カラブローネ 4
ひとしきり泣いたセディアがだんだん落ち着いてくるのを待って、カラブローネは静かにソファーから立ち上がった。
そしてキャビネットへと向かい、引き出しに入っていた一冊の聖書を取り出した。
こげ茶色の皮で装丁されたそれは、何度も読み返したため、皮がところどころ白くなっている。
「これは私が九つの時に貴女のお祖父様が下さった聖書なの。いただいた時は真新しかったのだけれど、悲しい時や辛い時に読み返していたら、かなり傷んでしまったわ。
これを持ってお行きなさい。私に繋がる物は持たせてあげられないけれど、聖書ならば許してもらえると思うから。
これをお母様だと思って大切にしてくれる?」
「……でもこれはお母様がすごく大事にしていらっしゃる本だわ。
これがなくなったら、お母様も悲しいんじゃなくて?」
「大事なものだからこそ、貴女に持っていて欲しいの」とカラブローネは微笑んだ。
「貴女にお祖父様を会わせてあげたかったわ。
今も遠い地で、貧しい人々のために毎日祈りを捧げておられる筈よ。
お母様はお祖父様の事を誇りに思っているし、そのお祖父様の聖書を貴女に託せる事が嬉しいわ」
「うん……」
再び涙を零し始めたセディアの体を、カラブローネはしっかりと抱き締めた。
「ねえ。セディア。この先どんなに辛い事があったとしても、神がきっと貴女をお守り下さるわ。
どんなに苦しい時も、神は貴女の傍にいて下さる。その事をどうか忘れないで。
誠実に生きて、何より自分に恥じない生き方をなさい。
貴女が困難にくじける事のないよう、お母様はいつも祈っているわ」
六か月後のある晴れた秋の日に、セディアは離宮を旅立った。
空はどこまでも青く澄んでいて、まるで小さな皇女の婚姻を祝福するように陽の光が降り注いでいた。
馬車が遠ざかっていくのをカラブローネはじっと見送り、馬車が完全に見えなくなってしまってからも、ずっとその場に立ち尽くしていた。
これが今生の別れだとわかっていた。
もう二度と、あの愛おしい子どもに会う事はできない。その声を聞く事もその姿を垣間見る事すら許されなくなる。
それまで堪えていた涙が頬を零れ、顎を伝って襟元に落ちた。
カラブローネの胸元には、ハンカチに包まれた一房の髪が入っていた。
娘に繋がるものが何か一つでも欲しくて、前の晩、セディアに頼んでこっそり切り取らせてもらったのだ。
そう言えば、あの子の肖像画の一つも持っていないのだと今更のようにカラブローネは気付いた。
絵師を頼めば招く事もできた筈なのに、その事に思い至らなかった。
記憶に残るセディアの顔は、年を追うごとに薄らいでいくだろう。
今は鮮明に覚えているが、いずれ面影は朧になり、断片のような思い出だけが胸の中に残されていく筈だ。
その晩カラブローネは、セディアの髪の毛が包まれたハンカチを握りしめて一晩中泣き明かした。
この狭い宮殿から解き放たれ、あの子はようやく広い世界へと旅立った。
母としてそれを喜んでやらなければならないのに、寂しさと娘への恋しさに心が潰れそうだった。
あの子は母を恋しがらずに眠れているだろうか。
慣れぬ馬車旅で体を壊しはしないだろうか。
ただひたすら、その身が案じられた。
翌朝、カラブローネは腫れぼったい目で机についた。
アレシに住まう父に手紙を綴るためだ。
『昨日、セディアはシーズへと旅立ちました。
八つで故国を離れるあの子のために、どうぞ祈ってやっていただけませんか。
あの子が幸せな家庭を築く事ができますように。
どんな困難が身に降りかかっても、その苦しみがいつか報われ、満ち足りた気持ちで日々を送る事ができますように。
お父様からいただいた聖書をあの子に持たせました。幾度となく私を慰めてくれたあの聖書が、今度はセディアの心を満たしてくれる事を願うばかりです。
貴方に何も恩返しできず、このような頼みごとばかりをする不肖の娘をお許し下さい。
貴方の娘、カラブローネより』
その後のカラブローネの生活は単調なものだった。
朝に晩に神に祈りを捧げ、空いた時間は本を読んだり、庭園の散策をしたりして日々を過ごす。
手慰みに時折、刺繍をする事もあったが、渡す相手もいない身ではそれも虚しいだけだった。
散策と言っても、限られた広さの庭園では目新しい変化などあまりない。休日に宮殿の外に出られる侍女達と違って、カラブローネには自由がなかった。
一度だけ、離宮の外に出てみたいと離宮長に頼んでみたが、けんもほろろに断られた。だからカラブローネは願う事を諦めた。
生きていても何ほどの喜びがあるのだろうかと鬱々とした日々を送っていたある春の日、思いもかけない文が離宮に届けられた。
銀の盆に載せられて運ばれてきたそれをカラブローネは呆然と見つめ、震える手でそっと裏返した。
封蝋に施されていたのは見慣れぬ家紋だった。
まさか……と思いつつ、カラブローネはペーパーナイフで慎重に封を開ける。
中から出てきたのは、透かし模様のある薄いピンクの便せんだった。
『お母様、お変わりございませんか。
去年、お母様とお別れしてからあっという間に季節が過ぎて、花の芽吹く春がやって参りました。
お母様と離れて迎える初めての春です。
庭園にあった花水木の花は、もう咲いているでしょうか。春の日差しを浴びながらお母様と薄紅色の花を楽しんだ事を、つい昨日の事のように思い出しています。
お義父様から、母国にいるお母様に手紙を出すお許しをいただきました。
すでにカインズ家に嫁いだ身であれば、頻繁に文のやり取りをする事は好ましくないと言われましたが、季節ごとの便りくらいはしても構わないと言っていただけました。
シーズに嫁いでもうすぐ一年が来ようとしておりますが、わたくしは元気で暮らしています。どうぞご安心下さいませ。
夫となったグレン様は王立学校の寄宿舎に入っておられますが、月に一度は邸宅に帰ってこられます。そしてわたくしと一緒に庭園の散策をしたり、お茶の時間を楽しんだりなさいます。
その時間が私にとってはとても楽しみなものとなっています。
グレン様はとても貴族らしいお方で、最初は少し冷たく感じられました。
けれど交流を重ねるうちに、公正で優しいお方だと感じるようになりました。
カインズ家の次期当主として真摯に勉学に向き合っておられ、心より尊敬しています。
邸宅の敷地内には広い馬場が作られていて、わたくしはそこで乗馬を習っています。
お母様は馬をご覧になった事はありますか? わたくしは動物を目にするのも初めてでしたので、初めて見た時はその大きさに驚きました。
馬場には幅広い柵や水濠と呼ばれる堀のような障害物が設置されていて、グレン様はそれらを軽々と馬に乗って飛び越えられます。
幼い頃から馬と親しんでおられ、全く怖くはないと言っておられました。
わたくしはようやく一人で馬に乗れるようになったところです。上手に乗りこなせるようになるまでにはまだまだ時間がかかる事でしょう。
グレン様のいない時は、お義父様やお義母様とお会いする機会はあまりありません。
時々晩餐の席に呼ばれる事はありますが、顔を合わせるのはその時くらいです。
ただ折に触れて、カインズ家の名を背負う者として恥じない教養を身に着けるようにと言われております。
そのお言葉に従い、日々努力して参りたいと思っています。
こちらの家で、わたくしは不自由ない日々を過ごしております。ですからわたくしの事は、どうぞ心配なさらないで下さいね。
わたくしへの手紙は、カインズ家の侍女のヘヴン宛てにしていただけますでしょうか?
ヘヴンは昨年までグレン様に仕えていた者で、今はわたくし付きとなっています。
こうしてお母様にお便りができるなど夢のようです。
わたくしが幸せであるように、どうかお母様も幸せでありますように。
お体にはくれぐれも御自愛なさって下さいませ。
セディア・シェレ・カインズ』
「セディア……!」
カラブローネは手紙を胸元に抱いて咽び泣いた。
たった八つで見知らぬ国に嫁がされた幼い娘の事をずっと案じていたが、セディアは向こうで健やかに暮らしているらしい。
文字も伸びやかで生き生きとしており、辛い境遇ではない事が察せられた。
もう十分だとカラブローネは思った。
手放した娘が遠い場所で幸せになってくれているならば、これ以上カラブローネに望む事はない。
カラブローネは涙を拭いながら、豪奢な調度で埋められた室内をぼんやりと見渡した。
ここに迎え入れられてから、厳しい労働からは解放され、飢えとは無縁の生活となった。
世の中には歩きたくても足の不自由な者がいるし、どれだけひもじくても一日に一個のパンすら口にできない者もいる。
それに比べ、自分は思うように体が動き、食事に窮した事は一度もない。
その事への感謝を忘れ、自分が得られないものばかりに目を向けて不満を溜め込むなど、自分は何と愚かしい生き方をしていたのだろう。
囚われていると思うから、離宮が檻のように思えてしまうのだ。
つまるところ、自分の幸せを決めるのは自身の心の持ちようで、何人もカラブローネからその自由を奪う事はできない。
カラブローネの心が神に向いている限り、自分はいくらでも幸せになれるのだ。
カラブローネは今までの生き様を心から恥じ、改めて神の御前に頭を垂れた。