アモンの母の独り言 2
その数日後、ザッテンハイム家に激震が走った。
思いがけない格上の貴族から、結婚の申し込みがもたらされたからである。
「お、おま、お前に縁談が……!」
慌てふためいた父と兄が館を揺るがす勢いで部屋に駆け込んできて、部屋で大人しく刺繍をしていたテレサは危うく刺繍針で指を突きそうになった。
入室前にまずはノックくらいすべきではと口を開きかけたテレサだが、振り向いた先にいた父の佇まいに、というよりその髪型に度肝を抜かれて顔を引き攣らせた。
いつもは薄くなった頭頂部を横の毛で丁寧にごまかしているのに、勢いよく走ってきたせいで人とも思えぬ髪型になっている。
テレサが言葉を失っていると、それに気付いた兄のディーンがなんだ? という顔で隣の父に目をやり、ぎょっと目を剥いた。
慌てて父親に耳打ちし、父がそそくさと慣れた手つきで髪を整える。
そして何事もなかったようにテレサに向き直った。
「……」
「…………」
何だか微妙な間が開いてしまったが、それはともかくとして、気になるのは先程の父の発言である。
お前に縁談が……と父は口走っていたが、これほど慌てるという事は余程断りづらい相手から縁談が来てしまったという事だろう。
今の自分の価値を、テレサは痛いほどに知っていた。
あんな形で悪評を広げられたテレサはいわゆる事故物件で、良縁などとても望めない。
どうやら自分が受け入れ難いような縁談が来てしまったのだとテレサは腹を括った。
「わたくしへの縁談が来たとか。
それでお相手はどのようなお方なのですか? 何か事情のあるお方? それとも跡継ぎのいる方の後妻に望まれたのでしょうか?」
貴族の娘として覚悟はできていますと真っ直ぐに父を見上げれば、父はびっくりしたように目をしばたたき、「そうじゃない」と慌てて首を振った。
「お相手は何と、アントーレ家の御曹司だ。
何と先日の夜会でお前を見初めたらしく、是非妻にと使者を立てて来られた」
「……っ!?」
一体何の冗談だろう。
最初テレサが心に思いついたのはそんな言葉だった。
「……アントーレ家の御曹司と言えば、ザハル様で間違いはございませんよね」
「そうだ。次期騎士団長のザハル様だ。御年、二十五になられる」
あら、二十五だったのねと、テレサは驚いた。
微笑ましい行動の割に老け顔で貫禄があったから、てっきり三十路だと思い込んでいた。
それはともかくとして、
「わたくしを見初めた、ですか……」
真実とは随分違う事を言われて、テレサは戸惑っていた。
見初めたではなく、隠れた性癖を見られたが、この場合の正解である。
ザハル様にとって不本意な出会いがあった事は事実だが、自分はあの秘密を誰にも話す気はないし、あの事を弱みだとあの方が思っておられるなら、訂正して差し上げた方がいいだろう。
自分などを娶らずともアントーレ家の御曹司なら縁談など選び放題だ。
こういう形で人生の伴侶を決めるのは間違っていると思ったテレサは、落ち着いた声で父に答えた。
「どうやら、誤解が生じている気が致します。一度直にお会いしてお話した方がいいかも知れません」
「だよなあ」
父の横から能天気に声を割り込ませたのは兄のディーンだった。
「大体テレサは一目ぼれされるようなタイプじゃないし。
いや、顔が不細工だとかそういう意味じゃないぞ。顔は細面で目鼻立ちのバランスはいいし、よく見ればお前はなかなかの美人だ」
「……それはどうも」
「ただ何と言うかしっかりし過ぎているんだよなあ。守ってやりたいと思わせるような可憐さに欠けると言うか、女性特有の華やぎがないと言うか。
大体、普通の女性なら、見初められたと聞いて頬くらい染めるだろ? 何か誤解が生じているようだと冷静に言葉を返すなんてあり得ない」
「そこがテレサのいいところだろうが」
父がディーンを窘めるように言葉を挟む。
「肝は据わっているし、少々の困難は笑い飛ばせる度量を持つ。貴族の妻としては申し分ないぞ」
「私もそう思いますけどね。
ただ、初対面でそれがわかる男は少ないでしょう。
テレサを深く知れば、誠実で優しいところが見えてくると思いますが、男は見た目でころっと騙されますから」
男とは下半身で物を考える生き物だと兄に言い諭された事を思い出し、更にそれを証明してくれたかつての婚約者を思い出したテレサはちょっと嫌そうに顔を顰めた。
「話は変わりますけれど、ザハル様は一体どういうお方なのです?
お兄様はアントーレ出身ですから、何かご存じなのではありませんか?」
「いや、大した事は知らないぞ? 私がアントーレに入団した時はすでに幹部の地位に就いておられたからな。
ただ、あの方に憧れている騎士は多かった。上背があって鍛え上げられた体を持ち、あの方が場に姿を現すだけでピリリと空気が引き締まる。
騎士としての努力も惜しまず、剣技も強弓も馬術も人より抜きん出ておられた。
まさにアントーレの名を継ぐにふさわしい方で、男の中の男と言ってもいいだろう」
「男の中の男……」
そんな風に偶像化されたら、可愛いものが好きなどという性癖は死んでも知られたくないだろうなと、テレサはちょっぴりザハルに同情した。
「そう言えば、お兄様は何故アントーレを選ばれましたの? 何か理由があったのですか?」
アンシェーゼには皇家公認の騎士団が三つあるが、今一番人気なのは現皇帝陛下の出身騎士団であるレイアトーである。
で、二番人気がヨルム皇太子が卒業されたロフマン騎士団だ。
アントーレは、かつてタルカス帝と帝位を争った兄皇子を擁立しており、タルカス帝が皇太子となった時に当時の騎士団長は更迭された。
代わりに団を継いだのが前団長の従兄弟で、それがザハルの祖父である。
そうした経緯もあって、アントーレはここ五代続けて皇帝を輩出していなかった。
いずれヨルム皇太子が帝位を継げば六代続けて栄誉から遠ざかる事になり、それもあって三つの騎士団の中で一番勢いがなかった。
「選んだ理由? 別にないぞ。父上がアントーレ出身だから、同じところにしようと思っただけだ」
「それだけですか? 余りに安易な気がしますけれど」
「えー……? 別にいいだろ? 父上だって同じような決め方をしているし」
「そうなのですか?」
テレサがびっくりして父の方を見ると、父はごほんと咳払いした。
「仲がいい従兄弟がアントーレに行くと言ったから一緒に行く事にした。
アントーレは行け行けムードの団だったから楽しかったぞ」
まさにこの父にしてこの息子ありと、テレサは小さく溜め息をついた。
「それにしてもまさか我が家に縁談の話が来るとは思わなかったな」と父がふと首を捻った。
「家格が違うと言うのが一番だが、アントーレ家は皇太子妃の縁戚と縁を繋ぎたがっていると噂に聞いていた。
うちに話が来たという事は、そっちの話が完全に潰れたという事なんだろう」
「皇太子妃殿下の縁戚と、ですか?」
意味がわからずテレサが眉宇を寄せると、
「ああ。ヨルム皇太子はアントーレに対して余りいい感情を持っておられないようなんだ。
陛下は三大騎士団のバランスを考え、皇太子の第一皇子をアントーレに入れてはどうかと言われているのだが、皇太子殿下は答えを保留にされている。
だからアントーレ卿は、皇太子殿下との仲を取り持ってもらうために妃殿下の周囲と接触していた筈なんだが」
「……皇太子殿下は何故アントーレを嫌っておられるのでしょうか」
「いろいろ理由はあるのだろうが、一番の理由は弟君が所属していた団だからだろうな」
そういえば、皇太子殿下とその弟君、パレシス殿下の不和は有名だったとテレサは思い出した。
元々一つ違いの兄弟であれば、皇太子とパレシス皇子は何かにつけて比較される事が多かった。
ずんぐりとした体形でおっとりと育てられた皇太子に対し、弟皇子の方は見目にも優れ、才気煥発で要領もいい。
ただし、両者の間には歴然とした立場の違いがあったため、それが争い事にと発展していく事はなかった。
ヨルム皇子は皇太子としての実績を地道に積み上げていき、第二皇子の方は美しい花との戯れに日々を費やし、そうして何事もなく時が過ぎてゆく筈だった。
だがある時、パレシス皇子が遊びで声を掛けた女性の中に、皇太子意中の令嬢がいた。
その令嬢のデビュタントで皇太子が秘かに見初め、何度か皇宮にも招き、水面下で婚約話も進んでいたのだが、第二皇子がちょっかいを出した事で結果的にその話は流れてしまった。
令嬢が第二皇子にのぼせ上ってしまったからだ。
恥をかかされた皇太子は激怒し、それを知ったパレシスはすぐに令嬢から手を引いた。
パレシスとしてはちょっとした恋の駆け引きを楽しんでいただけで、そこに愛情は全くない。
本気になられても迷惑だし、責任をとる気も一切なかった。
自分が大切にしていた女性を横から掠め取った上、あっさりと捨て去った事で、皇太子は弟を嫌悪するようになった。
以来、二人の不仲が公然と囁かれるようになり、父のタルカス帝もこれには大いに弱ったと聞いている。
「皇太子が余りにパレシス殿下を厭うため、先々を案じられた皇帝が、宰相ディレンメルの娘との縁談を用意しましたよね。
ディレンメルはここ十年にわたってタルカス帝の治世を支えた重鎮で、他の廷臣らの信頼も厚い。
うまく両者の仲を取り持ってくれるのではと期待されていたのですが」
ディーンの言葉に、父は小さく溜め息をついた。
「皇帝の意を受けてディレンメル卿はいろいろ動いたようだが、皇太子殿下はいよいよ頑なになってしまわれたようだ。
以前はディレンメル卿を信頼しておられたのに、今はどこかよそよそしい。
このままでは、万が一、皇帝の代替わりでも起こった時、ディレンメル卿は今の地位を干されかねない」
「まさか」
ディーンは眉間に深い皺を寄せた。
「タルカス帝の治世が盤石になったのはディレンメル卿の功績が大きいと言われています。
その忠臣を政権の中枢から弾こうなど、とても考えられません」
「私の考えすぎかもしれぬ」
父は小さく首を振った。
「ディレンメル卿は今のアンシェーゼにはなくてはならない御仁だ。皇太子殿下もそれはわかっておられるだろう」
二人の話に耳を傾けながら、政権の中枢におられる方はいろいろ大変だこと……とテレサは心に呟いた。
傍から見るとただの兄弟喧嘩だが、そこに権力やら利権やらが絡むと複雑な問題に変わっていくようだ。
それよりも自分の縁談だとテレサは思った。
この話は余りに不釣り合いな縁談であるのでお断りするようになるだろうが、その前に一度あの方と話をしてみよう。
何故自分に縁談を申し込もうとしたのかその理由を聞いてみたかったし、何よりもテレサ自身がもう一度会いたいと望んでいた。
死んでも言わぬと生真面目に言い切ったザハルの言葉が、今もテレサの耳に新しい。
絆を育んでいたと思っていた相手から手ひどい裏切りを受け、もう二度と男など信じられないと思っていたけれど、真っ直ぐに返されたあの言葉だけは何故か信じられた。
それにしても、あんな大きな図体と厳つい顔をして可愛いものが大好きだなんて……。
ものすごく動転しながら、それでも仔猫を離そうとしなかった大男の姿が思い出され、テレサの胸にいくつもの小さな笑いが七色の泡のように弾けて消えた。
あれほど家格の良い家の方でなかったら良かったのに……とテレサはやや寂し気に微笑んだ。
あの方の妻となれる女性は幸せだ。
武骨だが誠実な愛情に包まれて、きっと穏やかな幸せを享受できるに違いない。