カラブローネ 6
文を受け取った数日後、カラブローネは告解のための司祭を寝所に呼んでもらえないかと侍女に頼んだ。
痛みを抑えるためにかなりきつい薬が処方されるようになっていて、意識がはっきりしている時間がだんだん少なくなっていた。
その前に、神の御前で罪を告白し、許しを得たいと思ったのだ。
その翌日、カラブローネの枕辺を訪れたのは、いつも離宮を訪れる司祭ではなかった。
いつもの方ではないのね……とぼんやりとそちらに目を向けたカラブローネは、次の瞬間大きく目を見開いた。
足首まである黒い祭服に全身を包み、やや厳しい表情で自分を見下ろすその顔を見間違えようがない。
「お父様……?」
僻村アレシに派遣されている筈の父だった。
記憶にある顔よりもかなり老けていたが、肉付きのない頬と穏やかに澄んだ薄茶色の瞳は以前のままだ。
カラブローネが微睡みから覚めた事に気付いたのだろう。
父はくしゃりと顔を歪めるようにして笑った。
「どうして……?」
か細く呟いたカラブローネに、父はカラブローネの傍に控える侍女達の方に顔を向け、感謝の意を表わすように頭を下げた。
「この方達が、皇都にいる司教様に頼んで下さったのだ。
事情を聞いた司教様は、しばらくの間アレシを離れ、皇都に留まるよう私に命じられた。
こちらに着いたのは数日前だ。以来、ずっと皇都にある教会で奉仕させていただいていた」
「そうでしたの」
カラブローネが感謝を込めて侍女達の方に視線を向けると、彼女達は泣き出しそうな顔をしながら、精いっぱいの笑顔を返してくれた。
「ありがとう」
カラブローネは心からの感謝をその一言に込めた。
父と会うのはおよそ十年ぶりだった。
最後に会った日の事を、カラブローネは今も鮮明に覚えている。
父が皇都に来てくれる事がわかり、カラブローネはその日に合わせていそいそとお休みをとった。
皇都で有名な掌広場で待ち合わせ、こじんまりとした食事処で一緒に食事をした。その後、「ほんの少しだけ贅沢をしませんか」と父を誘い、当時下級侍女達の間で人気だった菓子店を二人で訪れたのだ。
初めて買った蜂蜜のクッキーは、ほろほろと口の中でほどけるようだった。
「こんなおいしいお菓子は初めて食べた」と父が相好を崩し、喜んでもらえた事がとても嬉しかった。
皇帝のお手付きとなってしまったのは、それから三年後の事だった。
度々夜のお召しを受けるうちにカラブローネは懐妊してしまい、気付けば離宮に暮らす身になっていた。
父は政争に利用されないために自ら望んで遠いアレシへ赴任していき、以来、皇都には一度も足を踏み入れていない。
もう二度と会う事は叶わないと諦めていた。
会いたいと頼んでも離宮長がそれを許すとは思わなかったし、下手に望んで父に迷惑をかける事もしたくなかった。
けれどカラブローネの命が尽きかけている事を知った侍女達がこっそりと司教様に働きかけてくれ、父もまた、遠い距離をものをもせずにカラブローネのために駆け付けてくれた。
「もう一度……会えるとは思ってもいませんでした。
お父様、来て下さって、本当にありがとうございます。ずっと、お会いしたかったんです」
十年余ぶりに会う父は、顔の皴も増え、豊かな金髪はほとんど白髪になっていた。
それでもカラブローネを見つめる優しい眼差しは変わっていない。
ぽろぽろと涙を零すカラブローネの頭を、父は幼い子どもにするようにゆっくりと撫でてくれた。
「私も会いたかったよ、カラブローネ。
遠くからお前の幸せを願っていたが、こうしてもう一度お前に会えるようになるとは思ってもいなかった」
父が最愛の女性を見つけて妻に迎えたように、カラブローネもまた、神の御前で愛を誓った男性と穏やかな家庭を築いていくだろうと父は信じていた筈だ。
その期待を裏切って皇帝の愛妾になった挙句、たった一人の孫にさえ、会わせて差し上げる事ができなかった。
そして今、それ以上に罪深い事を自分はしようとしている。
カラブローネは苦しい息の中から言葉を絞り出した。
「お父様……。先立つ不孝を、どうぞお許し下さい」
子が親より先に逝くなど、これほど残酷な事はなかった。
このような業を父に負わせてしまう事が心から申し訳なく、カラブローネは涙を零しながら父に許しを請うた。
「至らぬ娘でした。ご心配ばかりお掛けして、本当にごめんなさい」
「謝る事は何もない」と父は優しく微笑んだ。
哀しみを湛えた瞳はどこまでも穏やかで、カラブローネの全てを受け入れていた。
「お前が生まれてきた日に、私は一生分の喜びを与えられた。
幼くして母を失っても、お前は決して泣き言を私に零さなかったね。
貧しい生活をお前に強い、寂しさに十分寄り添ってやる事もできなかった。だがお前はそんな私を一度も責める事なく、反対に私の身をいつも気遣ってくれた。
私には過ぎた娘だった。
カラブローネ。お前はずっと私の誇りだったよ」
「はい……」
嬉しさに喉が詰まった。
いくつになっても親に褒めてもらえるのは嬉しいものだと、カラブローネは新たな涙を零す。
いよいよ神の国に旅立つ間際になって敬愛する父に会え、今までの不孝を許してもらえた。最後の気懸かりが解け、心からの安らぎがカラブローネの胸に満ちた。
「お父様。私の生涯は、とても恵まれていました。
お父様とお母様の、子どもとして生まれ、娘にも恵まれました。離宮では、こちらにいる三人に、とてもよくしてもらえたのです」
カラブローネは重い頭を動かし、感謝を込めて侍女達の方を見た。
「幸せな……一生でした。
私は一足先に、お母様のおられる天の国へ、参ります。
お父様はどうか、急いでいらっしゃらないで、下さいね」
「わかったよ、カラブローネ。私もきちんと天寿を全うすると約束しよう」
「はい」
カラブローネは嬉しそうに微笑んだ。
「お父様……、最後にお願いが、あるのです。
セディアからの文を、お父様の手元に、置いていただけませんか?
あの子はずっと……お祖父様に、会いたがっていましたから」
カラブローネの言葉に父は頷いた。
「いただこう。
セディア様は向こうで元気で過ごされているのだろうか?」
「はい。ついこの前、手紙が届きました。
幸せに暮らしていると……、文に書かれていました」
もっとたくさん父と話がしたかったが、体の方がもう限界だった。
力尽きたように瞳を閉じたカラブローネの手を、父がそっと握り締めた。
「セディア様はきっと幸せになられるだろう。
お前は何も心配せずに、母の許へ行くといい。
いつか天の国で、お前やお前の母に会えるのを私も楽しみにしているよ」
はい……と答えたかったが、もうその力も残されていなかった。
だからカラブローネはただ柔らかな笑みを口元に浮かべた。
閉じた瞼の向こう側に、明るい陽の光が透けて見える。
先ほどまであった息苦しさや胸の痛みはどこか遠く、まるでそのまま遠い空へと駆け上れそうな気がした。
侍女達の啜り泣きと父が読み上げる聖句だけがカラブローネの体を包み込んでいる。
その声すらもやがて遠のいて、意識が途絶える最後の瞬間に、カラブローネは遠いシーズに暮らす最愛のセディアに思いを馳せた。
どうか貴方が幸せでありますように。
カラブローネの意識はその後戻る事なく、半日後に神の国へと旅立った。
まるで眠っているような安らかな顔だった。
お付き合いくださいましてありがとうございました。感想や誤字報告もありがとうございます。苦しい展開なので読んでいただけるかなと心配していたので嬉しかったです。今回も誤字があり、反省しています。お手を煩わせました(汗)
セディアは十二歳から十六歳までの多感な時を寝たきりとなった夫の傍で過ごし、その心に寄り添い続けました。このようなセディアを育てた母君はどのような女性だったのだろうかと考えた時、敬虔な信仰に支えられたカラブローネという人間が頭に思い浮かびました。若くして命を落としたカラブローネですが、精いっぱい自分の人生を生き抜いて、悔いはなかったように思います。
セディアの祖父も苦難の道を歩んでいますが、セディアはいずれ皇族の身分を取り戻して故国アンシェーゼに帰ってきますので、いつか会う事が叶う筈です。そしてセディアは祖父から話を聞き、献身的に母を看取ってくれた侍女達に深い感謝を覚える事でしょう。
カラブローネに関わった人々が幸せになっていく未来を考えると心が温かくなります。
またどこかの作品でお会いできますように。