側妃になる前、お忍びに出かけます 1
翌日、ヴィアはセイラとルーナの二人を連れて、水晶宮を訪れた。
アレクが帰ってしばらくしてから、大量の贈り物が紫玉宮に届けられたからだ。
体面を保つためのドレスや装飾品の類は用意しておくと聞いていたから、ヴィアはほとんどドレスを買い足すことなく、身一つで入るつもりであったが、あるいは殿下はヴィアの面子を考えてくれたのかもしれなかった。
「殿下はもうすぐ来られます」
そう対応したのは、目元に笑い皺のある、温厚そうな一人の侍従長だった。
セイラとルーナは別室で待たされ、ヴィアは一人、控えの間に通される。
やがて、側近たちと何事か話しながら、アレクが入室してきた。
「ヴィア、どうした」
ヴィアは完璧な貴婦人の所作で膝を折る。
「贈り物を頂きましたので、お礼のご挨拶に参りました」
今まで簡素な装いのヴィアしか知らなかったアレクは、贈ったドレスに身を包み、他の貴婦人達のように着飾ったヴィアの姿に思わず目を細める。
眼前に立つヴィアの美しさは圧巻だった。
絹糸の如く柔らかな髪はゆったりと背に流され、ぼかしのある濃紺のドレスが、皇女の透けるように白い肌を強調している。
全体的にほっそりとしているが、胸元はふっくらと男性をそそるように盛り上がり、清楚な美しさの中に蠱惑の蜜を垣間見せた。
ここまで美しい姫君は王宮にいないなと、ルイタスは心の中で独り言ちる。現に自分の主は、魅入られたように言葉を失っていた。
「殿下?」
声を掛けられて、アレクは慌てて咳払いした。
「良く似合っている」
「わたくしもそう思いましたの」
悪びれずにヴィアが言う。
「だから殿下にお見せしようと思いまして」
アレクに対しては、猫を被る気は微塵もないらしい。
男として意識されていないのだと気付き、アレクは妙にやさぐれた気分になった。
「せっかく来てくれてありがたいが、今日は今から用がある」
幾分素っ気ない言い方になってしまったのは仕方ないだろう。
ヴィアは気にした様子もなく、あっさりと肩を竦めた。
「わたくしは暇なのですけど、殿下は違いますものね。
で、どちらのご予定ですの。今日は公式の予定はないと伺っておりましたが」
訪問するにあたり、一応殿下の予定は確かめておいたのだ。
けれど問われたアレクが困ったように瞳を逸らせるのを見て、ヴィアはぴんと感付いてしまった。
どうやら、聞いてはいけない領域に踏み込んでしまったらしい。
「あら、馴染みの姫君を訪れになる所でしたのね。わたくしったら気が利かぬことを」
「違う!」
とんでもない方向に誤解されたアレクは叫ぶように否定し、それからむっつりと黙り込んだ。
「では、どちらに参られますの?」
グルークを真っ直ぐに見つめると、その美貌に気圧されたようにグルークは不自然に目を逸らした。
「別に隠すようなお相手ではないでしょう?」
呆れたように言葉を挟むのはルイタスだ。
「皇女殿下も散々されてきたことですし」
「ルイタス!」
アレクの制止は間に合わない。
「わたくしが散々してきた?」
ヴィアは楽しそうにアレクの目を覗き込んだ。
「どういう意味でしょう?」
「別に遊びじゃない」
殿下もわたくしと同じように楽しまれていたのですね、と嬉しそうに断言されてしまったアレクは、思わずむっと傍らのヴィアに言い返した。
因みに、お忍びに向かう馬車の中での会話である。
皇女にとって市井へのお忍びは気晴らしであったのかもしれないが、アレクにとってはもっと重い意味を持つものだ。
民の本当の生活を知るべきです。
王宮内と騎士団での生活しか知らなかったアレクに、そう進言してきたのはグルークだった。
騎士の叙勲を受けた後、第一皇子の側近としてアンシェーゼの政治に深く関わるようになったグルークは、国富や経済、外交などを学ぶうち、市井の生活をもっと知りたいと、僅かな供を連れて様々な街を訪れるようになっていた。
危ない目に遭うことも少なくはなかったが、腕も立ち、頭も切れる男であったため、今では裏の顔を持つ人間とも繋ぎを得て、色々な情報を手にすることができるようになっている。
グルークの話を聞いて、アモンやルイタスまでが腕試しとばかりに下町に出掛けるようになり、三人の悪友に引っ張り出される形で、アレクも王宮の外に出るようになった。
もっとも皇后の耳に入ると大変なことになるので、不在をごまかす隠蔽工作には、水晶宮の侍従長とアントーレ騎士団の幹部を無理やり味方に引き込んだ。
アレク達が出掛けている間は、騎士団で鍛錬をしているという形になっていて、王宮を抜ける検問も、騎士団員の名前を借りている。
「お前はどうやって検問を抜けていた?」
馬車の中でヴィアに聞くと、ヴィアは侍女の身分証を使っていると得意そうに教えてくれた。
アレクがお忍びに出掛けると聞いて、自分も連れて行って欲しいとちゃっかりねだったヴィアだ。
こうなると思っていたから言いたくなかったんだとぼやくアレクを上手に言いくるめ、護衛のエベック共々、無理やりついて来てしまった。
因みに馬車は四人乗りのため、一台目にアレクとヴィアとアモン、二台目にルイタス、グルーク、エベックがそれぞれ乗っている。
そしてアレクと行動を共にするため、今日ヴィアが使わせてもらっている身分証は、騎士団の賄をしている下女のものだ。
「殿下は市井の暮らしをどこまでご存じなのでしょうか?」
ヴィアはかわいらしく小首を傾げて尋ねた。
が、内容は完全にアレクを馬鹿にしている。
「物を買うのに、お金がいる事はご存知ですか?」
「そのくらい知っている」
憮然と返したアレクだが、実は初めてグルークに連れ出された時は、不覚にも知らなかった。
「お前こそ金もないのに、どうやって市場を楽しむんだ」
ツィティー妃は贅に囲まれた生活を送っていたが、お金を手渡されていた訳ではない。
「あら、お金なら持っております。こちらですわ」
ヴィアは上着の隠しから、翡翠のネックレスを取り出した。
セイラに頼んで、いつもの普段着を取りに行ってもらったヴィアは、用意周到に宝玉まで持ってきてもらったらしい。
「母は皇帝からたくさんの装身具をプレゼントされておりましたでしょう?
これをお金に換えて、遊ぶように教わりました」
「お金に換える?」
アレクは呆然と呟いた。
発想自体、既にアレクの理解の範疇を超える。
「ここは帝国の首都ですから、数え切れないほどたくさんの両替商が出ておりますの。
少しずつお金に換えて、それで物を買うのですわ」
「そのような事を誰に教わったのです?
知識はツィティー妃からだとしても、あの方は王宮を出る自由などなかった筈ですが」
生真面目に質問してくるのは、アモンだ。
「母の腹心の侍女頭ですわ。母の後を追うように亡くなりましたが、その侍女頭に連れられて、わたくしは小さい頃から市井に連れ出されておりましたの。
先ほどわたくしについて来てくれた二人が、その侍女頭の娘達ですわ。
わたくしとちょうど髪や目の色が一緒でございましょう?
ですから、わたくしはいつも、どちらかの身分証を貸してもらっております」
「皇女がこうもやすやすと王宮を抜け出していたとはな」
傍らの皇女を眺め、アレクは深々と嘆息した。病弱設定にだまされて、そんなことになっているとは、考えもつかなかった。
「警備によほど問題があるようだな」
「わたくしが思うに、第一皇子が城を抜け出していた事の方が、よほど重大な問題ですわ」
重々しく言ったアレクに、ヴィアは澄ましてそう答えた。