれる気など微塵もないのだ。
母が言う通り、リンデを使用人部屋に追いやり、行き遅れた娘を養ってやっているという体裁を繕って、一生この家のために働かせるつもりなのだ。
「これまでわたくしは家のために尽くしてきたつもりです。
それだけでは足りず、この先は使用人として一生働けとおっしゃるの?」
思わず尖った声を出すと、ダナン卿は猫なで声でリンデを丸め込もうとした。
「勿論、いい縁があれば、私が必ず繋いでやろう。私が言ったのは、あくまで縁に恵まれなかった時の話だ。
ここ十年で借財は減ってきたが、正直な話、家の切り盛りはなかなか大変でね。お前にはわからないかもしれないが、貴族としての体面を保つにはかなり金がかかるんだ。
お前が家に入ってくれて我が家を助けてくれたら、皆にとってこれほど嬉しい事はない」
わたくし以外はそうでしょうね……と、リンデは力なく心の中で呟いた。
「お父様達の気持ちはよくわかりました」
リンデはしっかりと面を上げ、皆の顔を見渡した。家族達は皆、どこか後ろめたそうに、けれど物欲しげな眼差しをリンデにじっと向けている。
「お姉様。慣れた職場を辞めなければならなくなって、また一から新しい仕事を始めるのは大変でしょう?
だから家に戻られるのが一番いいと思うわ」
妹のジェーンが親切そうに声を掛けてきた。
「こちらに帰れば、衣食住の心配をする必要もなくなるわ。お姉様にとっても願ったり叶ったりではなくて?
ただ、この先ずっと面倒をみてもらえるのだから、これまでお姉様が貯めてきたお金はきちんと家に入れてね。
そうすれば生活も豊かになって、こんな食事よりももっといい料理が食べられるようになるわ」
わたくしが手にした退職金とこれまでの貯蓄が目的で帰郷を勧めてきたのだと、リンデはようやく合点が付いた。
家族に会える事を純粋に楽しみにしていた自分は、何と愚かだったのだろう。
「残念ですが……」
一つ大きく息を吸ってから、リンデは静かに口を開いた。
「家に入れるお金はありません。というか、今のわたくしは無一文ですわ。
貯蓄も退職手当もすべて教会に献金しましたから」
リンデの財産を狙っていた家族達は、凍り付いたようにその場に固まった。