アモンの母の独り言 4
結婚生活は平坦とは言えなかった。
テレサはすぐにでも跡取りをもうける事を望まれていたが、身ごもる事のないまま半年以上が過ぎた。
ちょうどその頃タルカス帝の体の不調が囁かれるようになっており、夫ザハルはアンシェーゼの国境を守る辺境騎士団の視察のため、都を空ける事が多くなってしまったためだ。
そしてすべての運命を変えるあの日が訪れた。
夫はちょうどセクルトとの国境にあるレブン砦の視察に行っており、舅と二人で朝餐をとっていた時に、テレサは吐き気を覚えて退室した。
待ち望んだ懐妊だった。
何よりもこの慶事を伝えたい夫は遠く離れた地にいたが、それを知った舅は珍しく顔を紅潮させ、「よくやった!」と心からテレサを労ってくれた。
あれほど嬉しそうな舅の顔を見たのは、思えばあれが最後だった。
その夜、病臥していたタルカス帝の病状が急変し、帰らぬ人となった。
テレサは高位貴族の一員としてすぐに皇宮に参じようとしたが、何故か護衛に止められた。
「アントーレの城塞から出られてはなりませぬ。これはアントーレ卿直々のご命令です」
何故自分がこの居城に留められるのか訳がわからなかった。
ただ強い不安を覚えた。
心に浮かんだのは、ここ最近目にするようになった舅の思いつめたような眼差しだった。
どこかほの暗い眼は焦慮と孤独を孕み、天意を得たような覚悟を宿しながら一方でひどく何かを恐れていた。
テレサは急ぎ、アントーレ騎士団の演習場が見える西の回廊へと足を運んだ。
遠目からも無数の篝火が焚かれており、尋常な事態ではないとすぐに知れる。
皇帝が亡くなられた日に騎士団が動くなどありえない。
列国が攻めて来たと知らせが入ったか、あるいは謀反が起こったか。
……ヨルム皇太子を弑するおつもりなのだ。
答えはすとんとテレサの胸に落ちてきた。
舅はずっとアントーレ騎士団出身の皇帝が立つ日を切望していた。五代続けてその栄誉から遠ざかり、続くヨルム皇太子はロフマン出身だ。
せめて皇太子の第一皇子をアントーレにと願ったが、皇太子はアントーレを嫌い、縁を繋ごうとする舅の思いすら無残に踏み躙った。
そしてもう一人、皇太子によって未来を不当に捻じ曲げられようとしている貴族がいる。
タルカス帝の懐刀となり、長年国に貢献してきた宰相ディレンメルだ。
現帝は自分亡き後もディレンメルが国を支える事を望んだが、皇太子はディレンメルの力を削ごうとするかのように、新たな人材を次々と登用するようになっていた。
ディレンメルはじわじわと追い詰められていたが、それ以上に厳しい立場にあったのがヨルム皇太子の実弟、パレシスだった。
いずれ帝位を継ぐ兄皇子から深く憎まれており、二人の緩衝役となる予定だったディレンメルは近い内に失脚する。
皇帝の代替わりと共に、パレシスは何某かの罪を着せられ、処分を賜るようになるだろう。
皇帝に疎んじられた兄弟が悲惨な末路を辿る事は長い皇国の歴史の中で珍しい事ではなく、テレサにはその行く末が容易に想像できた。
父帝が寝付くようになって以降、パレシス皇子は身を慎み、従順な姿勢を皇太子に見せているが、それだけで事がおさまるとは思えない。
皇子はディレンメル卿に助けを求めていた筈で、その卿は強大な軍事力を持つファルモン・アントーレ卿と無二の親友だった。
皇宮の喧騒は遠く離れたアントーレの城塞にまでは届かない。
テレサはただ待つだけだ。
失敗すれば、腹の子は父の顔を知らずに育つようになるだろうし、成功したとしても正当な皇位継承者を弑した罪は後世にまで語り継がれる事だろう。
夢の中を漂っているような日々が続き、テレサは悪阻に耐えながらも、腹の子のために必死に食べ物を食んでいた。
そして皇帝崩御から五日後、テレサはパレシス皇帝の即位を伝えられた。
同日、国境にいた夫が夜を日に継いでようやく皇都に戻ってきたようだが、テレサの待つ邸宅に戻って来る事はなかった。
パレシス帝が皇位簒奪を企み、宰相ディレンメルがその算段をつけて、アントーレ騎士団が手を下した。
その事実を宮廷中の誰もが知っている。
非難と嫌悪、軽侮の籠る眼差しが皇位簒奪者らに向けられていて、夫は事後の処理や騎士団の引き締めに追われているようだった。
ただ、夫のために一言言う事が許されるのであれば、夫は今回の事件に全く関わっていなかった。
舅は決起するその瞬間まで、翻意を自分の胸一つにおさめていた。用心深い男であり、そうした計画が進んでいた事を誰にも気取らせる事がなかった。
あの夜、皇帝崩御の報せを受けた舅はすぐさま動いた。
騎士団の幹部らはその時に初めて、自分達が正統な皇位継承者を手にかけようとする事を告げられたのだという。
舅にとってそれは大きな賭けであっただろう。
いくら腹心の部下とはいえ、普通ならば命令を聞いて怖気づく。罪の大きさに狼狽え、裏切る者が出てきてもおかしくなかった。
けれど舅は配下の心を揺らがせる事なく、前代未聞の簒奪劇へとアントーレを導いた。
大義の見えない殺戮でありながら、それこそが唯一アントーレが生き残る道だと配下に信じさせ、屍を踏み越えて未来を掴もうとする凶暴な熱情に周囲を巻き込み、それを力となした。
それだけの威風とカリスマ性を持つ、まさに出色の将だった。
あの簒奪劇からひと月が経った頃、ようやく夫はテレサの許に帰ってきた。
眼窩は落ち窪み、ひどい疲労が体中から透けて見えた。
「アントーレは悲願を果たし、私はその恩恵を受けている」
労りの言葉をかけたテレサに、ザハルはそう言葉を返した。
誰もがその事実を知っており、その事実から目を逸らす事はザハルには許されなかった。
ただ、苦しみから逃れようとするようにテレサの体をきつくかき抱いた。そして聞こえるか聞こえないかという声で囁いた。
「私は主筋を害しようなどとは夢にも思った事がなかった」
テレサの肩に顔を埋め、そのまま夫は声もなく咽び泣いた。
夫の泣き言を聞いたのは、それが最初で最後だった。
政変から三年後、舅の盟友であった宰相ディレンメルが病死した。
国をまとめ上げるために命を削るように政務に取り組み、その挙句の死だった。
ディレンメルは娘の産んだアレク皇子を立太子させようと願っていたが、簒奪劇に対する反発が未だそこかしこに燻っていて、願いは叶わなかった。
享年五十歳。
奇しくもタルカス帝が亡くなられた年齢と同じだった。
ともに罪を背負った無二の友を失い、舅はいよいよ自分の殻に閉じこもるようになった。
自分を押さえていた重石がなくなったとばかりに奇妙な明るさを見せ始めたパレシス帝とは対照的だった。
パレシス帝は元々、才気には溢れてはいるが、刹那を好む享楽的な性格だ。
政変前はまだ優れた資質が前面に押し出されていたが、兄殺しという血生臭い業を負い、余りにも強大な権力を一夜にして手にした事で、人としてのバランスを狂わせ始めていた。
他者からどう思われようと、もはやどうでも良くなったのかもしれない。
この先自分がどんな善政を敷いたとしても、私欲で実兄やその子らを殺し、皇位を簒奪したという悪名は生涯ついて回る。
ならば、己の欲望の赴くままに生きればいい。まるでそう自身に納得してしまったかのようだった。
それからは箍が外れたように女に狂った。最低限の政務にしか関わらず、諫言をしてきた者は容赦なく失脚させた。
特に皇家の血筋を引く者に対する処断は苛烈を極めた。
すでに前帝の血を引く男子は己のみとなっていたが、前々帝の子や孫は皇位継承権を持つため、強く警戒していたのだろう。
ある者は毒杯を賜り、ある者は貴人が収監されるゴアムの塔に送られた。
そしてパレシス帝に逆らおうとする者は皆無となった。
五十一の誕生日を迎える前日、舅は毒杯を飲んで自害した。
『罪を犯した自分が陛下以上に年を重ねる事は望まない。
このような仕儀となった事をあの世で陛下にお詫び申し上げる。
自分の死は病死と公表するように』
遺書にはそう書かかれ、夫は父の死を急な病と発表した。
煉獄の罪を負うのは自分だけでよいと舅は考えていた。
事実、あの簒奪劇で、尊い血筋を滅ぼしたのは舅自身だった。
ヨルム皇太子や弟君のフィアン皇子はまだしも、罪のない二人の幼子やその母を大義なく手にかける事は誇り高い騎士にとって耐えがたいものだ。
だからこそ、舅は自らその業を背負った。
タルカス帝が逝去されたのと同じ年齢で、ディレンメルとアントーレ卿が相次いで病死した事で、死んだヨルム皇太子の呪いではないかという噂が、一時宮廷を賑わわせた。
夫はその噂を流れるに任せた。
大事なのはこの先のアントーレであり、騎士団が支える皇国である。
誰に何を言われようと、自分はただ為すべき事を為せばいい。そう静かに覚悟を決めていた。
十二歳となったアレク皇子は、祖父ディレンメルの遺言通り、アントーレに入団した。
「こうなれば、アレク皇子を死ぬ気でまっとうな人間に育てあげる」
パレシス帝は為政に対する関心を失ったままで、今は踊り子上がりの寵妃にのめり込んでいる。
それでも最低限の政治の舵取りをし、国の基礎である円卓もきちんと機能しているため政治の綻びは出ていなかったが、国として喜ばしい状態にあるとは到底言えなかった。
夫は皇后の一子であるアレク皇子が皇位を継ぎ、皇帝として力強く主導する未来に希望を繋いだ。
ただし、夫が余りにやる気満々であったため、テレサはちょっと心配になった。
「さすがに殴るのだけは止めて下さいね」
皇位継承者に手を挙げるとは普通では考え難いが、生真面目な夫は暴走すると何をしでかすかわからない。
「せいぜい水をぶっかけて、反省房に放り込むくらいがよろしいのでは」
さて、テレサが嫁入りの時に連れてきた仔猫は天寿を全うしたが、たくさん子を産んだため、アントーレ家から飼い猫が途絶える事はなかった。
お陰でテレサの三人の子ども達は三人が三人とも重度の猫好きに育ってしまった。
環境によるものか血筋によるものか、母として悩むところである。
夫のザハルが必死で己の性癖を隠しているように、子ども達も自分の猫好きを死に物狂いで周囲に隠していた。
嫡男のアモンは親友というべき相手を三人見つけたが、未だその相手にも己の秘密を告げられずにいる。
まあ、友人だからと言ってすべてをさらけ出す必要はなく、こっそり楽しんでいればいいのではとテレサは思ったが、アモンは猫の可愛らしさについてどうしても友人と談義してみたくなったらしい。
ある日、テレサがバルコニーから庭園を眺めていたら、アモンが友人の一人、グルークを連れて庭園の方へ出てきた。
自分の性癖を伝えてみようと思ったらしく、その顔はやや緊張に強張っている。
「なあ、グルーク。お前、猫と犬のどっちが好き?」
何の前置きもなく、突然そんな事を聞かれたグルークは、当然ながら困惑したようだった。
「? 難しい質問だな。というか、考えた事もなかった」
そしてグルークは、「さすがアントーレだな。戦を想定してそこまで考えているのか」と唸るように言った。
「は? 戦?」
「申し訳ないが、私が食べた事があるのはカエルまでだ。
で、どうなんだ? 私はどっちも食べた事はないんだが、猫は美味いのか?」
え、カエルを食べた事があるの? とテレサは驚いたが、アモンは思ってもいない話の展開に目を剥いた。
「食い物の話じゃない!」
大好きな猫ちゃんを食料にされそうだと知ったアモンはもう涙目だ。
それを見たグルークはようやく自分の誤解に気が付いた。
「ああ。愛玩動物で、という意味か」
それから、どうだろうな……と腕を組んだ。
「犬は狩りの時に役に立つし、猫がいるとネズミを捕ってくれるので重宝する。
どっちもいいんじゃないか?」
猫の愛らしさを友人と共有したかったアモンは、グルークの返答に心が折れた。そして、友人には二度とこの手の質問はすまいと心に誓ったようだ。
以来、アモンはひっそりとこの秘密を守り通し、猫好きの妻を迎える事で秘かな孤独を解消させた。
お読み下さってありがとうございました。
前回、アモンの猫好きのお話を書いた時に、アモンの祖父もまさかの可愛いもの好き? という感想をいただいて、アモンの祖父はどんな人物なのだろうと考えるようになりました。短い外伝なのに、少しシリアスな内容となってしまいました。
最後になりましたが、活動報告への返信、感想、誤字報告など、ありがとうございました。