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側妃稼業はなかなか慣れません

 後にヴィアは、この日のお忍びを何度となく思い起こした。

 ただの皇女でいられた、最後の日。アレク皇子と肌を合わす前の無邪気な自分は、まだ恋も知らず、未来に対する恐れもなかった。


 翌日ヴィアは、側妃として水晶宮へ上がった。


  その日の晩、初めて皇子の寝所に上がる前、ヴィアは数人がかりで侍女に体を洗ってもらい、肌や髪に香油を塗り込められた。

 指に吸い付くような見事な肌ですこと、と侍女頭の賞賛を受け、紐一つで容易く解けるふわりとした絹の寝衣を素肌に纏った。

 くしけずられた艶やかな髪がさらさらと背に掛かり、化粧と言えばただ、唇に薄く紅をさしただけだ。

 まだ十六の瑞々しい肌は、仄かな明かりの中で象牙のような白さが際立ち、微かに面を伏せて皇子の訪れを待つ無垢な姿は、息を呑むように美しい。


 最初は落ち着いた笑みでアレクを迎え入れたヴィアだが、抱き寄せられて口づけを受け、その吐息をうなじや耳元に覚えるうち、何をどう考えていけばいいのか分からなくなった。

 まるで身に纏っていたすべての鎧が剥ぎ取られていくかのようだ。

 手慣れた指が、女性として初めての感覚をヴィアに呼び起こし、ただアレクのなすがままにか細い息を漏らす事しかできない。

 やがてアレクが体を離し、忘我の時から解放されたヴィアは、初めて教えられた悦楽や混乱、そして何か大切なものを確かに失ってしまったのだという途方もない喪失感に、涙が溢れてくるのを止められなかった。


 腰に絡みついたアレクの手は、ヴィアを守るようにその華奢な体を引き寄せ、しっかりと胸に囲い込む。

 指に絡まった艶やかな金髪をアレクは愛おしむようにくしけずり、こめかみにそっと口づけた。


 ヴィアは息を抑え、頬を流れる涙に気付かれまいとしたが、やがておとがいに指を滑らせたアレクは、濡れた頬に気付き、驚いたように半身を起こしてヴィアの顔を覗き込んだ。


「何を泣く」

 ヴィアは首を振ってその問いから逃れようとしたが、親指で優しく濡れた頬を拭われて、堪え切れずにまた新しい涙を零す。

「わかりません」


 敵にならない証として体を差し出すのだと、最初からただそれだけの関係だと割り切っていた。

 けれど細身だが、逞しく鍛えられた体に抱きこまれ、この十六年間、自分が何を欲していたか初めて知った。


 優しく慈しむ母はいても、父の温もりや力強さは知らずに育った。

 母が亡くなってからは、ただセルティスを守らなければと、追いつめられるままに次の一手を探っていたように思う。

「ただ、怖くて」

 広い胸に抱かれて、急に自分が頼りない存在に思えてきた。自分は弟を守らなければならないのに。強い存在でなくてはならない筈なのに。


 混乱するままに与えられた忘我は、ヴィアを更に戸惑わせた。圧し潰さないように注意しながらのしかかられる体の熱さに翻弄され、その温もりを恋しく思えば思うほど、言いようもない哀しみが心に突き刺さる。


 体をひさぐことが庇護を得る条件だった。

 女性として守るべき何かを自分はすでに失ったのに、嘆く権利すら自分にはない。


「今日から私がお前の庇護者だ。セルティスの事は私が守る」

 何より望んだ言葉なのに、今は心が引き裂かれる思いがした。


「泣くな」

 優しく言葉を落とされて、こめかみに、頬に、散りばめるような口づけを落とされた。長い指がヴィアの髪に差し込まれ、最後に宥めるようにそっと唇に口づけられる。

 体を強張らせたヴィアに気付き、アレクは吐息だけで微笑んだ。


「心配するな。今日はこれ以上しない」

「これ以上?」

 ヴィアは、睫毛に溜まった涙が一滴ひとしずく頬を落ちていくのを感じながら、不思議そうに尋ねた。

「これからまだ、何かあったのでしょうか?」

 アレクは瞠目し、何でもないと首を振った。


 伽の女は、その夜のうちに退室させるのが常だった。寝首を掻かれるのはごめんだし、事が済んだ後に傍にいられても煩わしい。

 呼び鈴を引けば、二つ向こうの部屋に控えている侍女がやって来て、寝所から送り出される女の世話を細やかに焼いてくれることだろう。


 だが、今日初めて、アレクはこの温もりを離したくないと思った。涙が乾くまで頭を撫でてやり、この華奢な体を抱きしめていたい。

「もう休め」

 アレクはヴィアの体を抱き寄せた。

 ヴィアはなされるがままに体を預けていたが、やがて安心したように小さな寝息を立てて眠り始めた。



 こちらへ、と案内された部屋で、ヴィアは一人食事を摂っていた。

 長いテーブルに一人きりで座り、周りを侍女に囲まれて食べる食事はひどく味気ない。 

 紫玉宮なら、セルティスの斜め向かいに座り、いつもおしゃべりしながら食事をしていた。


「殿下もこんな感じでお食事をされているの?」

 一番近くに控える、エイミと呼ばれる侍女に尋ねると、そうです、と返事が返ってきた。

 エイミは、幼い頃から水晶宮に仕えている侍女で、明るく誠実で有能なところが侍従長の目に留まり、今回側妃殿下の侍女に抜擢された娘だ。

 ヴィア付きの侍女の中では中堅といったところで、ややふっくらとした愛嬌のある面立ちをしている。


「では一緒の宮殿に暮らしていても、殿下とは一緒に食事はしないのね」

 ヴィアの問いに、エイミはさあと首を傾げる。

「それはわかりません。

 今朝は皇后陛下から顔を出すようご下命があったので、皇后宮で朝食をとっておられますが、皇后陛下から朝食のお呼びがかかる事自体が珍しいのです」


 初めてヴィアを宮殿に迎え入れた翌日の朝、わざわざ皇子を呼びつける意図は明白だ。

 側妃に心を許すなと牽制しているのだろう。


「折を見て、皇后陛下にはお礼を申し上げないとならないわね」

 何と言っても、自分を皇子の側妃に推挙してくれたのは皇后だ。

 皇后の後押しがなければ、自分は今頃、皇帝の寝所に連れて行かれた事だろう。


 それにしても、今日は何という朝の始まりだろうと、ヴィアは思う。


 寝起きは生涯で最悪だった。気持ちよく寝ていたら、扉越しに侍女の声で起こされたのだ。

「殿下、入ってもよろしいでしょうか?」


 いつものセイラの声ではないわ、と思いながら目を開け、まず目に入ったのは自分を抱きしめている皇子の裸の胸だった。

 自分の状況が分からず、しばらくまばたきを繰り返していて、一気に目が覚めた。と言うか、一気に血の気が引いた。

 声にならない悲鳴を上げて起き上がったのはいいが、今度は自分があられもない姿であることに気付いて、もう一度悲鳴を上げそうになった。 

 慌てふためいて布団に飛び込むと、同じく侍女の声で目が覚めたのだろう皇子が、妙に面白そうに自分を眺めていた。


「殿下」

 再び侍女の声が聞こえて、「まだ開けるな」と皇子が答える。

「どうしたらいいのでしょう」と涙ぐんで聞くと、さあな、と答えられた。


「起こされるまで寝ていたのは久しぶりだ」

 ヴィアは羞恥と混乱で何も考えられずにいるのに、皇子は大きく伸びをし、お前も眠れたかとのんびりと聞いてきた。

 皇子はそのまま半身を起こすと、どうしていいかわからずに固まっているヴィアの両脇に手をついた。


 抵抗しようとすると、「側妃の務めはわかるか」と尋ねられた。わかりません、と首を振ると、皇子は瞳を眇めてヴィアを見た。男の色気が漂っているのが、妙に恐ろしい。


「私に従順でいろ。逆らうな」


 そうして、ヴィアの髪を一掬い手に取り、愛おしそうに口づけた。このまま昨晩の続きをされそうで、ヴィアはすっかり腰が引けてしまった。

「な、何をなさる気で…」

「何をすると思う?」

 思わせぶりに近づいてくる唇に、ヴィアが心の中で悲鳴を上げていると、皇子は不意に顔をそむけたかと思うと、我慢できなくなったように爆笑した。


「殿下!」

 ひとしきりヴィアで遊んで気が済んだのか、アレクはさっさと落ちていた寝衣を身に纏い、ヴィアにも衣を渡して扉の向こう側に声を掛けた。

 

 その後の喧騒は思い出したくもない。あんな大人数が部屋に入ってきて、世話を焼かれるなど思ってもいなかった。


 香油の香りがする布で全身を拭かれ、髪を梳られ、手間の掛かるドレスを朝から着付けられた。そして案内されるままにここに通され、今に至っている。


 朝から疲れた、というのがヴィアの正直な感想だ。

 取りあえず、初夜は済ませたから、側妃の務めは一つ果たしたのだと思う。

 あとは数年、セルティスの立場が安定するまで側妃を務めあげたら、お役御免だ。

 一人きりの食事は退屈だが、数年の我慢だと思えば何てことはない。


 今度殿下に会うのは、五日後の晩餐会の時だろうかと、ヴィアは思った。事実上のヴィアのお披露目だ。


 母ツィティーの名を汚さぬよう、完璧な側妃を演じなければならない。

  晩餐会の出席者や席次、引き合わせられるであろう貴族らの立ち位置や系図を、今日は徹底的におさらいしておこうとヴィアは心に決め、長い朝食を終えた。


 

 こうして側妃としての第一日目をこれ以上なくまじめに過ごしたヴィアだが、夕食前に皇子からの使者が来て、夕食と寝所を共にするよう言われた。


 夜になり、通された部屋で、「お夕食はいつもこちらでとるのですか?」と皇子に尋ねると、そうだが、と不思議そうに返された。

 六人掛けのテーブルに向かい合わせで離れて座り、喋りにくい。


「そちらに行ってはなりませんか?」と、ヴィアは尋ねた。

「どこに座る気だ」

「殿下の斜め前に。給仕はわたくしが致します」


 アレクは面白そうにヴィアを見た。

「好きにするがいい」


 アレクは侍女もすべて下げようとしたが、温厚そうな侍従長に、「私だけは残ります」と言われ、侍従長一人を部屋に残す。

「ラフィールだ。侍従長は信頼していい。私のお忍びもすべて知っている」


 紹介されて、ヴィアはにっこりと微笑んだ。

「下町を歩かれるなんて、本当に困った皇子殿下ですわね」

「お前が言うな」

 アレクは呆れた声で言った。


 何度も城下に出ていたが、買い食いをしたのは初めてだ。しかも庶民の食べ物は意外と美味しく、いつの間にか時間を忘れて二人であちこち歩き回っていた。

 更には雑貨屋に連れて行かれ、メッキの髪留めをヴィアが大層気に入って、長い時間をかけてようやく一つ選ぶ間、従者よろしくずっとそばで待っていた。とんでもない皇女だと思う。


「私が知るツィティー妃は、皇帝の寵が眩いというだけの、貞淑で従順な側妃だったが、お前から見た母はどうやら違うようだな」

 改めて問うと、ヴィアは嬉しそうに笑った。

「楽天的でたくましく、楽しい母でしたわ。面白くもない晩餐の席に連れ出されても、扇の陰から貴族達を観察して、綽名をつけては面白がっておりましたもの」


 どこにいても楽しい事を見つけるのが上手な母だった。

 恨んではダメ、悲しんではダメ、自分を憐れんでも何もならないと、母は口癖のように言っていた。


「母は王宮の外に出たがっていたけれど、皇帝陛下にお許しを頂けなかったでしょう?

 セルティスも皇帝の血筋を引く者ですから、母は外に出る事を許さなかったのです。謀反でも疑われて、殺されては大変だからと」

 市井に下りる事が出来たのはヴィアだけだった。


「ですから、宮殿から出る事の出来ない母と弟のために、わたくしは一生懸命面白い話を見つけてきましたのよ」


「例えば?」

「ミダスの中心にある始祖帝の像は、右掌を上に向けていらっしゃるでしょう?後ろ向きに立って硬貨を投げて、無事掌におさまったら願いが叶うのですって。

 だからあの辺りは、掌広場と呼ばれているそうですわ。本当は何やら長い名前でしたよね」


「……セス・モンテニ広場だ」

 始祖帝は、セス・モンテニ峡谷で死闘を繰り広げ、いくつもの部族を制圧してアンシェーゼを建国した。

 語り継がれている筈の名が、民衆の間では掌広場に変わっているとは、まさか思いもしなかった。微妙にショックだ。


「それに時々、赤子を抱いた乞食を目にするでしょう?あれは商売なのだそうですよ」

「商売?赤子を抱えて生活の立ちゆかぬ者が立っているのでは?」

「と、思いますでしょう?」

 ヴィアはうんうんと頷いた。

「実は赤子は、お金を出して借りてくるのだそうですわ。何でもその方が実入りがいいとかで」


 アレクは言葉を失った。

「何というか、たくましいな」

「ええ。ああいう姿を見ると、わたくしは自分がまだまだだと思いますもの」

 アレクは胡乱な目でヴィアを見た。

「お前は一体どこを目指している」

 取りあえず、側妃になったからには勝手にお忍びはするなよ、と釘をさすと、勿論ですわ、とヴィアは頷いた。

 側妃稼業は、全力で頑張るつもりだ。

ブクマと感想を下さった方、本当にありがとうございます。

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[一言] レンタルチャイルドの話がなんかポジティブに捉えられてて爽やかwww本当は深刻なんだろうけど、ヒロインの性格が現れていていい!
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