護衛騎士の呟き 6
その後、体調を回復されたヴィア妃は、再び公式の場に立たれるようになった。
宮廷では皇帝の子を身ごもったマイアール妃とその養父セゾン卿が率いる一派が徐々に力を増し始め、一方のアレク殿下はアントーレ騎士団に続いてロフマン騎士団を陣営に引き入れ、両者の勢力図は拮抗していた。
歯車が動き始めたのは十二月だった。
マイアール妃が皇子殿下を産み落とされ、運を味方につけたセゾン卿は、宮廷内での存在感を一気に強めていったのだ。
第三皇子誕生を祝う祝賀式典が華々しく執り行われ、このままセゾン卿が流れを掴んでいくかと思われていた時、誰もが予想だにしない凶事がアンシェーゼを襲った。
パレシス帝が急死されたのだ。
その知らせは、静まり返った夜の皇宮を密やかに駆け抜けた。
貴族らの大半は何も知らずに眠りに落ちており、情報を手に入れた限られた者達だけが覇権を掴むために動き始めた。
サイスがいつもと違うざわめきに気付いたのは、アレク殿下が僅かな手勢と共に宮殿を抜け出されてからしばらく経ってからの事だった。
慌てて服を着替え、身嗜みを整えたところで、ちょうどヴィア妃からの呼び出しがかかった。
ヴィア妃は侍従長との話を詰めて自室に戻られたところで、すでにシンプルな黒いドレスに着替えておられた。
髪の両サイドを後ろ一つで留め、化粧はせずに紅だけを唇に刷いておられる。
着飾るだけの時間がなかったのだろうが、その簡素な装いが却って瑞々しい美しさを際立たせていた。
そのヴィア妃は開口一番、「ロフマン騎士団が護衛のためにこちらに来ます」とサイスに告げてきて、サイスは一瞬言葉を失った。
「ロフマンですか? アントーレではなく?」
「アントーレにはもう連絡が行っています。おそらくアモン副官辺りが中隊を引き連れてアレク殿下の許に向かうようになるでしょう。
ロフマン騎士団にはこちらの警護を頼みました」
納得がいかないサイスが唇を引き結んでいると、それを見たヴィア妃はちょっと微笑まれた。
「わたくしがロフマンを頼った事が気に入らない?」
「いえ……」
さすがにそうとは口にできず、サイスは瞳を伏せた。
「ねえ、エベック。皇帝陛下のご崩御はまだ公にはされていないし、殿下の側妃に過ぎないわたくしができる事など何もないわ。
だからわざわざ貴方を呼ぶ必要はないと判断して、朝まで傍に来なくていいと貴方に伝言を渡したらどう思う?」
サイスはぎょっと顔を上げた。
「冗談はお止め下さい!」
こんな大事にヴィア妃から必要とされなかったら、何のための護衛騎士かと自分は穴を掘って落ち込む自信がある。
床に膝を抱えてしゃがみ込み、いじいじと床に指で文字を書いていたかもしれない。
「それと同じ事よ。ロフマンはアレク殿下に忠誠を誓っているのよ。こんな時に頼らないなどあり得ないわ」
「……わかりました」
確かにヴィア妃の言う通りであるだろう。渋々とそれを納得したサイスだが、その後に続けられた言葉はいただけなかった。
「それにエベックには、ロフマン卿と親しくして欲しいと思っているの」
「何故です」
「ロフマン卿がとても誠実で好ましい方であるからよ。エベックも会えばわかると思うわ」
サイスは思わずそっぽを向きたくなった。
三大騎士団の名前の一つを背負うロフマン卿はサイスから見ればまさに雲の上の大貴族であったが、ヴィア妃が自分以外の騎士を褒めるなど、到底容認できるものではない。
そのロフマン卿は、水晶宮からの要請を受けるや自らが隊を率いてすぐに警護に駆けつけてくれた。
ロフマンは皇宮の東に居城を持つ騎士団で、牡鹿と月桂樹の葉が組み合わさった意匠を団章に持つ。
血気盛んなアントーレや華美を好むレイアトーと比べ、質実剛健な気質を有していた。
碧玉よりも更に緑が濃い深碧の隊服をサイスは今まで地味だと思い込んでいたが、牡鹿と月桂樹の旗を悠々と風にはためかせ、水晶宮を守るように展開していく深碧の騎士らの様子は壮観で力強く、窓からそれをご覧になったヴィア妃は「何と頼もしいこと」と言葉を落とされた。
夜の闇はまだ深かったが、その間にも状況は刻々と変わっていった。
アレク殿下が皇帝宮を制したと伝えられ、歓喜に包まれたのも束の間、即位に必要な皇冠や錫杖がしまわれた倉院がレイアトーの騎士によって占拠されたという信じ難い報告が、時を置かずにもたらされた。
皇帝空位の状態が続くと知ったヴィア妃は、殿下が皇宮の制圧に専念できるよう場所を移る事をお申し出になり、それから慌ただしく準備が進み、その日の夕刻にはロフマンの居城に入られた。
侍女三名と護衛騎士を伴っただけのひっそりとした入城だったが、実を言うとその時にひと悶着があった。
アントーレ騎士団に属する護衛騎士を城塞内に入れる事にロフマン側が難色を示したのだ。
他団の者を城内に入れたくないという心情は、サイスにも勿論、理解はできた。
だが、だからと言って、この大事な時期に主と慕うヴィア妃と引き離されるなどサイスだって真っ平御免である。
押し問答が続く中、仲裁に入られたのはヴィア妃だった。
入城を拒むロフマンの幹部に、「エベックが出入りできる場所を限定して下さい」とお頼みになったのだ。
「この者はアレク殿下への忠誠も厚く、人柄も信頼できます。立ち入ってはならない場所を示したら、必ずそれに従うでしょう。
エベックは騎士団内を勝手に嗅ぎまわるような人間ではありません。その事はわたくしが責任をもって保証致します」
ヴィア妃のとりなしのおかげで、サイスは何とか入城を許してもらった。
そしてヴィア妃が住まわれる部屋からそう遠くない場所に、こじんまりとした部屋をもらう事ができた。
寝台と簡素な木机があるだけの狭い空間だが、食事はロフマンの正騎士らが利用する食堂が利用でき、洗濯や掃除については下働きの者がしてくれるので、不自由なく生活できるだろう。
こんな風に始まったロフマンでの生活だったが、暮らし自体は思ったよりも悪くなかった。
最初は勿論、警戒もされたし、食堂に行けばサイスの周囲だけぽっかりと空席ができた。
ただサイスはそこそこ図太い性格をしていたため、気にせずに食事を楽しんだ。深碧の騎士服の中で一人だけ違うジャケットを着ている人間がいれば目立つのは当たり前だし(さすがにアントーレの騎士服は着なかった。不必要に喧嘩を売りたくなかったからだ)、食事が旨ければそれでいい。
体がなまるので訓練場の隅で鍛錬だけはしていたのだが、剣筋を見た正騎士の一人がサイスに手合わせを望んできて、それから徐々に空気が変わっていった。
サイスは腕が立つし、実力があれば、その者に対して敬意を払うのが騎士の常だ。
だんだんと言葉を交わすようになり、ロフマンの奴らも悪くないなと思い始めたサイスである。
サイスは今までロフマンの事を地味で冴えない団だと勝手に思い込んでいたが、団風は質朴かつ誠実で、武にも優れている。
名より実を取った堅実な戦い方を好み、無駄な動きを極力抑えているため一見地味に見えるのだが、対峙すると意外と強かった。
体術を組み入れた戦法も得意としていて、実戦での蹴りや足払いは当たり前だった。
プライドが高く格好付けのレイアトーの騎士ならば、そんな泥臭い戦い方は死んでもごめんだと嫌な顔をしそうだが、アントーレもまた勝つならば何でもありといった団風だ。
そういった意味では、サイスはすんなりロフマンの団風に解け込めた。
ただサイスから見ると、ロフマン騎士団は優等生過ぎた。
仁を知り、義を求めた質実な生き方は騎士の鑑とするべきものだが、サイス的にはもうちょっと遊び心がある団の方がいい。
お馬鹿なくらい血気盛んで能天気なアントーレの行け行けムードはサイスの気質に非常に合っており、アントーレを選んで良かったとつくづく思うサイスだった。
アントーレの場合、教官が特にぶっとんでいたからなあとサイスはこっそりと心の中で呟いた。
次期皇帝候補筆頭のアレク殿下が騒ぎを起こした時にはバケツの水をぶっかけて反省房に入れた強者揃いの教官がいたし、それを目の当たりにしたサイスらの学年は、教官に逆らうとヤバいときちんと学習してちょっぴりおとなしい学年となった。
粒がやや小さめの学年になったのはそのせいかもしれない。
という事で、サイスはすっかりロフマン騎士団に溶け込んで、毎日鍛錬に励んでいた。
午後になればヴィア妃の茶会に呼ばれ、ロフマンの幹部連中ともちゃっかり顔馴染みになっている。
こういう状況にも拘わらず、非常に有意義な日々を送っていた。
ただ、昼の内はそんな風に悩みなど何一つないような顔で明るく過ごすサイスであったが、夜、寝台で一人横になっていると、どうしようもない寂寞感と無力感に襲われて寝返りを繰り返すのが常だった。
その原因はわかっている。
ロフマンに来る前にヴィア妃が口にされたお言葉だ。
アレク殿下が即位された後について、ヴィア妃はいずれ殿下の許を去るとはっきり口にされた。
今までは唯一の側妃として殿下の傍らに立たれていたが、元々ヴィア妃の血縁は異母弟のセルティス殿下だけで、宮廷における権力基盤を一切持っておられない。
アレク殿下は後ろ盾のしっかりとした正妃を迎える必要があり、その時に一番国の障りとなるのが側妃であられるヴィア妃だった。
アレク殿下が皇帝に即位されれば、できるだけ早い段階で側妃は排除されなければならない。
ヴィア妃は誰よりもその必要性を感じており、身を引く覚悟をすでにつけられておられた。
その根底にあるのは犠牲でなく、矜持だった。
ただ一心に国の安泰を祈り、殿下の幸せを望まれた。
その思いをサイスは尊重しなければならない。
そしてそれは、おそらくさほど遠い未来ではなかった。
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