護衛騎士の呟き 10
その日サイスは久々の休暇で、皇都ミダスの中心街をぶらぶらと散策していた。
アントーレ騎士団御用達の老舗が北通りにあり、そこでいくつか買い物をしようと思っていたからだ。
が、いざ店に入ろうとした時、後ろから誰かに名を呼ばれた。
最初、サイスは相手にしなかった。
こんなところで呼び止めてくるような女に心当たりはなかったし、人違いだろうと思ったからだ。
だがもう一度強く名を呼ばれ、何気なく後ろを振り返ったサイスは、その視線の先にいた人物を認めて仰天した。
「妃殿……」
思わずそうお呼びしそうになり、サイスはすんでのところで口を引き結んだ。
サイスは足早に駆け寄り、舗道の中央におられたヴィア妃を街路樹の下に誘導した。こんな人の行き交うところでは御身の安全が確保できないと咄嗟に思ったからだ。
「よくご無事で……」
もう一度お会いできるなんて、まるで夢でも見ているような気分である。
気持ちを落ち着かせるように一つ大きく息をつき、改めて身なりに目を落とすと、ヴィア妃は下町の女達が着るような質素な麻のドレスに身を包んでおられ、零落されたお姿にサイスは思わず眉根を寄せた。
とはいえ、ヴィア妃自身はそんな事は全く気にしておられないらしい。
元気に暮らしているし、ちゃんと毎日を楽しんでいると前置きされた上で、すぐに本題に入られた。
「どうかアモン様にお伝えして。陛下が馬ごと濁流に吞まれる夢を見たの」
明かされた不吉な夢にサイスは息を呑んだ。
陛下は近々ビゼ河を視察する予定でおられ、それが現実に起こりうる危険だとサイスにはすぐにわかったからだ。
「詳しい内容を教えて下さい」
顔を険しくしたサイスの言葉に、ヴィア妃は覚えている限りの情報を必死に伝えてくれた。
夢から覚めた後、内容をすぐに紙に書きとめられたらしく、語られる口調に淀みはない。
そして最後に、泣きそうな顔でサイスに頼んできた。
「絶対に行かないでと陛下にお伝えして」
必死に言い募るその姿を見れば、ヴィア妃が未だに陛下を思っていらっしゃる事は色恋に疎いサイスにもわかる。
だから自分と一緒に皇宮に戻り、直接陛下に説明申し上げるよう勧めてみた。
けれどヴィア妃は首を縦には振られなかった。
会えば想いを抑えられなくなるとわかっておられたのだろう。頑なに会う事を拒絶され、再び陛下の人生から姿を消そうとされていた。
「もう行くわ」
眼差しは陛下への想いを映し出しているのに、ヴィア妃はぶれる事なくそう言い切られる。
そのまま踵を返そうとするのを見て、サイスは焦った。
今度こそ、もう二度とお会いする事はないだろう。
そしてこの先、どれほど経済的に追い詰められたとしても、この方は決して陛下や弟君を頼られる事はない。
だからこそ幾ばくかの金子をお渡ししたいと、咄嗟にそう思った。
けれど胸の隠しに手を入れたところで、サイスはその愚かしさに気が付いた。
自分が行おうとしている事は施しだ。そのような事をされて、一体誰が喜ぶというのだろう。
何をすべきかと自分の胸に問い、答えはすぐに定まった。
騎士として最後の忠節をこの方に捧げる。
一切の躊躇いはなかった。
「これを」
ヴィア妃の手に握らせたのは、エベック家の徽章だった。
爵位を継げないサイスにとっては最後の命綱とも言うべきもので、これがなければサイスの長子やその子どもはエベック家の子孫であるという事を証しできない。
貴族にとっては命にも等しいそれを、サイスは躊躇なくヴィア妃に差し出した。
ヴィア妃はそれを見て顔色を変えられた。
「こんな大事な物、もらえないわ」
思わず返そうとするヴィア妃の手を、サイスはそっと押し返した。
「何か本当に困った時は、この徽章を使って下さい。私には、アントーレ騎士団の徽章もありますから」
アントーレ三大騎士団に所属している限り、自分は食い詰める事はない。命を救っていただいた身には、それだけで十分だった。
そしてサイスは、今は平民となったヴィア妃の手を取り、恭しくその手に口づけた。
こうして騎士としての忠節をこの方に示せるのはこれが最後となるだろう。
「貴方にお会いしていなければ、とっくになくしていた命です」
微笑んでそう言葉を続ければ、ヴィア妃は僅かに目を見開いた。
サイスが夢見の事を知ったのだとどうやら気付かれたようだ。
「お仕えできて本当に嬉しかったのです。
妃殿下も私と過ごした時間を少しでも大切に思って下さるなら、私に繋がるものをどうぞ受け取っていただけませんか」
これほどの敬慕を誰かに覚える事は、この先二度とないだろう。
勿論サイスはアントーレの騎士であり、この命は皇帝陛下のために捧げられるべきものだ。
これからも誇りと覚悟を持って国に忠義を尽くしていく。
けれどそれとは別の意味で、サイスは心からヴィア妃をお慕いしていた。
不遇においても誰かを羨んだり恨んだりする事なく、苦しみを胸の奥に沈めて穏やかに笑むその毅さをサイスは渇仰し、敬愛した。
渡された徽章をヴィア妃はじっと見つめ、それから大事そうにそっとそれを握り込んだ。
徽章の持つ重みと捧げられた忠節をしっかりと受け取め、ヴィア妃は最後に柔らかく微笑まれた。
「ありがとう。エベックも体を大事にして」
雑踏の中に消えていくヴィア妃をサイスは黙って見送った。
二度と後ろを振り向く事のないその姿はいかにも妃殿下らしく、泣き出したいくらい苦しいのに、思わず笑みが零れてしまう。
サイスは目元に滲む涙を拳でぐいと拭い取り、気持ちを切り替えるように大きく息をついた。
こんなところで呆けている暇はない。言付かった情報を、自分は一刻も早く陛下にお伝えしなければならないのだ。
一歩を踏み出した時、足元の石畳にぽつりと黒い染みができた。慌てて空を仰ぐと、先ほどまで差していた日が翳り、薄い雲が空全体を覆い始めていた。
西の方を見上げると、重たげな灰色の雲がいよいよ厚みを増し始めている。
今年は雨が多い気がする。
そう呟いた同僚の言葉が改めて耳に蘇った。
サイスからの報告を聞いた陛下は、民の避難に向けてすぐに手を打ち始めた。
場所を特定し、被害が甚大になりそうな下流の民達に危険を周知し、行き場のない民達の受け入れ場所を設置する。
その間にも雨は断続的に続き、増えていく水流に不安を覚え始めた民達が持てるだけの荷を背負って避難先に身を寄せた三日後、凄まじい土砂災害が発生した。
岩や大木を呑み込んだ土石流が地響きを立てて押し寄せ、十近くあった村落はあっという間に土砂に押し流される。
家や畑があった場所はすべて茶色い泥に覆われ、人の背丈ほどもある岩や根っこをつけたままの木が泥水を残す村に残された。
おそらく数十年に一度と言われる大規模災害で、数百人単位の死者が出てもおかしくなかったが、今回に限っては人的被害はほとんど出なかった。
適切な勧告が民の避難へと繋がったからだ。
とはいえ、家や働き場所を失った民達のために生活再建に向けた支援は必要だった。
国の中枢部は救済に向けて忙しく動き始め、一方で命を助けられた者達や噂を伝え聞いた多くの民達は口々に皇帝の功績を称え崇めた。
それは一つの潮目だった。
元々民の人気が高い皇帝であったが、今回の件でその信望はうなぎのぼりとなり、民の崇敬を追い風にして皇帝は宮廷内での存在感を一気に強めていったのだ。
皇帝の言葉こそが唯一の正義であり、皇帝が何を望もうと思いのままだという空気が廷臣らの間に広がっていき、その流れを違わずに読み取った皇帝の側近、グルーク・モルガンが秘かに動き始めた。
最初に味方に引き入れたのは、三大騎士団の一つを背負うロフマン卿だ。
そしてロフマン卿を皮切りとして、グルーク・モルガンは重鎮と言われる大貴族達を一人また一人と説得していく。
水面下でのこの工作は、やがて列国を巻き込んだ前代未聞の人探しへと発展していく訳だが、アントーレの一騎士に過ぎないサイスはその変化にまだ気づかない。
ましてや、グルーク・モルガンがその作戦を思いついたのは、サイスがヴィア妃に捧げた徽章が発端であったなどとは、思いつけという方が無理な話であっただろう。