アモンの母の独り言 1
前回の外伝、「お嫁さん探し」に登場したアモンの母視点の物語です。
最後は少しシリアスな展開になります。全四話です。
ザッテンハイム家のテレサは先月十七になった。
貴族の娘としては婚約者くらいいておかしくない年頃だが、今のところいない。
と言うか、実はつい先日まで婚約していたのだが、突然それがなくなった。
理由は相手の不貞である。
使用人に手を付けたくらいで騒ぎ立てるのはおかしいと相手方は言ってきたが、ザッテンハイム家にはそれが受け入れ難かった。
婚約を続ける続けないで三か月近く揉め、最終的に双方の顔を立てる形で婚約の話自体がなかった事にされた。
とはいえ、一回発表された婚約話を周囲がそうそう都合よく忘れてくれる筈もない。
久しぶりに夜会に出席したテレサはあからさまな好奇の視線に晒される事となり、兄や親族とのダンスが終わるや早々に会場から退散する事にした。
さて、月明かりに満ちた夜の庭園は幻想的ではあるが、危険も伴う。
酔った輩が不埒な真似をしてこないとも限らず、普通ならば迂闊にさまよい出る事はしないのだが、この会場は勝手知ったる伯母の館だった。
警備は厳重だし、よもや夜会の主催者の姪に手を出そうとするような愚か者はいないだろう。
ということで、テレサは淑女らしくない大股でずんずんと奥に足を進めていたのだが、しばらく歩いたところで、こんもりとした茂みの向こう側で何やら人の声がする事に気が付いた。
こんなところで何をしているの? まさか人に言えないような行為を……?
そこは灰白色の幹をしたアオダモの木が植えられているところで、満開になると白い花がけぶるように咲き乱れる。
毎年咲く訳ではなく、五、六年に一度しか見られないのだが、その分、咲いた時の喜びはひとしおで、テレサはこの場所を大層大切に思っていた。
普通の精神状態なら素知らぬふりで踵を返しただろうが、生憎この時、テレサは機嫌が悪かった。
自分のお気に入りの場所を汚された気がしたテレサは方向を変えずに足を進め、茂みを通り過ぎたところで、うっと立ち止まった。
そこにいたのは月明かりの下で仲良く語り合う男女などではなく、鷲鼻をした強面のマッチョが小さな仔猫を腕に抱いて一生懸命話しかけているところであったからだ。
「え」
面妖な光景にテレサは思わず凍り付いたが、見られた男の顔こそ見ものだった。
尻から魂が抜け出たような顔で固まっていたが、やがてその厳つい顔が音を立てて青ざめていき、今度は羞恥にみるみる赤く染まっていった。
と、男の腕の中にいた仔猫がなおんと愛らしく鳴いてきて、テレサは「あら」と目を細める。
三か月ほど前に生まれた伯母の飼い猫だ。
生まれて間もない頃は片手に乗るほどに小さく、弱々しかったが、母猫と使用人がせっせと世話を焼いてやったせいで、随分としっかりしてきた。
この子は確か五人(匹?)兄弟の一番やんちゃな仔猫で、好奇心も旺盛である。
夜会の慌ただしさで使用人の目が離れた隙に、こっそり外に出てしまったに違いなかった。
「こ、これはその……」
仔猫を抱いていた男が蚊の鳴くような声で話しかけてきて、そう言えばこの場には仔猫だけでなく人間もいたと、テレサはようやく男の存在を思い出した。
それが、後にテレサの夫となる、ザハルとの出会いだった。
その後、遅ればせながら二人は互いに自己紹介したが、名乗られずともテレサはザハルの事を知っていた。
というか、皇宮に出入りする貴族で彼の事を知らない令嬢はいないだろう。
その存続が法令にも明記された三大騎士団の一つ、アントーレの名を冠する男性だ。
父のファルモン・アントーレ卿は円卓会議に名を連ねており、切れ者と言われる宰相ディレンメルとも大層仲が良かった。
聞くところによると、二人は準騎士時代の同期であるらしい。
その長子であるザハルは、アントーレの次期騎士団長にふさわしい貫禄と実力を兼ね備えた人間だった。
他の貴族令息よりも頭半分背が高く、がっしりとした鍛え上げられた筋肉質の体躯をしている。
軽薄で浮ついたところは一切なく、言葉の一つ一つにも重みがあった。
社交に長けた男性ではないが、男らしい外見とその家柄の高さから、令嬢達からはくさるようにモテていた。
万が一目に留まれば玉の輿だと従姉妹達が騒いでいたので、テレサもよく憶えている。
確かにテレサの目から見ても、このザハル・アントーレは好物件だった。
やや口下手なようだが、ぺらぺらと言葉が上滑りするような男性よりは余程いい。
浮いた噂もなく、禁欲的に武に励む剛毅の士だと兄から聞いていた気がするが、これは一体どうした事だろう。
何と言葉を続けてよいかわからずにテレサは押し黙ったが、それはザハルも同じであるようだった。
自己紹介したきり何も喋ろうとせず、場をごまかすようにひたすら猫を愛でている。
喉を撫でられて子猫は気持ち良さそうに目を細めているが、こんな状況になっても猫を離そうとしない男性に、ある意味テレサは感心した。
早々に場を離れるべきだが、逃げるようにこの場を去っては相手も気まずいだろう。
なので、二言三言会話を交わしておく事にした。
「えっと、猫がお好きなんですか?」
そう尋ねたところ、男性はいよいよ項垂れてしまい、テレサは質問を間違えたと唇を噛んだ。
そうではなく、相手が相槌を打ちやすいよう話を誘導した方がいいだろう。
「その子、デジーって言うんです。柔らかなレッドタビーでかわいいですよね」
「……レッドタビー?」
ようやく男が喋ってくれて、テレサはほっとした。
「赤みがかったシマ柄の事ですわ。
茶トラと言った方がわかりやすいかもしれません」
テレサは基本、犬好きだが、伯母が大の猫好きのため多少の知識は持っている。
「猫によって毛色や柄は微妙に違うのですけど、この子は色味が薄くて手足の先も白いんです。
だから他の兄弟達といても、見分けがつきやすいですわ」
「兄弟がいるのか。
随分詳しいようだが、この家とは……」
そう言いかけて、ザハルはあっと小さく呟いた。
「ザッテンハイム家……。ではこちらのビフィズ卿の姪に当たられるのだな」
「はい。わたくしの母の姉がビフィズ夫人ですわ」
そう答えながら、ザッテンハイム家はそれほど家格が高くないのによくご存じだこと……とテレサは秘かに驚いた。
「母は姉妹仲が良くて、わたくしはこちらによく遊びに来ておりましたの。
ですからこのデジーの事も、まだ目が開かない頃から知っておりますわ。掌に乗るほど小さくて、ふわふわした毛玉のようでした」
「ふわふわした毛玉……。ああ、さぞ可愛かっただろうな」
ザハルは身悶えせんばかりにそう声を漏らし、それからマズイと思い直したか、取り繕うように咳払いした。
「……先ほどの質問だが、猫が好きだと思った事はない。
ただ昔、母が小さなものや弱いものは守ってやるようにと言っていたから、ちょっとばかり相手をしてやっていただけだ」
相手をしてやっていただけにしては、さっきものすごく熱心に話しかけていたけど……とテレサは思った。
重度の猫好きだと自分で気付いていないのかしらと首を傾げたところで、テレサはふと、ザハルの母君であるアントーレ夫人が随分前に亡くなっている事を思い出した。
母親を失った年齢は定かではないが、おそらく準騎士となる前の年齢だろう。
母が恋しくなかった筈はなく、大人になった今も母の教えが忘れられないのかもしれないとテレサは柔らかな吐息をついた。
「あの、ザハル様、この子は五人兄弟ですの。
伯母は引き取り手を探しておりましたし、よろしければザハル様に譲っていただけるよう、話をしてみましょうか」
思いもつかぬ提案にザハルは驚いたように顔を上げた。
「私に?」
「ええ。伯母は一匹だけ手元に残しておきたいと話していましたから、多分大丈夫ですわ。
この子は一番元気が良くて、人懐こい子ですの。
他の子も見てみたいとお思いでしたら、そのように伯母に話を通しておきますけれど」
ザハルは嬉しそうに厳つい顔を綻ばせたが、急に何かを思い出したように、いや……と首を振った。
「お言葉はありがたいが、それはできん。
アントーレの次期当主たる者が仔猫を愛でるなど、父上はお許しにならないだろう。
それにこんな事を知られたら、部下達に示しがつかん」
「……それもそうですわね」
兄から聞いていたザハル・アントーレの噂を思い出し、テレサは大きく頷いた。
仔猫にデレる次期騎士団長の姿なんて、確かに誰も見たくないかもしれない。
「おっしゃる通り、仔猫を飼うのは諦めた方がよろしいかと思います」
あっさりとそう続ければ、ザハルは幾分恨めし気にテレサを見つめた。
「そんなに物分かりよく言わなくても……」
「人間は諦めが肝心ですわ」
望んでもそれが手に入らないというのは往々にある事だ。
テレサだってごく普通の結婚を夢見ていたが、思わぬ方向に話が流れてしまった。
本当ならさ来月には結婚していた筈なのにと思うと、もう溜め息しか出ない。
「……テレサ殿も猫を飼っておられるのか?」
唐突にそんな事を聞かれ、「いいえ」とテレサは首を振った。
「わたくしは猫より犬が好きですの。猫を飼いたいと思った事はありませんわね」
「猫より犬だと? 感性がおかしいのか?」
失礼な男である。
いや、高貴な男性であると頭でわかっているのだが、猫にデレる姿を見ているため、いまいち尊敬の念が湧きおこらなかった。
「あら、気まぐれな猫と違って犬は忠実でしてよ。
母方の従兄弟が犬を飼っているのですが、従兄弟を見つけるとその子は尻尾を千切れるほどに振って飛びついていくんです。
その姿がもう可愛らしくて……」
「失礼だが、婚約者は?」
今は犬の話をしていた筈だが、それが自分の婚約とどう関係するというのだろうと、テレサは眉間に皺を寄せた。
まさかこの男、犬好きだと嫁の貰い手がないと言いたいのだろうか。
「おりません」
仕方なくテレサはそう答えた。
「誰もが知っている話ですから申し上げますけれど、婚約していた時期はありましたけれど、今はその話自体がなくなりましたの」
「そうか」
その声音にどこか満足そうな響きを読み取ったテレサは、幾分むっとしてザハルを見た。
「わたくしに婚約者がいない事がそんなに面白いですか?」
「いや、そんな事は……」
「ご心配なされなくても、そのうち父が見つけてきますわ。
いい縁談はもう残っていないような気はしますけど、それは仕方ありません」
双方の名を傷つけぬよう、婚約の話自体をなかった事にした筈なのに、その経緯を聞かれた相手方は、テレサが使用人と遊ぶ事も許さぬ狭量な女だとさりげなく触れ回っていた。
ザッテンハイム家の方から断りを入れてきた事が、余程癇に障ったらしい。
そんな事に一々目くじらを立てるようではいい縁も遠のきますわよと、義母になる予定だった女性から捨て台詞を吐かれ、気が付けば、婚約者の女遊びを許容しなかった自分の方が社交場で悪く言われている。
だが、テレサにとっては、『そんな事』と簡単には割り切れなかった。
元婚約者は孕んだ使用人の女を館の離れに住まわせ、ついひと月前に子も生まれていた。
遊び半分で手を付けた挙句、妊娠した使用人を放逐する男よりましなのかもしれないが、テレサだって結婚前から愛人と子がいるような男性にわざわざ嫁ぎたいとは思わない。
そんな男と縁が切れて幸運だと自分を慰めてみたが、今日の夜会会場での周囲の反応を思うと、もはやいい縁は自分には望めないのだとテレサにはわかってしまった。
せっかく気分転換に庭に出て来たのに嫌な事を思い出してしまったわとテレサは小さく溜め息をつき、音楽が聞こえる会場の方にちらりと目をやった。
「ではわたくしはこの辺りで失礼いたしますわ。
貴方様はどうぞごゆっくり」
軽く一礼をして立ち去ろうとすると、「待ってくれ」とザハルが慌ててテレサを引き留めてきた。
「あの、何か?」
「あー……いや、別に用があるという訳ではなく……」
目を泳がせるザハルを見て、テレサはピンときた。
おそらくこのザハルは、今回ここで見た事を誰にも言わないで欲しいと思っているのではないだろうか。
「ご安心下さいませ」
言いにくい事をわざわざ言葉にさせるのは気の毒だったので、テレサは柔らかく微笑んだ。
「この場で見た事は誰にも申しませんわ」
そしてこれ以上、相手が気を揉む事がないよう、自分の弱みも見せておいた。
「ですからザハル様も、夜会会場に居づらくなったわたくしが庭園にさまよい出ていたなどとは、どなたにもおっしゃらないで下さいませね」
思いがけない言葉であったのか、ザハルは大きく目を見開き、すぐに真剣な顔で大きく頷いた。
「わかった。死んでも言わぬ」
ザハルはおそらく本気で言っているのだろう。
その生真面目さが微笑ましく、それ以上に好ましかった。
この方ならばきっとそうだろうとテレサは心に呟く。
誠実さと覚悟のようなものが言葉に透けて見えた。
「ありがとうございます。では」
最後に美しいカーテシーを披露して、テレサは静かに背を向けた。
清涼な風がテレサの頬を柔らかくくすぐる。
夜会会場へと戻りながら、テレサは我知らず楽し気な笑みを口元に浮かべていた。
お読み下さってありがとうございます。また、先日はレビューを頂き、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。