カラブローネ 1
柔らかな春の日差しが、離宮の絨毯にほんのりとした温もりを落としている。
「お母様、見て! 庭師にお花を摘んでもらいましたの。きれいでしょう?」
ぱたぱたと小さな足音がして、居間で刺繍をしていたカラブローネの許に小さな娘が駆け込んできた。
握り締めていた八重咲きのチューリップを得意げに突き出してくるセディアに、カラブローネは刺繍の手を止めて、「そうね」と優しく笑いかける。
厳しい冬を超えてようやく蕾を解いたチューリップは、淡いピンク色の花弁が幾重にも重なっていて、まるで薔薇のような華やかだった。
「とてもきれいね。この子が枯れてしまったら可哀そうだから、花瓶に差しておきましょうか」
カラブローネがそう言葉をかけると、セディアは素直に「はい」と頷き、傍にいた侍女に握っていた花を差し出した。
「これをお願い」
花を受け取った侍女は静かに退がっていき、カラブローネは針のついた刺繍セット一式をセディアから慎重に遠ざけた。
ここは皇帝の愛妾やその子ども達に与えられた離宮である。
セディアを身籠ったとわかってから、カラブローネはすぐにこちらの宮殿に連れて来られ、以来一度も外に出た事がなかった。
生まれる子が男の子か女の子かわからぬ内は、貴族らがよく挨拶伺いにやって来ていたが、生まれた赤子が皇位継承権のない皇女だとわかった途端、離宮からは潮が引くように人の姿が消えていった。
今は誰一人として訪う事のない離宮の一角で、カラブローネはひっそりとセディアと二人で暮らしている。
身の回りの世話は下級貴族出身の三人の侍女がしてくれていて、カラブローネが言葉を交わす相手は専らこの三人だけだ。
それ以外の人間は、時折セディアの様子を見にやってくる離宮長と、月に一度離宮を訪れる司祭様、そして庭園の手入れをする庭師くらいのものだろうか。
勿論、他にも下働きの者は多く出入りしていたが、カラブローネが姿を見かける事はほとんどなかった。
彼らはバックヤードの人間であり、可能な限り主らに姿を見せないように教育されていたからだ。
この離宮はタウンハウス形式となっていて、カラブローネ母娘の出入りが許されているのは、建物の一、二階部分と南側に作られた小庭園に限られている。
小庭園に面している一階の窓以外はすべて高窓となっていて、採光には不自由しないが、外の景色が見えにくい構造となっていた。
まるで籠の中の高貴な鳥ね……と心の中で呟きながら、カラブローネは膝に甘えてきたセディアの頭をそっと撫でてやった。
セディアが身に纏っているのはふんだんにレースがあしらわれた絹のドレスだ。手触りも良く、上品な光沢が光を鈍く反射している。
セディア自身は陽を紡いだような鮮やかな金髪を両サイドで編み上げて、金糸で縁取りされた青い天鵞絨のリボンを飾っていた。
第三皇女として周囲に傅かれ、水仕事一つした事のない小さな白い手は、しっとりと潤って滑らかだった。
贅に包まれた生活をしていても、ここには自由がなく、セディアの傍には片親しかいない。
離宮から離れたベーゼ宮に住まうパレシス帝は、かつて寵愛を与えたカラブローネやその娘の存在などとうに忘れているだろう。
今は皇国に男児をもたらせた側妃殿下に夢中で、常にその妃を傍に侍らせていると風の噂に聞いていた。
皇帝の寵を賜りたいと願った事など一度もなかったのに……と、カラブローネは寂しく心に呟いた。
カラブローネはずっと平凡で温かな家庭を望んでいた。自分を大切に思ってくれる男性と巡り会い、神の御前で互いの愛情と献身を誓い合って、一生を共にしたかった。
けれど、それはもはや叶わぬ夢だ。
皇帝の子を産んだ女は終生、離宮に飼い殺される。
指の間から零れていった夢を今更惜しんでも虚しいだけだった。
『ないものを欲しがるのではなく、今あるものを大事にしなさい』
ふと、司祭をしている父の言葉が耳元に蘇った。
『神に与えられただけの幸せに満足を覚えるように』
兎にも角にも、自分は今、衣食住に不自由しない生活を与えられている。
そしてかけがえのない娘を与えられた。
その事への感謝を忘れた自分を恥じ、カラブローネは瞳を伏せて真摯な祈りを神に捧げた。
日々の糧をお与え下さった貴方様に感謝致します。
そして願わくば、この子に溢れんばかりの幸せを……。
昨年の秋に、セディアの姉君に当たる第一皇女のマリアージェ殿下が、セクルト連邦のスラン公国に輿入れされた。
この六月には第二皇女のリリアセレナ殿下が、同じくセクルト連邦のマティス公国に発たれると耳にしている。
この子の婚姻が決まるのもそう遅い事ではないだろうと、カラブローネは膝で甘えるセディアにそっと視線を落とした。
子を手放す覚悟はすでについている。
この子はこんな狭い鳥籠で一生を終えていいような子ではない。
もう二度とその姿を見る事ができなくなっても、一生その声を聞く事ができなくなっても、この子が幸せで暮らしてくれる事の方がカラブローネには遥かに大事だった。
母の事は忘れていいから……とカラブローネは心の中でセディアに語り掛ける。
幼いこの子が母の事を忘れてしまったとしても、カラブローネの心からこの子の記憶を消す事はできない。
カラブローネにはそれで十分だった。
「ねえ、お母様。お母様が小さい頃のお話をして」
カラブローネの膝に頭を埋めていたセディアが、不意に頭を擡げてそう聞いてきた。
閉鎖された空間では目新しい事などさほどなく、セディアは母の幼い頃の話をよく聞きたがった。
「お母様は、皇都の北にある小さな町の教会で育ったのよね。
お祖父様はその教会の司祭様だったのでしょう?」
「ええ。そうよ」とカラブローネは微笑んだ。
「教会に併設された司祭館で、お母様はお祖父様とお祖母様の三人で暮らしていたの」
アンシェーゼの国教である聖教は、聖職者の結婚を許している。
結婚をすれば司祭以上の昇叙は望めず、出世の道を断たれてしまうが、カラブローネの父は愛する女性との婚姻を望み、終身司祭として神に仕える道を選んだ。
「お母様が暮らしていた教会はとても古くて、風が強いとぎしぎしと窓枠が鳴っていたものよ。
それに雨が降ると、あちこちで雨漏りがしていたわ」
「雨漏りってなあに?」
「雨が降ると天井から雨がぽとぽとと落ちてくるの。
床が濡れないように器を置いておくのだけれど、上から降ってきた水が器に溜まった水にぶつかっていろいろな音を立てるのよ」
「うわあ。賑やかね。セディアも聞いてみたかったなあ」
「『セディアも』ではなくて、『わたくしも』よ」
カラブローネは優しく言葉遣いを正した。
いずれこの子には相応の婚姻が用意される。
その時に婚家で辛い思いをしないように、しっかりとした言葉遣いとマナーを身に付けさせてやりたかった。
「貴女のお祖母様はとてもお優しくて、手先が器用だったわ。
刺繍をお母様に教えて下さったのはお祖母様だし、お母様やお祖父様の服は皆、お祖母様がご用意なさっていたの」
決して裕福な家庭ではなかった。
父は司祭に昇叙された時に支給された三枚の祭服を着回していて、袖口は擦り切れ、肘の辺りはてかてかと光っていた。
母はいつも丁寧に袖口を縫い繕ったり、ほつれた部分に当て布をしたりして父の身嗜みを整え、自分達の分は古着を購入して、それを仕立て直していた。
司祭としての給与は十分に渡されていた筈だが、父は困っている人間を見ると、放っておけずに手を差し伸べてしまう。
だから村人達からは感謝されていたが、カラブローネ達の生活はいつもぎりぎりだった。
「お祖母様はお母様が七つの時に亡くなってしまったけれど、とてもきれいな方だったと覚えているわ。
身体が余り丈夫ではなくて、ご病気になっても高いお薬は買えなかったの。
村の皆が薬草を摘んできてくれて、それを毎日飲んでいたれど、結局儚くなってしまわれたわ」
「わたくしもお祖母様に会いたかったな」
ぽつんとそう呟いたセディアに、カラブローネは優しく微笑んだ。
「お祖母様もきっと貴女に会いたかったでしょうね」
母が亡くなってからは、村人達が小さなカラブローネの世話をしてくれた。
母に代わって縫物や料理を教えてくれ、一通りの家事ができるようになった九歳の秋、カラブローネの父に辞令が下された。
アンシェーゼの南端にあるトウアへの派遣を命じたもので、それを知った父はカラブローネを皇都に残し、一人で赴任地に行く事を決めた。
当時、トウアは余り治安が良くなかった。
馬賊が幅を利かせており、子どもが攫われて売り飛ばされるという事件も頻繁に起きていて、そんなところに幼いカラブローネを連れて行けないと思ったのだろう。