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外伝 カラブローネの侍女 前編

カラブローネに仕えていた侍女の一人、リンデのお話を書いてみました。全三話です。


 三十歳になるリンデ・ダナンは、木製の小さなトランク一つを持って十数年ぶりとなる我が家へと急いでいた。


 トランクに詰められているのは、久しぶりに会う両親や弟妹、そして初めて会う甥姪達へのお土産だ。

 両親には小さな宝玉のついたタイ留めと髪飾り、弟と妹夫婦にはそれぞれ絹の手袋を、そして姪と二人の甥には大人になってからも使えるような羽ペンを用意した。

 他に入っている物と言えば、最低限のお金と僅かな私物だけである。ハンカチとコンパクトミラーと口紅と手袋、そしてトランクの内ポケットには今日泊まる予定の宿屋の鍵が入っていた。


 リンデが家を出されたのは十一歳の誕生日を迎えてすぐの時だった。

 皇都に住まう貴族の家に侍女見習いとして仕える事が決まり、今日と同じように馬車に揺られて旅をした。

 この先の生活が不安で心細くて堪らなかった事を、今も鮮明に覚えている。


 馬車で一緒になった年配の夫婦連れが、訝しそうにちらりとリンデの方を見てきた。

 貴族の装いをしているが、リンデは付き添いもつけずに一人で辻馬車を利用している。どういった身分なのか測りかねているのだろう。


 わたくしも一応貴族の端くれになるのかしらと、リンデは苦笑を浮かべて膝の上に重ねた手に視線を落とした。

 リンデの父ダナン卿は、上級貴族の領地の一部を管理をする事で日々の収入を得ている末端の貴族である。

 管理している土地が狭いために収入も少なく、だから長女であるリンデは十一歳になるや、他家の行儀見習いに出される事となったのだ。


 その貴族家で給金をいただきながら貴族の子女としての教養や家政を身に着けるようにと父から言われた。

 いずれリンデが嫁ぐ時、女主人として家の切り盛りに困らないようにするためだった。


 普通であればもらった給金はすべて自分の持参金用に貯めておくのだが、リンデの場合は収入の半分を家に入れて欲しいと頼まれた。

 父親の収入だけでは生活が苦しく、ダナン家はかなりの借金を背負っていたらしい。

 家のためならばと、リンデは素直にその言葉に従った。


 侍女として貴族家で働きながら、リンデはずっと結婚を夢見ていた。

 真面目に働いていさえすれば、いずれ両親が縁を繋いでくれると信じていたのに、その夢が叶う事はなかった。

 適齢期となった時、離宮の侍女に推薦されてしまったからだ。


 当時はちょうど皇帝が寵愛していた下級侍女が皇帝の子を宿し、その世話をする侍女が早急に求められていた。

 リンデは離宮に行きたくないと両親に訴えたが、我が儘を言うなと一蹴された。

 だからリンデは泣く泣く離宮に行く事になった。


 そんな状況であったから、当時はただ恨みと不満ばかりを溜めていた。

 自分はもう十八となっているのに、両親はリンデの仕送りを当てにして家に戻る事を許してくれない。

 それだけでも辛かったのに、離宮でリンデが仕えるあるじ、カラブローネは平民の女だった。


 貴族階級出身の自分がどうして下賤な平民に頭を下げなければならないのかと、あの頃はよく口惜しさに枕を涙で濡らしていた。

 自分と同じようにカラブローネ付きとなった年配の侍女二人も同じような鬱屈を溜めており、だから三人は暇さえあればあるじの悪口をこそこそと言い合っていた。

 今思い起こせば、恥ずかしさに見悶えしたい気分になるが、当時はカラブローネ様に対しても平気で嫌みや当てこすりを言っていた覚えがある。


「本当に愚かしい事……」とリンデは唇だけで呟いた。

 確かに血筋だけは自分達の方が勝っていたが、誠実で謙虚な人柄やその清廉な生き様は、あの方と比ぶべくもない。


 あの方は望んで皇帝の愛妾になられた訳ではなかった。

 皇帝に見初められ、図らずも子を宿してしまった事であの方は人生を狂わされた。

 せめて寵愛が続いていれば別の未来も開けていたかもしれないが、子が生まれる前に皇帝の関心は遠のいて、カラブローネ様は誰一人としておとなう事のない離宮で生まれた子と共にひっそりと暮らすようになってしまった。


 セディアと名付けられたその皇女殿下はカラブローネ様の宝物だった。

 子と笑い合うカラブローネ様の顔は喜びに満ちていたが、その幸せは長く続かなかった。セディア様に政略結婚が用意されてしまったからだ。

 セディア様は僅か八つで他国へ嫁がされ、そして離宮にはカラブローネ様一人が残された。


 カラブローネ様は見苦しく泣き叫ぶような真似はしなかった。

 朝に夕に娘の幸せを祈り、忍耐と寛容を自分に課して日々を過ごした。


 同じ環境に置かれたどれほどの人間が、あの方のように生きられるものだろうか。


 カラブローネ様は決して運命を呪わなかった。

 信仰と献身に救いを求め、日々の営みの中に自分なりの喜びを見つけ、神に感謝した。

 そしてリンデ達に、幸不幸は自分を取り巻く環境によって決まるのではなく、自身の心の持ちようが決めるのだと、身を以て示してくれたのだ。


 不満や悪意を持たぬ方の傍で過ごす日々は安らかだった。

 自身の境遇に不満を抱いていたリンデ達は、カラブローネ様の傍で過ごす事で他人への羨望から解放され、ようやく心の安寧を得た。


 この平穏がずっと続くようにと願っていたけれど、いつの頃からか病がカラブローネ様の体を蝕むようになっていた。

 少しずつカラブローネ様は弱っていき、夏を間近にしたある晴れた日にカラブローネ様は神の国に旅立った。


 まるで眠るように静かなご最期だった。


 敬愛していた主を失って、リンデ達は途方に暮れてしまった。

 十年以上離宮で働いていたため、まとまった退職金はもらえたし、これまでに貯蓄していたお金もある。金銭面での不安はなかったが、これから何を支えに生きて行けばいいのかわからなくなったのだ。


 リンデの状況を知った両親からは家に戻ってくればいいと文をもらったが、今更という思いの方が強かった。

 五つ下の妹は七年前に縁を繋ぎ、一児の母になっている。弟夫婦には九つになる娘と六つの男の子がいて、家族六人が楽しく暮らしているあの家にリンデが帰ったところで、居場所などどこにもないだろう。


 同僚だった二人の侍女も、生家に帰る事は全く考えていないようだった。

 二人は子を持たぬまま夫に先立たれ、生家との縁も薄かったため、行く当てがなく離宮にやって来たという経緯を持つ。

 離宮長からは紹介状をもらえたので、他家で働く事は比較的容易だと思われたが、献身と感謝に溢れたこれまでの日々を思うと、どうしても気が進まないのだとリンデに言ってきた。


 亡き主の部屋の片づけや自分の身の回りの整理をしながら、この先どう生きたいのかをリンデ達は真剣に考えた。

 カラブローネ様の父君にも何度となく相談に乗ってもらい、三人は最終的に教会に身を寄せて奉仕者となる道を選ぶ事にした。


 女性崇拝色の強いカナ教と違い、聖教では女性の司祭は認められていない。

 女性が信仰に身を捧げたいならば、修道請願をして外部から隔離された修道院で祈りや作業に専心するか、単式請願をして神の奉仕者となり、教会が運営する奉仕活動に携わるかのどちらかだ。


 どちらも死ぬまで衣食住の心配は要らないが、その代わり、持てる財をすべて教会に寄進しなければならなかった。

 ただ、一旦入ってしまえば二度と修道院の外に出られない修道女と違い、奉仕者の場合はある程度の選択肢が残されている。

 教会に入る時に全ての財を失うが、日々の奉仕への代償として、毎月僅かばかりの心付けが教会から渡されるからだ。

 そしてそのお金を地道に貯め、教会を離れる際にその後の生活の足しにする事が許されていた。


 心を決めれば、憂う事は何もなかった。

 給金のためにあくせく働くのではなく、神の御許で貧しい人々のための奉仕に勤しむ。そうした未来を思うと、心から喜びが沸き起こった。

 ただ、これまで貯めてきたお金や退職金をすべて失うのだと思うと少し惜しい気もして、わたくし達もまだまだ俗物だわと、リンデ達は三人で笑い合った。


 いよいよ教会に属する前、リンデ達は最後の思い出を作ろうと一泊二日の小旅行に出かけた。

 今までは別々に休みをいただいていたから、三人でどこかに行くなど初めての事だ。

 きれいな景色を眺め、美味しい料理を食べながら、尽きる事のないおしゃべりに興じた。そしてこの出会いを与えて下さった神に、心からの感謝を捧げた。


 三人がそれぞれ所属する教会は離れていて、一旦、奉仕者になってしまえば、今後は会う事も難しくなるだろう。

 互いに文を出し合う事を固く約束して、最後に笑顔でお別れした。


 リンデはその足で自分が希望する教会に向かい、持てる私物をすべて寄進して単式請願を済ませた。

 奉仕者として活動を始める前に故郷に戻る許しをもらい、家族へのお土産と帰省のための旅費だけは寄進から外してもらった。

 だから今、僅かばかりの手荷物と共に故郷へと向かっている。  


 リンデは窓の外を流れる景色に目を向けた。

 生まれ育った家に帰ろうとしているのに、目に映る景色はどこかよそよそしい。

 思えば、十一歳で家を出てから、もう十九年の歳月が流れたのだ。その間、一度も故郷には足を踏み入れていなかった。


 勿論、弟妹達にも一度も会っていない。

 別れた当時、弟は十歳で妹はたった六つだった。

 別れるのが寂しいと泣いてくれた二人の弟妹は、最初の二、三年は頻繁に文もくれたが、いつの間にか便りも途絶えた。

 そして今はそれぞれに伴侶を得て、リンデとは遠い存在になっていた。


 二人と比べると、自分の人生は哀れなものに見えるのかもしれないとリンデは思った。

 家族に仕送りをするために働き続け、結局は婚期も逃してしまった。その上、今は一文無しになっている。


 それでもリンデは、自分の人生に悔いはなかった。

 貴族家の長女として務めをしっかりと果たし、カラブローネというかけがえのない主や二人の親友にも巡り合えた。

 そしてこの先は神に仕え、地域に暮らす人々のために献身していく。


 そうした未来を思い浮かべると、自然な笑みが唇に零れた。

 リンデは瞳を閉じ、このような人生を与えて下さった神に心からの感謝を捧げた。



侍女さんのお話を読みたいと感想でいただいて、取りあえず、直後の事をお話にしてみました。

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作者様 おねだりにお応えいただきありがとうございます。 侍女さんたちのこれからに幸あれ!と思いつつ。 結婚歴のある他の年上の侍女さんたちとは異なり、11歳の時から「侍女」として時を止めているリンデさん…
外伝更新ありがとうございます。 残り僅かな最後の俗人としての時間。真摯な宗教的祈りからとんと離れた生活をしている典型的な日本人の私ですが、一人の女性の生き方に感化されて自分の来し方を決めた侍女の在り方…
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