護衛騎士の呟き 9
主であったヴィア妃を失っても営みは変わらず続き、サイスはアントーレの騎士としての仕事を日々、淡々とこなしていた。
今振り返れば、お仕えしていたのは僅か一年強でしかなかったのだ。
けれどヴィア妃がサイスの心に残していった軌跡は余りにも鮮やかで、サイスは未だ深い喪失感から抜け出せずにいる。
そうしてその年が終わり、凍えるような寒さがようやく和らいできたと思われる早春のある日、サイスは突然アントーレ副官から呼び出された。
アンシェーゼ最南端の街、トウアに行くよう突然命じられたのだ。
ヴィア側妃殿下の居所がわかったと唐突に告げられ、サイスは最初その言葉が信じられなかった。
「妃殿下はお元気でいらっしゃるのですか」
急くように尋ねかけると、
「それを確かめて欲しいのだ」
よくよく聞けば、ヴィア妃の失踪に側近の誰かが関わっていたのではないかと疑いを持たれた陛下が三人に問われ、モルガン卿が自分がしたと認めたらしい。
そして、ヴィア妃をトウアに逃したと告白したのだそうだ。
それを聞いたサイスは思わず、「あ……」と声を漏らした。
トーラ皇太后が亡くなって間がない頃、ヴィア妃がモルガン卿を水晶宮に呼ばれた事を今更ながらに思い出したためだ。
お二人で真剣に何かを話されていたが、まさか皇宮を出る方法について話を詰めておられたとは夢にも思わなかった。
「それではヴィア妃はトウアで家庭教師をされているのですね」
一通りの説明を受けて、サイスはほっと安堵の息をつく。
家庭教師ならば、相応の敬意をもって家に迎え入れられる。
そう理不尽な目には遭っておられないだろう。
「ああ。妃殿下はマナーに優れ、立ち居振る舞いも優美であられた。
正にうってつけの職だと私も思う」
表情を明るくするサイスをちらりと見やり、副官は表情を改めて言葉を足した。
「エベック。陛下はヴィア妃を呼び戻されるおつもりは微塵もない。
皇后を迎えなければならない陛下のお立場は変わらないし、無理やり呼び戻してもヴィア妃殿下にはおつらい思いをさせるだけだ。
ヴィア妃が息災でいらっしゃるのか、勤め先で困った立場に置かれていないか、それだけを確かめて欲しい。
今のヴィア妃の生活を壊さぬよう、心して務めを果たすように」
トウアに発つ前に、サイスは改めてモルガン卿と引き合わせていただいた。紹介した準貴族に関して詳しい情報を知るためだ。
その準貴族の名はアガシと言い、若くして死んだ息子夫婦の忘れ形見を一人で育てている商家の老婦人であるようだ。
アガシ夫人の経済状況から親族、交友関係に至るまでモルガン卿はつぶさにわたって調べられていたが、ヴィア妃が何という名前を名乗っているか知らないと言われた時には思わず耳を疑った。
「推薦状を書かれたのに、何故名前をご存じないのです?」
そう尋ねると、モルガン卿は真面目くさった顔で答えてきた。
「実は推薦状を作成したのは妃殿下なんだ。
話を詰めた翌日には紫玉宮の侍女を通じて自作の推薦状を私に寄越されたんだが、書類上の名前が違っていた。
確かヴィアっぽい名前ではあったんだが、もう二度と連絡を取らないと約束していたし、覚えるまでもないかと読み流した」
「ヴィアっぽい名前……」
ぽいって何だろうとサイスは首を傾げた。
「それよりも推薦状の内容が秀逸で、そっちのインパクトの方が強かった。
まるで手本にしたいような文章で、これならばどの雇い主も即採用したくなるだろうなと思わず心で唸ったものだ」
「……」
ヴィア殿下、おそるべし。
そんな才能もお持ちであったのかとサイスは舌を巻いたが、よくよく考えればヴィア妃は自画自賛をしただけである。
思いっきり楽しんで書かれた可能性があった。
正確な名前がわからないのは困りものだが、こうなったらヴィアという愛称の女性を探しているという設定にしようとサイスは考えた。
アントーレ騎士団の名を出せば、トウアの準貴族ならば応じてくれる筈だ。
そうして、片道二日をかけて意気揚々とトウアに向かう事となったサイスだが、お会いする前夜は嬉しさと興奮の余りなかなか眠る事ができなかった。
これほど胸を高鳴らせたのはいつぶりだろうというくらいに舞い上がり、うとうとと微睡んでは目覚め、何度となく寝返りを繰り返し、ようやく夜が白みかけた時にはやっと朝が来たとほっとした。
自分の顔を見たら驚かれるだろうか。それとも約束が違うと怒られるだろうか。
そんな風に再会の場面を幾度となく想像し、夢見心地でその準貴族の家を訪ねたら、その家でまさかのヴィア妃失踪を告げられた。
わりと能天気で図太い事を自認するサイスだが、この時ばかりは衝撃と落胆の余り、へなへなとその場に頽れそうになった。
よくよく聞けば諸悪の根源はヴィア妃にのぼせた商家の若造らしい。
名をクレイアス・ヘルグと言う。
このヘルグは、たまたま商談で訪れたアガシ家でヴィア妃と出会い、あっという間に恋に落ちたのだそうだ。
必死になってヴィア妃を口説いたようだが相手にされず、想いは積もるばかりでとうとう寝込むまでになってしまった。
困った両親がヴィア妃の主であるアガシ夫人に話を持ち掛け、事情を聞いた女主人はこれ以上ない縁だとヴィア妃に猛プッシュを始めてしまった。
追い詰められたのがヴィア妃である。
ヘルグ家はトウアでも五本の指に入る裕福な商家で、本人にも瑕疵がないとあれば断る理由もなく、何度辞退しても謙遜しなくても大丈夫だと明後日の方向にいなされて、挙句に式の日取りやドレスの縫い合わせなども勝手に始められようとしたらしい。
で、四面楚歌に陥ったヴィア妃は、人生二度目の失踪を決行した。
一番お気の毒なのは住む場所も働き口もいっぺんに失くしたヴィア妃だが、再会を心待ちに二日かけてトウアまでやってきたサイスだって立派な被害者である。
下らん求婚騒ぎを引き起こしたヘルグに大激怒だ。
末代まで祟ってやると思う程の怒りを他人に抱いたのはこれが初めてで、おそらくこれからもないだろう。
その足でヴィア妃の足取りを追おうかとも思ったが、失踪されたのはもう二ヶ月以上前の話だ。
今更聞き込みをしたとしても見つかるとは思えず、今は一刻も早く陛下にこの状況をご報告申し上げるべきだと判断した。
サイスの報告を聞いた三人の側近方は、美しさが裏目に出たか……と天を仰いでおられたが、お聞きになったアレク陛下は何とも言えない複雑な表情をされていた。
縁組を断ったくらいだから、ヴィア妃は未だ陛下の事を一途に想っておられるのだろう。
その気持ちを誰よりも嬉しく思われながら、再び行方が分からなくなってしまった事に対しては頭を抱えておられた。
その後ほどなく、サイスは場を下がったが、回廊に出たところでセルティス殿下に呼び止められた。
サイスがしていたタイ留めが気になっておられたようだ。
「そのタイ留めのモチーフ、珍しいね。もしかしてアカシアの花なのかな?」
実を言えば、お会いした時に見ていただこうと思い、サイスはヴィア妃からいただいたアカシアのタイ留めをトウアに持参していた。
皇帝陛下にお会いする前に少しでも身なりを整えようと思いつき、胸の隠しから取り出して身に着けていたのである。
「はい。ヴィア妃殿下に作って頂いたものです」
自分だけではなく、ヴィア妃付きの侍女四名も同じようにアカシアの花を意匠にした物を作っていただいたと申し上げると、「姉上らしいな」とセルティス殿下は微笑まれた。
「母がアカシアを好きだったから、ヴィア姉上はよくアカシアの花刺繍をハンカチにして下さった。
私も数枚持っているし、姉上もそうだろう」
そしてセルティス殿下は少し目元を和らげてサイスを見た。
「母が何故、アカシアの花が好きだったのか姉上から聞いた?」
「いえ」
「ツィティー妃にとってアカシアは特別な花なんだ。
姉の父がツィティーにプロポーズした時、季節はちょうど五月で、アカシアの白い花がそこら中に咲いていたらしくてね。
鈴なりに咲き誇る花の下で、妻となる女性に愛を囁いたのだそうだ」
「それは……」
ツィティー妃とその前夫の恋話であれば、さすがに素敵な逸話ですねとは言いにくい。
何と答えようかと視線をさまよわせるサイスを見て、セルティス殿下は小さく苦笑した。
「私に気を遣う必要はない。
母君は前夫を愛しておられたし、その事を私には隠さなかった。ただその時には、私が寂しさや不安を覚えぬようにそれ以上の愛情を示して下さった。
姉も同じだ。亡き父君を慕っておられたが、私の事も心から愛して下さった」
「妃殿下がセルティス殿下を心から大事に思われていた事は、私もよく存じ上げております」
そもそもヴィア妃は弟君を守るためにアレク殿下の側妃となられ、弟君の命が危ないと知った時には身を挺して庇われたのだ。
たった一人の家族で、最後までセルティス殿下の事を案じられていた。
「……一つ伺ってもよろしいでしょうか」
続けてと言うようにセルティス殿下が頷かれたので、サイスは意を決して問い掛けた。
「先程殿下は、パレシス帝の命を受けた近衛が、ヴィア妃とその母君の前で父親を殺したとおっしゃいました。本当にそのような事が……」
政変が起きた夜にヴィア妃が話されていた言葉が今更のようにサイスの脳裏に蘇る。
自分の目の前で近衛が人を殺し、当時三つだった自分までも手にかけようとしたのでツィティー妃がパレシス帝の許に行った、そんな風に妃殿下は話されていた。
その時も痛ましいと感じたが、まさか殺された当人と言うのが実の父君であられたなど、サイスは夢にも考えた事がなかった。
「パレシス帝はね、本当にクズのような男だったんだ」
セルティス殿下は乾いた声でそう答え、唇を歪めるように薄く笑んだ。
「夫がいるツィティーに横恋慕した挙句、妻子の目の前で邪魔な夫を殺して閨に引き入れた。
父親を目の前で殺された幼い姉上は、その衝撃からしばらく言葉を話せなくなったと聞いている」
「そんな……」
余りにも惨い話で、サイスは我知らず唇を噛み締めた。
「この体の半分にあの男の血が流れているなど、考えるだに悍ましい。
けれど私にはどうしようもない事だ。
私も陛下も、その事実を一生忘れる事はないだろう」
その言葉に、そう言えばアレク帝もヴィア妃の実父を殺した男の息子になるのだと、サイスは今更ながらに気が付いた。
今日の話の流れでは、アレク帝はすでにその事実を知っておられる様子だった。
最愛の女性の父親を殺したのが自分の父だと知り、陛下はどれほど苦しまれた事だろうか。
謝罪をいくら重ねたとて贖えるような罪ではなく、身に流れる血を憎みながらも前に進んでいくしか許されない。
物思いに浸るサイスを軽く一瞥し、セルティス殿下はそのまま踵を返された。
遠ざかっていく後ろ姿をぼんやりと目で追いながら、サイスは改めて遠い空の下におられるヴィア殿下に思いを馳せた。
笑っていて下さればいいと思う。
絶対に幸せになると言い聞かせて逞しく生きている筈だとセルティス殿下はおっしゃったし、サイス自身もそんな気はしている。
だって、不景気な顔で愚痴を撒き散らすヴィア妃の姿などとても想像もできないからだ。
けれど……とサイスは思う。
あのような形でトウアを離れざるを得なかったヴィア妃は、僅かな身の回りの品と当座の路銀くらいしか持ち出せなかった筈だ。
雇い主の紹介状をもらえずに辞めた以上、まともな職に就く事も難しくなり、経済的な困窮が案じられた。
せめて元気なお姿を一目でも見る事が叶うなら……とサイスはただそれだけを神に祈る。
人伝でもいい。息災で過ごしておられる事さえわかったら、それだけで自分は救われる。
そんなサイスの必死な思いが神に通じたのか、ある日サイスは思いがけない再会を神に与えられる事となる。
それは季節外れの長雨が続き、久しぶりに雲の合間から太陽が顔を出した五月の昼下がり。
雨上がりのむっとする匂いが舗道の木々をぬるく揺らすミダスの街中での事だった。