カラブローネ 2
父は教会の伝手を通じてカラブローネの勤め先を探し、カラブローネは本格的な冬が来る少し前から下級貴族の家で勤め始める事になった。
朝から晩まで働いて、お休みは月に四日と半日の休みが二回。九つのカラブローネに与えられたのは、そんな生活だった。
使用人であるカラブローネに用意された部屋は、小さい窓が一つあるだけの屋根裏部屋で、夏はむっとした熱気が部屋全体に籠り、冬場は反対に冷え込んだ。
勿論、個室などではなく、三人の同僚との相部屋だ。天井の低い屋根裏に粗末なベッドが並んで置かれ、シーツは穀物袋を洗って縫い合わせたものだった。
ただ、男の使用人は厩舎か地下室で寝泊まりするそうなので、それに比べれば幾分ましだと言えるのかもしれない。
毎日毎日くたくたになるまで働いて、布団に潜り込むや、気絶するように寝落ちする日々が続いた。
それでもカラブローネがその境遇に不満を零す事はなかった。
貧乏な暮らしには慣れていたし、父の教えが常にカラブローネの心にあったからだ。
幼いカラブローネを支えていたのは父から授けられた信仰で、カラブローネは愚直なほど誠実に己の務めを果たした。
やがてその姿が女主人に評価されて序列を徐々に上げていき、最終的には皇宮に勤める事となった。
皇宮は給金が良く、ある程度の年数を勤め上げたらかなりの退職金も渡される。
いずれ良縁を繋ぎ、家庭を築こうと思っていたカラブローネは一も二もなくこの話を受け入れたが、それが思わぬ人生を自身にもたらせるようになるとは、当時のカラブローネには思いもつかぬ事だった。
「お祖父様は今、どちらにいらっしゃるの?」
ぽつんとそう問いかけてきたセディアに、カラブローネは唇だけで微笑んだ。
「今はアレシという小さな村にいらっしゃるようよ」
「アレシって遠いの?」
「ええ。ここからは随分離れているわ。
赴任地を離れる事ができないからずっと会えていないけれども、遠くからセディアの幸せを祈って下さっているわ」
皇帝のお手付きとなった時、十七歳のカラブローネはその罪深さに慄いた。
貴族女性と違って、平民は処女性をさほど重要視しない。
凌辱は耐え難いものだったが、相手は神にも等しい皇帝陛下で、その意に逆らうなどあり得ぬ事だった。
だから自分が純潔を失ってしまった事については、不運な事故に巻き込まれただけだと自分に言い聞かせる事ができた。
けれど、その相手が妻子ある男性であったという事実が、カラブローネの心に重くのしかかった。
姦淫の罪という言葉がまず頭に浮かんだ。
この皇宮には妻である皇后陛下が暮らしておられる。そのお方はカラブローネの存在にどれだけ心を痛めておられるだろうか。
神の御前で恥じるような事をしたくなかったカラブローネはすぐに皇宮を去る事を願い出たが、望みは叶わなかった。
皇帝の種を宿している可能性がある間は宮殿に留まるよう命じられ、軟禁状態となってしまったからだ。
一方のパレシス帝は身を恥じて怯えるカラブローネの物慣れない様にそそられるものがあったのだろう。
何度体を割り開いても初々しさを失わないカラブローネの体に耽溺していき、日を置かず寝所へと呼ぶようになった。
そうした日々が続けば、子を孕むのも時間の問題だった。
ある日、運ばれてきた食事に強いえずきを覚え、カラブローネは堪らず御不浄に駆け込んだ。そして、このところ生理が遅れているという事実に初めて気が付いた。
カラブローネの体の不調は侍従長に伝えられ、すぐに侍医が差し向けられた。そしてカラブローネは懐妊を告げられた。
それからはまるで嵐に巻き込まれたような感じだった。
カラブローネはそのまま離宮の一角に迎え入れられ、周囲に傅かれる身となった。
この事実をどう受け入れればいいのか、カラブローネにはわからなかった。
母として、腹の子を守ってやらなければならないと切に思う。
けれど一方で、カラブローネの懐妊によって気持ちや尊厳を踏み躙られた方がいるのは確かな事実で、それを考えると罪深さに叫び出したくなった。
この苦しみをカラブローネは誰にも吐き出せなかった。
迂闊な事を口走れば、皇帝に対する不敬を咎められてしまう。
信じられる人間は父だけで、けれどその父には猶更、この事実を伝える事はできなかった。
敬虔な神の信徒であり、司祭という仕事に己の人生を捧げてきた父は、皇帝の愛妾となってしまった自分をどう思うだろうか。
妻子ある男性の子を孕み、贅沢な宮殿に迎え入れられた。
厳格な父にとっては耐え難い汚辱であるのではないだろうか。
父に軽蔑される事が怖かった。
もしたった一人の肉親である父に嫌われてしまったら、カラブローネはこの先どうやって生きていけばいいのか、わからなくなってしまう気がした。
そんなある日、便りが途絶えていた父から久しぶりに文が届けられた。
赴任地であったトウアを離れ、アレシという山あいの村で神と向き合う生活をしているという内容の便りだった。
カラブローネが皇帝の子を身籠った事を父はすでに知っていた。
父を政略の道具にしようとした一派がカラブローネの懐妊を父に伝え、アンシェーゼの皇都中心部の大聖堂に迎え入れようと画策し、父はその話を蹴ったのだ。
父は、神と向き合い、貧しい人々のために尽くす事が唯一の願いだと大司教に直訴して、過疎地への赴任を願い出た。
希望は受理され、父はその足でアレシに赴いた。
九つで父と別れてから、カラブローネが父と会ったのはたったの二回だ。
父が皇都に来る日に合わせてカラブローネが休みを取り、二人で食事をしながら話をした。
最後に会ったのは三年前であったような気がする。
たわいもない会話をして別れ、『次に会う頃にはお前にもいい人ができているかもしれないな』と別れ際に父は笑っていた。
皇帝の愛妾となった事を詰られるかもしれないとカラブローネは覚悟した。
けれども、手紙の中はカラブローネを気遣う言葉で埋め尽くされていた。
『愛する娘へ。
お前が皇帝陛下の愛妾となり、離宮の一室を賜ったと聞いた。
何があったかは知らぬが、これも神の思し召しだろう。
今が辛いと思えるならば猶更、胸を張って生きなさい。
徒に己を責めてはならぬ。
お前の事だから、贅に慣れて奢りを持つような事はないだろう。
神と向き合い、感謝を忘れずに日々を送りなさい。
そうすれば心の平安は自ずと与えられる筈だ。
最後に、どうしてもお前に伝えておきたい事がある。
どのような試練がお前を訪れようと、私は心からお前の事を愛している。
その事を決して忘れぬように』
その手紙を胸に抱いて、カラブローネは泣き崩れた。
多くの貴族らが自分のご機嫌伺いにやって来たけれども、誰もが心の底でカラブローネを見下していた。
身体で皇帝陛下を誘惑した浅ましい女だと、眼差しでカラブローネを蔑んでいた。
身近で仕えてくれている侍女達でさえ、カラブローネの事を嫌っている。
当たり前だ。彼女らは曲がりなりにも下級貴族出身で、平民であるカラブローネに頭を下げる事を屈辱だと感じているのだ。
カラブローネが何を言おうと、言葉は彼らの耳をすり抜ける。
豪奢な宮殿で、カラブローネはずっと一人ぼっちだった。
けれど、父だけはそんなカラブローネの気持ちをわかってくれた。
遠いアレシで父が自分の幸せを祈ってくれていると思っただけで、カラブローネは全ての苦しみが報われる気がした。
やがて、月満ちて生まれたのは皇位継承権のない女の子だった。
おくるみに包まれて胸の上に乗せられたその赤子を、カラブローネはそっと腕にかき抱く。
「生まれてくれてありがとう」
この子が女の子に生まれついた事が、カラブローネには神の祝福のように感じられた。
皇女ならばこれ以上人々の口の端に上る事もないだろう。
第一皇子の対抗馬に担ぎ出される事もなく、平穏な生活を享受する事が許される。
後はカラブローネ自身が全霊でこの子を愛し、歪まぬように導いてやるだけだった。