カラブローネ 5
翌週、カラブローネは月に一度離宮を訪れる司祭に、自分にできる奉仕はないかを尋ねてみた。
このまま無為に一生を終えるのではなく、何か人の役に立つ事ができないかと考えたからだ。
教会には救護院や窮児院が併設されていて、運営資金は信者からの献金や善意の寄付、国からの補助金などで賄われていると聞いていた。
カラブローネは自分に渡される予算の範囲内で、毎月一定額を教会に献金していたが、それだけでは心が満たされなかった。
困っている人々のために自分ができる事はないだろうかと尋ねてみると、司祭はしばらく思案した後、カラブローネに刺繍を勧めてきた。
司祭によると、刺繍が施された小物はより高い値で売れるらしい。
司祭が持ち運んできた布に刺繍を施し、救護院で保護された女性達がその布でサシェや巾着袋を作れば、その分より多くのお金が入ってくる。
それを聞いたカラブローネは、その日からせっせと刺繍に明け暮れるようになった。
この一針一針が誰かの助けとなり、最終的に誰かのものとなって喜ばれるのであれば、これほど嬉しい事はないと思った。
それ以降、カラブローネの一日の大半は祈りと刺繍に費やされるようになり、たまに自分へのご褒美として読書や庭園散策を楽しんだ。
そして時折届く、セディアや父からの手紙を心待ちにし、届いた頼りに返事が出せる幸せを噛み締めた。
傍から見ると代わり映えのしない単調な生活だったが、深い信仰に支えられたカラブローネの顔はいつも生き生きと輝いていた。
そんなカラブローネの傍で暮らす内に、仕えている三人の侍女達の考え方にも少しずつ変化が表れ始めた。
彼女達は皆、望んでこの離宮に来た訳ではなかった。
それぞれの事情があり、自身の幸せを半ば諦めて、給金を得るためにこの離宮にやって来た者ばかりだった。
貧しい貴族家に生まれ、家族から仕送りを望まれて、最終的にこの離宮に来た者もいる。
彼女の献身のお陰で弟妹達は無事縁を繋いだが、自分だけは行き遅れてしまい、今はもう行き場もなくなってこの離宮に留まっていた。
あとの二人は、子を持たぬまま夫に先立たれた未亡人だった。
婚家で居場所を失い、けれど今更実家に戻る事もできずに、結局は俸給を目当てに侍女として働かざるを得なくなっていた。
彼女達は離宮で働き始める時、ここで暮らす愛妾らに身の程を思い知らせるようにと離宮長から言い含められていた。
離宮長は愛妾らを甚振る事で皇后の歓心を得ようとしており、そんな離宮長の言葉は、自らの不運を嘆く彼女らにとって渡りに船だった。
彼女達は元々、貴族階級出身の自分達が平民出の愛妾に頭を下げる事に対し、強い屈辱を覚えていた。
だから嬉々としてその言葉に従っていたのだが、カラブローネの人柄とその生き様に触れていくうちに、だんだんと自分達の愚かしさに気付くようになっていった。
カラブローネの心は妬心や不満に汚される事なく、神への深い信仰で満たされている。嫌味や嫌がらせを繰り返しても、悪意を返された事は一度もなかった。
皇帝の愛妾になるような女だと初めのうちこそ見下していたが、カラブローネが望んで皇帝の閨に侍ったのではない事は、その様子から見ても明らかだった。
一介の下級侍女が皇帝の寝所に呼ばれたら、その意に逆らうなどできよう筈がない。
そんな当たり前の事にさえ、今まで気付けなかった。
美しい容姿が仇となり、カラブローネは人生を狂わされた。
もし皇帝に目を付けられる事さえなかったら、カラブローネは皇宮でのお勤めを終えて市井に下り、今頃はごく平凡で幸せな家庭を手に入れていた事だろう。
皇帝の子を産んだカラブローネは一生、離宮から出る事は叶わなくなった。
その上、皇帝からの気紛れの寵愛はすぐに離れ、慈しんで育ててきたたった一人の娘とも引き離された。
普通の人間であれば、この状況を耐えがたく思い、己が運命を恨んで周囲に当たってもおかしくはないのに、カラブローネは決してそのような事はしなかった。
身の裡にある神と誠実に向き合い、心の荒んだ侍女達に対しても、「ありがとう」という言葉を惜しまなかった。
渡される笑顔は春の木漏れ日のような穏やかで、それを支えるのは揺らぎない信仰だった。
負の感情を持たない彼女の傍にいるのはひどく心地良く、侍女達はいつの間にか好んでカラブローネの傍に侍るようになっていった。
自分の運命を呪っていた頃は、季節の移ろいにもあまり気付けていなかった。
晴れ渡った遠い空に浮かぶ、綿のように白い一朶の雲。さわさわとした葉擦れの音と太陽の恵みをたっぷりと受けた夏の地面の匂い。やがて庭園の木々の葉は色づいて、音を立てずに舞い落ちていく。
どの季節にも絵画のような美しさがあり、頬を嬲る冬の冷気さえ、愛おしいと感じるようになった。
侍女達はカラブローネと同じテーブルを囲み、他愛もない会話を楽しみながら刺繍に勤しむようになった。
献身の喜びを覚え、月に一度離宮を訪れる司祭の訪れを心待ちにし、落とされる言葉に真摯に耳を傾けた。
幸い、皇后の憎しみは今、皇位継承権を持つ第二皇子とその母君であるツィティー側妃のみに向けられている。
離宮に捨て置かれた愛妾達がどのような日々を送ろうと一切関心がなくなっていて、侍女達がカラブローネに心を寄せていても不興を買う恐れはなかった。
皇宮の華やかさから遠く離れた静かな離宮の一角で、カラブローネ達は平穏に暮らしていた。
日々の営みは喜びと共にあり、悪しき心が入り込む隙間はなかった。世俗から切り離された静かな空間で、四人は神への感謝に満たされて日々を送った。
セディアが嫁いで三年が過ぎた辺りから、カラブローネは体の不調を覚えるようになった。
微熱が続き、昼夜を問わず咳や痰が出始めた。
体調が良い日には居間に移動して刺繍針を手に持ったが、そんな時間もだんだんと減っていく。
カラブローネを診察した医師は煎じ薬を処方してくれたが、症状は一向に良くならなかった。
じわりじわりと病魔が体を侵食していくのを、カラブローネは肌で感じていた。
これも神の定めかもしれないとカラブローネは思った。
だから病が治りますようにとは祈らなかった。
ただ、幼くして他国に嫁いだセディアが幸せでありますようにと、ただそれだけを一心に神に祈った。
『神様、私の命を貴方に捧げます。ですから、どうぞ幼いセディアをお守りください。
あの子が自由で満ち足りた幸せな人生を歩みますように』
寝付く日々がだんだんと増えていったが、その傍らには常に侍女達の姿があった。
胸や背の痛みを訴えるカラブローネのために侍女達は夜中でも背中を擦ってくれ、痛みをとる薬を煎じてはカラブローネに飲ませてくれた。
セディアのいない四つ目の春を迎える頃には、カラブローネはもう、起き上がる事さえできなくなっていた。
だから初夏の日差しが感じられるようになったある日、カラブローネは最後の手紙をセディアに送ってもらう事にした。
自分の代わりにペンを持つ侍女の姿を見ながら、これが娘に送る最後の手紙になるだろうとカラブローネは覚悟した。
自分がどれほどセディアを愛おしく思っているかを言葉を尽くして伝え、この先手紙を送る事ができなくなっても、母は遠い場所から貴女の幸せを願い続けると文に記してもらった。
セディアからはほどなく返事が来た。
手紙が代筆されていた事で、容体がかなり悪いとわかってしまったのだろう。
事細やかにカラブローネの体を気遣い、最後に軽く自身の近況について触れていた。
『わたくしは今、グレン様と別邸に来ています。
ここは王都の外れで、とても空気のきれいなところです。
お母様、わたくしは元気で幸せに暮らしていますから、どうぞ心配はなさらないで下さい。
お母様の病が良くなりますよう、毎日この地からお祈りをしております』
ああ。あの子は幸せに暮らしているのだ。
カラブローネの瞳から安堵の涙が零れ落ちた。
これでもう、心残りはなかった。
年の近いご夫君がきっとセディアの事を幸せにしてくれるだろう。