護衛騎士の呟き 8
いつかは去って行かれる方だとわかっていた。けれど別れはまだ遠い先の話だと都合よくそう思い込んでいた。
それをサイスに告げてきたのは、皇帝の側近の一人であるラダス卿だった。
ラダス卿の訪れを知らされた時、サイスは嫌な予感がした。
紫玉宮に一泊すると伺っていたヴィア妃からは、一夜が明けて昼を過ぎ、夕闇が近付く頃になってもお呼びがかからない。
弟君と積もる話でもされているのだろうと最初は思っていたが、それにしては余りに遅すぎた。
「今日の昼過ぎ、ヴィア妃殿下が静養地ガラシアに向かってお発ちになった」
開口一番、ラダス卿はそう告げてきて、サイスは頭の中が真っ白になった。
声もなく立ち竦み、ようやく我に返った時に込み上げてきたのは、身を焼き尽くすかと思われるほどの激しい瞋恚だった。
「そのような事はあり得ません!
私は妃殿下の護衛騎士だ。どこに行かれるにせよ、私がお供をしない筈がない!」
「そうだね」
ラダス卿は淡々とサイスの怒りを受け止めた。
「護衛騎士ならば従って当然だ。だから昨日付けでエベックは護衛騎士の任を解かれたという事になる。
正式な辞令はその内渡されるだろう」
何でもない事のようにそう言い渡され、サイスは握りしめた拳を震わせた。
煮えたぎるような怒りが体の中を渦巻き、吐き気すら込み上げてくる。
思わず言い返そうと口を開いたサイスだったが、その様子をじっと見ていたラダス卿がどこか疲れたように呟かれた。
「そこまで驚くという事は、エベックも知らなかったんだな」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
「それは、どういう……」
「妃殿下はガラシアなどには行かれていない。失踪されたんだ」
「失踪……」
サイスの顔から血の気が引いた。
自分はいずれ市井に下りるのだと、笑顔で言い切られたヴィア妃の顔が脳裏に浮かびあがる。
「皇宮を出られたのは昨日の昼過ぎだ。
手を貸したのは紫玉宮の侍女で、昨晩遅くに紫玉宮に戻られたセルティス殿下は、その時に初めて姉君が出奔された事をお知りになった。
姉君をなるべく遠くに逃すために殿下は口を閉ざされ、その事実を皇帝陛下にお伝えになったのは今日の朝方だ」
サイスは震える唇を強く引き結んだ。
それではヴィア妃は、弟君にも皇帝陛下にも一切知らせる事なく、行方をくらまされたのだ。
「当たり前だけど、陛下はかなり衝撃を受けられていてね。私は宮殿を離れていて、その事実を先ほど知らされた。
何があったのか詳しい経緯を知ろうと思い、だからエベックに話を聞きに来たんだ。
妃殿下に近しいお前なら何か聞いている筈だ。それを教えて欲しい」
ラダス卿は静かな眼差しでじっとサイスを見つめている。
呆然と突っ立っていたサイスはからからに乾いたのどを潤すために唾を飲み、掠れる声を絞り出した。
「いずれ市井に下りる事は……聞いておりました」
「いつ」
「パレシス帝が亡くなられ、倉院にレイアトーの騎士が立て籠もったと聞いた後です。
ロフマン卿らと簡単な食事をしている際にそう話されました」
そうしてサイスは、記憶を辿るようにぽつりぽつりと話し始めた。
ツィティー妃がパレシス帝の傍らに侍ったのは目の前で娘を殺されそうになったからだという事や、弟君を守るためにヴィア妃がアレク殿下の側妃となった事、そして今の現状を憂えておられ、いずれ陛下の傍を離れるとおっしゃっていた事などを包み隠さず全て申し上げた。
「自分が側妃に迎えられたのはそこに政治的な配慮があったからだと、そう噂を流して欲しいと妃殿下から頼まれました。
妃殿下は自分の名前が落ちる事よりも、陛下の治世が安泰となる事を望まれておりました」
サイスの言葉にラダス卿はしばらく無言だった。
やがて小さくため息をつき、それから真っ直ぐにサイスを見つめてきた。
「ヴィア妃の決断を私は歓迎するよ。
陛下がこのままヴィア妃を寵愛されれば、国は乱れる。
いずれ身を引いてもらわなければならないと思っていた」
ラダス卿はいかにも優しげで温厚そうな外見をしているが、情のために大義を見失うような方ではない。
国の安寧のために何をすべきか、冷静に流れを見ておられたのだろう。
「……国のためには喜ばしいが、個人的にはこの上もなく残念だ。
この先、あのような方には二度とお会いできないだろう」
聞くべき言葉は聞き、ここにはもう用がないとラダス卿は思われたようだ。
そのまま踵を返そうとするのを見て、サイスは慌てて呼び止めた。
こんな風に皇帝の側近の方と二人きりで話をする機会は二度と訪れないだろう。
その前に一つだけ確かめておきたい事があった。
「ラダス卿、一つだけ教えていただけませんか?」
ずっと心にかかっていた。
けれど正面からそれをヴィア妃に尋ねても教えてもらえないだろうとわかっていたから、誰にも言わず、ずっと心に秘めていた。
「私は何故、妃殿下の護衛に選ばれたのでしょうか」
ラダス卿は体を捩じるようにサイスを振り返り、笑みを含んだ声で返してきた。
「それを私に聞くの? 護衛に推薦したのは君の上官のアモン・アントーレだ。それ以上の事情は私にはわからないよ」
「では、言い方を変えます。妃殿下は何か私に関する夢をご覧になったのではありませんか」
それを聞いた途端、ラダス卿の表情が動いた。
「……エベックは何をどこまで知っているのかな」
口調は穏やかだが、目は笑っていない。
警戒が滲む眼差しに怯む事なく、サイスは真っ直ぐにラダス卿を見つめた。
「予知夢をご覧になる事です。
アンシェーゼでそれを知っているのは、陛下と三人の側近がただけだと妃殿下から伺いました」
続けてというように小さく頷かれ、サイスは再び口を開いた。
「ずっと不思議に思っていました。
剣技が得意というだけなら、私以外にもいくらでも優れた騎士がいます。
けれどあの日、アントーレ副官は迷わずに私を護衛に指名されました。
今思えば、私が槍の訓練に行くと言った時、妃殿下が顔色を変えて私を止めようとなさった事もありました。
余りに過剰な反応に、違和感を覚えた事を今でも覚えています。
妃殿下から力の事を伺ってしばらく経ってから、私はようやく、妃殿下の力と自分が護衛騎士に選ばれた事に何らかの関係があるのかもしれないと思い至りました。
もしかしたら妃殿下は、槍の訓練で私が怪我をするか、あるいは死ぬ夢をご覧になったのではありませんか。
ラダス卿ならご存じの筈です。どうか教えていただけませんか」
「……何も知らないと言っても、エベックは納得しないだろうな」
ややあって、ラダス卿は小さく首を振った。
「初めてお会いした日に予知夢の事を伺った。
若いアントーレの騎士が、目を槍で突かれて死ぬ夢を見たと。
槍を構えた時、一度肘を上げる癖がある騎士で、くせ毛のある金髪をしていたとおっしゃっていたな」
思わず息を呑むサイスを見て、ラダス卿はちょっと笑った。
「ただ、すべてはもう過去の話だ。
成就するのは夢を見てからせいぜい三、四か月の事で、その期間を乗り切れたら心配はないと聞いている」
そうして今度こそ場を去ろうとして、最後にふと思いついたようにサイスの方を見た。
「エベック。
妃殿下はガラシアで数年静養された後に、いずれ病死と公表されるようになるだろう。
あの方との縁は切れ、我々がお会いする事はもう二度とない。
ヴィア妃の事はもう忘れるように」
それから数日間の記憶がサイスにはない。荷物をまとめてアントーレ騎士団の宿舎に戻ったのは確かだが、喪失の感覚が大きすぎて何も覚えていなかった。
サイスは護衛の任を解かれたが、ヴィア妃付きの侍女たちはそのまま役職を残されたようだ。
仕える主がいないため水晶宮からは退去するようになるが、宮殿に残されていたヴィア妃の私物には手を付けぬように皇帝が命じられたと、風の噂に聞いた。
ヴィア妃の不在を誰より認めたくないのは皇帝陛下であられるのかもしれない。
水晶宮はきれいに手入れされ、時折、皇帝自身が足を運んでおられるようだ。
そうしたある日、サイスはヴィア妃付きの侍女頭であるレナル夫人から呼び出しされた。
今更何の用だろうと思いつつ顔を出せば、渡されたのはきれいに包装された小さな箱だった。
「今朝がた宝玉商から届いたのです。以前注文していた、アカシアの意匠の装身具がようやく出来上がったと。
あの時は皆で揃いのものを作るのだと急に妃殿下が言われ、必死に頭を捻りましたわね。
考えもつかないような事を突然おっしゃるお方で、本当に振り回されましたわ」
あの日の喧騒を思い出すように笑いながら、レナル夫人はひと滴の涙を零した。
「いつも明るく振舞っておられたけれど、どれほどお辛かった事でしょう。
近い内にご自分が静養に出される事もおそらく知っておられて、だからわたくしたちに別れの品を用意された気が致しますわ」
レナル夫人から渡された箱を手に、サイスはとぼとぼと騎士団の自室に帰った。
リボンを解いて箱を開けると、アカシアのデザインのタイ留めが天鵞絨の布の上に置かれていた。
それを慎重に取り出して手の上に乗せる。
葉の部分に使われた緑色の石が、光の加減で赤く色を変えた。ヴィア妃が選んで下さった金緑石だ。
タイ留めの図案を見せるとヴィア妃は顔を輝かせ、花部分の石は何にしましょうかと楽しそうに皆に問い掛けられた。
余り派手な色味にはしたくないとサイスが言えば、アカシアの花の美しさをそのまま出してみてはとシシリア嬢が言い、すぐにレナル夫人がいくつかの候補を出してきた。
病気から身を護る魔除けの意味がある金剛石を推してきたのは、確かリントー夫人だったように覚えている。
花らしさを残すなら葉の部分は緑色がいいとエイミ嬢が声を弾ませ、様々な種類の宝玉を光に翳しては色を確かめ、これがエベックには似合うわとヴィア妃が金緑石を選ばれた。
別れの品になると知っておられたのに、それを気取らせる真似は一切なさらなかった。
共に過ごす時間を心から楽しまれて、だから自分達は何の愁いを覚える事なく、穏やかな明るさに包まれてただ笑っていた。
ぽとりと涙が手首を濡らした。
「無情なお方だ」
置き去りにされたサイスらの慟哭は、二度とヴィア妃に届く事はない。
「別れの挨拶すらさせていただけなかった」
込み上げてくる口惜しさに恨み言が零れ出た。
忠誠と崇敬のすべてを捧げる方だと心に決めていた。
あの方の支えになりたかった。苦しみを共に負い、あの方を傷つける全てのものからお守りしたかった。
なのに一番苦しんでおられた時に、辛いの一言さえ言ってもらえなかった。
「ああああああああああ……!」
堪えきれない嗚咽が喉から迸る。血が滲むほど固く拳を握り込み、サイスはダンッと拳を机に叩き付けた。
苦しくて悔しくて哀しくて……、それ以上にただ慕わしかった。
命を救っていただいたのに、恩の一つも返せなかった。
哀しみを一人で背負わせ、行かせてしまった。
苦い後悔を呑み込んで、サイスは歔欷し続ける。
涙は後から後から溢れてきて、止まる事を知らなかった。