アモンの母の独り言 3
その翌々日、ザハル・アントーレがテレサの家を訪ねてきた。
アントーレ家の紋章が入った四頭立ての馬車から堂々と降り立つその姿は威風に満ち、まさに名家の御曹司そのものといった感じである。
顔立ちは粗削りで眼光は鋭く、アントーレ家特有の鷲鼻と薄い唇のせいで気難しそうな印象が拭えない。
ただ明るい日の光の下で見ると、健康的な若さが匂い立っていて、三十路というより二十七、八に見えると、テレサはどうでもいい事を考えた。
両親や兄を交えてしばらく歓談した後、テレサ嬢と二人で話をしたいとザハルが言ってきたため、ザッテンハイム卿は庭園が見渡せるコンサバトリーにザハルを案内した。
このガーデンルームは二面が全面ガラス張りになっていて、手入れの行き届いたザッテンハイム家自慢の庭園が一望できるようになっている。
人目も遮られないため、ここならば侍女を配さずに二人きりで話をする事ができた。
「ザハル様がわたくしを見初めたという話になっていて、戸惑っているのですが」
接客をしていた執事が下がった後、ようやく二人きりとなった室内で、テレサは開口一番、ザハルに問い掛けた。
「驚かせて済まない」
ザハルは小さく微笑み、どこから話したものか惑うように視線をさまよわせた。
「私の縁談が進んでいなかった理由について耳にした事は?」
「……アントーレ家には縁を結びたいお相手がいたとお聞きしました」
正直にそう答えると、「その通りだ」と、ザハルは軽く頷いた。
「アントーレは今、微妙な立ち位置にあり、私の結婚は政略のカードとして使われる予定だった。
だから好ましいなと思う女性がいても距離を置くよう気を付けて来たし、政略で迎えた相手を大事に遇する事こそがアントーレの嫡男たる私の務めだと思っていた。
けれど父の思うように事は運ばなかったようでね。
詳しい事は話せないが、ひどく屈辱的な縁組を相手側から持ち掛けられた」
つまり、アントーレ家が受け入れがたいような縁組を、皇太子妃側は突き付けてきたという事だろう。
それほどにヨルム皇太子はアントーレと縁を繋ぐのを嫌ったという事だ。
「父は面目を保つため、一族筋の中から私の妻を決めると告げてきた。
どの女性が候補に挙がっているかは知らなかったが、私が諾とすればすぐに縁談が調っただろう。
だから最後の我儘として、そのくらいなら好きな女性と結婚したいと父に申し出たんだ」
「え。好きな女性がいらしたのですか?」
テレサが驚いて顔を上げると、ザハルはがっくりと肩を落とし、「そんな他人事のように言われても……」と項垂れた。
「君を見初めたときちんと伝えたし、結婚の申し込みもした筈なんだが」
「あれって、本気だったのですか」
そうとしか、テレサには言い様がない。
ロマンティックな雰囲気は皆無だったし、そもそも当時、この男は自分よりも猫に夢中だった気がする。
「わたくし、ザハル様から好かれるような行動をとった覚えがないのですけれど」
テレサは正直にそう言った。
場を取り繕おうと色々話しかけた覚えはあるが、そこに女性としての可愛げがあったかと問われると、一切なかったとテレサには断言できる。
「それに犬好きだと答えた時、感性がおかしいと言われた気が……」
「それはそれ。これはこれだ」
テレサの反論をザハルはばっさりと切り捨てた。
「私のあんな姿を見ても、君は大げさに騒ぎ立てたり馬鹿にしたりしなかった。
私が気まずくならないようさりげなく話題を振ってくれて、そんな心遣いが嬉しかった。
私はアントーレ家の嫡男だから、その妻の座欲しさに近付いてくる女性は多いんだ。
甘ったるい声となまめかしい仕草で私の気を引き、大げさに私を誉めそやす。そういう女性が可愛いという同輩も多いようだが、私にはあざとさだけが鼻につく。
それにまあ、彼女らだって、先日君が見たような私の姿を見たら簡単に幻滅するだろう。
こんなガタイをして可愛いものが好きだなんて、笑いの種にされてもおかしくない。
でもあの時、君の眼差しに侮蔑はなかった。
だから私も自然体で話をする事ができたんだ」
「男の方が猫好きであってもわたくしは構わないと思いますわ」
テレサがそう答えると、ザハルはちょっと笑った。
「そうだな。でも私は知られる訳にはいかない」
ザハルは緩く面を伏せ、再び顔を上げた時には柔らかな笑みはかき消えていた。
「騎士団は実力社会だ。だが、アントーレの継嗣たる私は違う。
騎士団を卒業すれば団長補佐として幹部入りし、二年が過ぎれば正式に副官となる。
必要なのは配下を心酔させ、従わせる威風と力量だ。
この指揮官のためならば命を差し出せると、下の者に本気でそう思い込ませなければいけないんだ。
幸い、今は戦がないが、その時が来れば私は騎士団を率いて遠征に出るようになる。
どれほど不利な状況下であろうと、例えば、全力で抗っても死しかないという究極の局面下においても、配下の者を獰猛な血気に駆り立てて死地へと向かわせる事が私の役割となる。
だからこそ私は、軟弱な部分を他者に見せる訳にはいかない。
国を護るために強くあれと、ずっとそう言い聞かされて育ってきた。
弱音を吐く事は許されず、常に肩肘を張って、殊更強い自分を演じてきたんだが、気が付けば君の前でありのままの自分を見せていた。
……あの空間が気持ち良かった。
もう少し傍にいて欲しいと思い、あの時も君を引き留めようとしたんだが、あっさりと逃げられてかなりへこんだ」
あれは引き留めだったんだと知ってテレサは驚いた。てっきり口止めのために呼び止められたのだと思い込んでいた。
「……ご存じだと思いますが、我がザッテンハイム家とアントーレ家とでは家の格が違います。
その事についてご親族からの反対はなかったのでしょうか」
「元々父は一族筋の娘と結婚させる予定だった。
ちょうど君の父上も兄もアントーレ出身であったから、何も問題ないと言われた」
「そうですか」
そちらは納得したが、テレサにはもう一つ心にかかる事があった。
未だ癒えない傷で口に出すには勇気が要ったが、弱みを見せてくれた相手に対して、自分も誠実に答えを返すべきだとテレサは思った。
「……わたくし、面白みのない女だとある方から言われましたの。
庇護欲をかきたてるような可愛げもなく、男をそそるような魅力にも欠け、だから他に目移りするのだと」
使用人に手を出したくらいで大げさに騒ぎ立て、こんな堅苦しい性格ではまともな縁組など来ないだろうと相手の男から嘲笑われた。
夜会やサロンでもそうした悪評をばらまかれてしまい、世間一般では自分はすでに傷物となっている。
自分に疚しい事がないとわかっていてもそうして状況が辛くない訳はなく、それ以上に女性としての魅力がないと言われた事が、テレサにとって大きな傷となっていた。
我知らず俯いてしまっていたのだろう。
膝に置いた手を見つめるテレサに、静かな言葉が掛けられた。
「婚約が流れた経緯について話は聞いた。
だが、悪いのは不貞をした男の方だろう?」
「わたくしもそう思っておりますけれど……」
「昨日、知人のサロンに招かれたから、身持ちが悪い上に政略結婚の意味も解さぬ馬鹿な男がいるようだとうっかり失言をしておいた」
「は?」
「お喋り好きで有名な夫人がいたから、そのうちいろんなところで噂になるかもしれないな。まあ、自業自得だろう」
しれっとした顔でそう言い切られ、テレサは呆気にとられた。
清廉潔白そうな顔をして、やっている事が結構どぎつい。
「貴方って方は一体何をやっていらっしゃるのです?」
思わずそう窘めると、ザハルはあっさりと肩を竦めた。
「まあ、不貞をして君に見捨てられた事は褒めてやっていい。本当にいい事をしてくれた。
そうじゃないと、そもそも私との出会い自体がなかったからな」
あっけらかんと言い放たれ、テレサは今度こそ噴き出した。
確かにあの婚約がなかったら、自分は庭園にさまよい出る事はなかった。
そういう意味では、あの元婚約者にほんの少しだけ感謝をしてもいいのかもしれない。
その後も庭園を眺めながら二人でいろいろ話をしたが、ザハルとの会話は思っていた以上に楽しいものだった。
四角四面で冗談も解さない男性かと思っていたが、そうでもない。
時間を忘れて話に興じ、そろそろお暇しようとザハルが席を立つ頃には互いにすっかり打ち解け、いずれ婚約するという流れが二人の間で自然に決まっていた。
アントーレ家の御曹司が夜会で令嬢を見初めたというニュースは瞬く間に宮廷を駆け抜けた。
格下の令嬢が御曹司に見初められて玉の輿に乗るという、まさに物語を地で行くような顛末に若い令嬢達は夢中になり、御曹司の心を射止めたテレサはすっかり時の人だ。
一本芯の通ったテレサの性格とその落ち着いた立ち居振る舞いも、周囲からは好意的に見られた。
異性の前でわざと無知なふりをして甘え、か弱さを前面に押し出して男性に阿るようなタイプの令嬢であれば、女性の反感を少なからず買った筈だが、テレサにはそういった媚びがない。
騎士団をまとめるアントーレ家の嫁として遜色がないと思われたようだ。
そして二人の恋物語が囃されれば囃されるほど、アントーレ家が皇太子妃の縁戚と縁組を結びたがっていたという噂話は影を薄くした。
結果的にアントーレ家は面目を保ち、出会いからひと月後には両家の婚約が調い、その半年後にテレサは輿入れした。
余談ではあるが、結婚に当たってザハルは一つの条件をテレサに出してきた。
嫁入り支度の中に仔猫も加えて欲しいというものだ。
テレサは伯母に頼んで例のデジーを譲り受け、その仔猫を連れてザハルの許に嫁入りした。
次回は少し暗いお話になります。