カラブローネ 3
隣国シーズの貴族との間に結婚話が持ち上がったのは、セディアが八つになって間もない頃の事だった。
「結婚……ですか?」
それをカラブローネ達に伝えたのは、パレシス帝の執務補佐官であるヴェルモ卿という貴族である。
昨日、先触れの使者が唐突に離宮を訪れ、今日の対面と相成った。
執務補佐官とは皇族の側近に与えられる名誉職だ。彼らは昼夜を問わずに皇族と対面でき、そのために莫大な影響力を周囲に有していた。
皇族の私的な部分に関わる事が多いため、身分や家柄よりも皇族本人との相性が何より重視される。
そのためその官職に選ばれなかった者達からは、皇族のお気に入りという言い方で羨望混じりに揶揄される事が多かった。
そのヴェルモ卿は、よほど高額な年棒をもらっているのか、金や宝玉をちりばめた派手な衣装を身に纏い、刺繍入りのタイを馬鹿でかい宝玉で留めていた。
体に香水を振りかけているのか、むっとする柑橘系の匂いが鼻をついた。
重厚感のある味わい深い香りだが、ここまで強いと思わず眉を顰めたくなる。
匂いから意識を遠ざけようと足元に視線を落とせば、ピカピカに磨きたてられた赤い革靴が目に入った。
「お相手はシーズの名門、カインズ家の御嫡男です。
名をグレン・リアムとおっしゃられ、現在、十歳だと伺っております」
「シーズ……と言うと、聖教発祥の国ですね」
カラブローネはほっとしたように呟いた。
第一皇女や第二皇女のように、宗教の違う国に嫁がされるのではと覚悟していたが、セディアの場合は違ったらしい。
聖教の司祭を父に持つカラブローネは、できれば同じ聖教を信仰する国に嫁いで欲しいと思っていて、その願いが聞き届けられた事にまず安堵した。
シーズ国はアンシェーゼの北に位置し、羽を大きく広げた形で東西に広がっている国だ。聖教発祥の地ともされていて、現在、聖王庁がおかれているマラカンとは西の南端を接していた。
「このようにありがたい御縁を繋いでくださった皇帝陛下に心より感謝申し上げます」
カラブローネはヴェルモ卿の前に深々と頭を下げた。
不安そうに母の顔を仰いでいたセディアも、慌てて母に倣って一礼する。
それを見たヴェルモ卿は、満足そうに唇の端を上げた。
「現カインズ卿夫人はシーズ王陛下の姪に当たられます。御子息のグレン様は、文武両道、才気煥発であられるとか。
今は領地の方で暮らしておられますが、この四月から王都に戻り、王立学校に進学される予定です。
殿下の上の姉君二人は十以上も年の違う相手に嫁がされましたが、セディア皇女殿下は運が良い。
お年も近く、まさに申し分ないご縁と言ってよろしいでしょう」
よほど機嫌が良いのかぺらぺらと語りかけてくるが、言葉には心が籠っておらず、口調はどこか薄っぺらい。
実際ヴェルモ卿にとっては、平民の血を引く皇女がどんな相手に嫁ごうと、その先幸せになろうがなるまいと、どうでもいい話なのだろう。
皇帝陛下の決定を伝えるまでが自分のお役目で、それが済めばさっさとこんなところから帰りたいというのが本音である筈だ。
指には嵌めた蒼玉の指輪を退屈そうに弄んでいるヴェルモ卿を見ながら、この方も随分偉くなられたものだわ……とカラブローネはふと心に呟いた。
初めて会った頃、ヴェルモ卿はまだ、皇帝陛下に群がる大勢の取り巻きの一人に過ぎなかった。
母譲りの美貌と、芝居がかった大げさな言動で皇帝陛下の関心を留める事には成功していたが、周囲を首振り人形に囲まれた陛下にとっては、今一つ面白みのない男であったらしい。
お情け程度に役職を与えられ――確か、狩猟場の鍵係とかそんな類のお役目だったように覚えているが――、溢れかえる取り巻き達の中から頭一つ分でも抜け出そうと必死になって足掻いていた。
だからこそヴェルモ卿は、平民出の愛妾であるカラブローネにもへこへこと頭を下げ続けた。
歯の浮くようなお世辞を並べ立て、どうか皇帝陛下に良しなに伝えてはもらえないかと、腹の大きくなったカラブローネに幾度となく頼み込んできた。
皇帝の子を宿していたとはいえ、カラブローネにとって皇帝陛下は雲の上の存在に近しいお方だ。
そのような方に自分が何か頼みごとをするなどあり得ざる話で、どう返事をすれば良いものか答えに窮した事を今でも覚えていた。
あれから八年近い歳月が過ぎ、今やヴェルモ卿は誰もが認める陛下の寵臣となっている。
離宮に迎えられた平民出の愛妾にまでとりなしを頼んでいたという過去は、ヴェルモ卿にとっては思い出す事も不愉快な記憶である筈で、だからこそカラブローネはヴェルモ卿に対して、あたかも初対面であるかのように振る舞った。
皇帝陛下の執務補佐官にまで上り詰めたこの方の機嫌を損ねれば、どんな嫌がらせをされるか想像もつかない。
カラブローネ自身はどうなっても良かったが、娘のセディアの未来だけは守ってやりたかった。
ヴェルモ卿の話が一通り済んだところで、セディアが恐々《こわごわ》と口を開いた。
「わたくしはいつ嫁ぐのでしょうか?」
母のドレスの裾を握り締め、強張った顔でそう問い掛けたセディアに、ヴェルモ卿は「さて」と投げやりに呟いた。
「正確な日取りは決まっておりませんが、おそらく六月辺りになるのではないかと思います」
「六月……」
セディアが泣きそうな顔でカラブローネを見上げた。
そんなに早く嫁がされるとは思ってもいなかったのだろう。
それまで大人しくしていたセディアは、我慢できなくなったようにカラブローネのドレスを引っ張ってきた。
「お母様も付いてきて下さるの?」
カラブローネには小さな娘の心細さが手に取るようにわかったが、望む言葉は言ってやれなかった。
「……お母様はこの国を離れる事ができないわ」
カインズ家はシーズの王族に連なる方だ。
嫡男の嫁にと望んでいるのはアンシェーゼ皇国の第三皇女で、平民を母に持つ娘ではない。
皇女と一緒に平民出の母親がついてくるなど、醜聞以外の何物でもないだろう。
「母君はパレシス帝のご寵愛を受けたお方。離宮を出る事は許されておりません」
そっけなくヴェルモ卿が言い捨て、セディアはぐっと唇を引き結んだ。
その一言で、何を言っても無駄なのだとわかったのだろう。
堪え切れぬ涙がひと雫、セディアの頬を零れ落ちた。
「シーズになど嫁ぎたくありません」
その晩、そう言って泣きじゃくる娘の頭を膝に乗せて撫でながら、カラブローネは必死に語りかけた。
皇女として生まれてきた以上、政略結婚からは逃れられない。
いずれ母とは別れる運命である事や、セディアの前にはこれから新しい未来がいかようにも広がっている事を、カラブローネは切々と娘に説いた。
カラブローネはセディアが広い世界に旅立つ事を望んでいた。
このまま父帝から存在を忘れ去られ、一生離宮に閉じ込められるようになれば、あらゆる未来がこの子から閉ざされてしまう。
それだけは避けなければならなかった。
「お母様はセディアと離れる事が寂しくないの?」
顔を上げ、しゃくりあげながら聞いてくるセディアに、「勿論寂しいわ」とカラブローネは優しく微笑んだ。
「でもね、お母様はセディアにはきちんと幸せになって欲しいの。
ずっと会えなくなってしまったとしても、同じ空の下でセディアが笑ってくれていると思うだけで、お母様はきっと心が温かくなるわ」
カラブローネにとって、セディアは世界の全てだ。
二度と会う事ができなくても、いつの日か母の事を遠い思い出の一つに変えてしまっても構わない。
この子が生きて笑ってくれさえすれば、それで十分だった。
「ねえ、セディア。
貴方が嫁ぐシーズは聖教が深く信仰されている国だわ。
お母様のお父様が司祭様である事をセディアも知っているでしょう?
発祥の地とされている特別な国にセディアが嫁ぐ事を、きっと喜んで下さるわ」