外伝 皇后陛下と乗馬? 2
ヘルグは身分の高い貴婦人らの言葉に身を縮めていた。確かに失言だったと気付いたのだろう。
「勿論、皇后陛下のお美しさには敵うべくもありません。大層、畏れ多い事を申し上げました。
けれど……、けれど私にとっては、これ以上ないほど大切でいとおしい恋人であったのです!」
……何故だろう。いつの間にか恋人になっている。
ヴィアはもう心の中で反論する気も薄れ、引きつった笑みで頷くにとどめた。
だが、この悲恋を聞いた侍女たちは「まああああ!」と感動したように身を乗り出した。
「行方不明になったとは?」
こういうラブロマンスに女性は弱い。
侍女たちの目はきらきらと輝き、促されるようにヘルグはぽつりぽつりと話し始めた。
「彼女はある準貴族の家庭教師をしていて、一目見た時、私は恋に落ちました。
彼女も私を憎からず思ってくれ、とんとん拍子に話はまとまったのですが、結婚が決まって十日後、彼女は私に書置きだけを残してその家を去って行きました」
ヘルグに書置きなんか残していないけど……とヴィアは僅かに眉根を寄せた。
奥さまには文を残したが、それだけだ。
「……その書置きには何と?」
身を乗り出すレナル夫人に、ヘルグは沈痛な面持ちで拳を握り締めた。
「私の事を心底愛していると……。
けれど彼女は今まで、二度家絡みで婚約したことがあったそうなのです。
一人目の婚約者は婚約して一月後に馬車の事故で亡くなり、二人目の婚約者は結婚式の僅か五日前に、暴漢に襲われて亡くなったのだと。
ですから自分にはそういう悪い運命が付いて回っているのだと彼女は思ったようです。
私からの求愛を受け、一旦受け入れたものの、それから日が経つにつれて彼女は怖くなったようでした。
今度は私が死ぬのではないか、もし何かあったら自分はもう生きていけないと思い詰め……、そして私を愛していればこそ、自ら身を引くと伝えてきたのです」
「そんなことが……」
書いてあったのね……とヴィアは心に呟いた。
初めて知る驚愕の事実というやつである。
書いたのはおそらくアガシ夫人だろう。あなたの好きな女性は結婚を嫌って逃げましたなんて残酷な事実を伝えられず、ついストーリーを作ってしまったに違いない。
つい作ってしまったにしては、クオリティーが高過ぎるような気もするが。
当時の思いが込み上げてきたのか、ヘルグは唇を震わせた。
「彼女は……彼女は、本当につらかったのだと思います。
文は所々、涙で文字が滲んでいました」
……ついでに芸も細かかった。
さて、普通こういう話にノリノリで乗ってくる皇后が不自然に黙り込んでいるため、侍女たちもようやく何かがおかしいと気付き始めたようだ。
詳しい経緯はわからぬものの、失踪していた時期に何かあった男性のようだと互いに目配せをしている。
そんな侍女たちの様子に気付かぬまま、ヘルグは拳で涙を拭い、更に思い出話を語り始めた。
「本当に素晴らしい女性でした。教養もあり、マナーも完璧で人柄も良く美しく……、ただ、音痴でした」
「お、音痴?」
場は見事に凍り付き、違う! とヴィアは一人心の中で叫んだ。
発端は、その日庭師のおじいさんが「寒いからこれでもお飲み」とヴィアにリンゴ酒をくれたことに始まる。
ヴィアは大層酒が弱い。なので、ほんの一杯ででき上がってしまったのだ。
酒を飲むと、裸になったり泣いたりする人間がいると聞いていたが、ヴィアの場合は更に陽気になってしまった。
何だかものすごくいい気分になり、真冬なのに窓を開けっぴろげ、ちょっと調子っぱずれに歌を歌ってみたらもう楽しくて楽しくて、たったそれだけのことだったのに、それをよりによってヘルグに聞かれ、勝手に音痴認定されていただなんて!
青ざめる皇后から侍女たちはそろりと視線を外した。
そこにあるのは、敬愛する皇后への紛れもない気遣いである。
別人設定だから言い訳もできず、ヴィアは恥辱に身を震わせた。
ああ……、何だか護衛騎士の自分を見つめる目までが妙に生ぬるい。
皇后の視線にカミエはごほんと咳払いした。
静まり返った場の空気を何とかごまかそうと考え、考えた末に全くもって何も思いつかず、カミエはようやく思い付いた一言を絞り出した。
「その女性、意外と乗馬も下手だったかもしれませんな」
どうせ、馬には乗れませんとも!
ヴィアは更なるダメージを食らい、余計なことを付け足した自分の護衛騎士を恨めしげに睨むしかなかった。
全く散々な一日であった。
ガラスの工芸品自体は申し分ないもので、取り敢えず、ガラス製の繊細な花の置物を七つ発注したが、やり切った感よりも敗北感の方がヴィアには強かった。
まあ、いいわと、ヴィアは気持ちを切り替えることにした。
もう二度とヘルグと顔を合わせることもないわけだし、今日の出来事は忘れることにしよう。
だが、夜にまたその話を蒸し返してきた人間がいた。
ヴィアの夫である。
例の一件は可及的速やかに皇帝に報告されたようで、上機嫌で遠乗りから帰ってきた皇帝は、それを聞いて慌てふためいてヴィアのところへやって来た。
「お前に求婚した男がステファニア宮にやって来たようだな!」
あの一件を忘れようとしていた矢先にそんなことを言われ、ヴィアはちょっと嫌な顔をした。
「もう済んだ話です。それにもう、四、五年も昔の話ですわ」
そう言って話を終わらせようとしたが、アレクの方は引かなかった。
「お前と相思相愛だったと思い込んでいると聞いた」
「思い込んでいるだけです」
ここはきちんと言っておくことにした。婚約者だの恋人だのと言われ、驚いているのはヴィアの方なのである。
「だがあの男、お前からの恋文を後生大事にとっているというではないか。
私だってお前から恋文なんてもらったことはないのに、何であの男が持っているんだ……!」
「……それ、わたくしが書いたものではありませんけど」
「え?」
「雇い主であった老婦人が書き上げた力作です」
にせの手紙を渡すなんてどうなの? とヴィアも思わないでもなかったが、思い出を美化することでヘルグは立ち直り、商売も順調にいっているようなので、あれはあれで良かったのだろう。
「今日会わなければ、ずっと思い出すこともなかったと思いますわ。陛下がご心配なさるような相手ではありません」
吐息混じりに皇帝の懸念を打ち消し、それに……とヴィアは続ける。
「だいたい、求婚してきたのはあの者だけではありませんし」
だからヘルグだけが特別ではないとヴィアは言いたかっただけなのだが、それを聞いたアレクは驚愕した。
「…………誰だ」
問い返す声が一オクターブ低くなっている。
ヴィアは言ってなかったかしらと、顎に指を当てて考えた。
「峡谷で襲われた時、面倒を見てくれた兵士からも求婚されましたわね。なのでまた逃げる羽目になりましたけれども」
あいつ、許さんと、見も知らぬ兵士に向かってアレクは拳を握り締めた。
「………他には?」
「旅をしている時、懇意になった露店の青年に求婚されましたかしら。後、旅芸人の花形役者からも妻になって欲しいと言われましたわ」
もう一人、その旅一座の九つの子どもがしてきたプロポーズは、ものすごく可愛かった。
「大人になっても気が変わらなかったら、もう一度言ってね」と頭を撫でて別れたが、あの子は元気にしているだろうか。
昔を懐かしむように目元を和らげたヴィアに、アレクはむっとした。
自分の大事なヴィアに横恋慕する男は全くもって許せないし、そうした男たちを思い出してヴィアが懐かしそうに口角を上げたことも気に食わなかった。
「お前に言い寄るなど百年早い」
そう言って、攫うようにヴィアの体を腕に抱き込めば、腕の中でヴィアが困ったように笑った。
「わたくしの心は変わらず陛下の許にありましてよ」
ヴィアにしてみれば、アレクが何にそう拘るのかが理解できない。
求愛はすべて断ったし、大体がすべて過去の話だ。皇后となったヴィアがこの先彼らと会う事は二度とないだろう。
そう言えばこの方は、時々変なところで急に焼きもちを焼いてくるわねと、ヴィアはふと思い出した。
ヴィアの美しさを褒めちぎってくる臣下がいれば横から変な冷気を漂わせてくるし、他国の男性王族と話が盛り上がり、楽しそうに歓談していれば、わざわざ用を見つけてその王族に話し掛けに来る。
ついふた月ほど前に嫉妬心を剥き出しにしてきたのは、孔雀だった。
……孔雀と言うあだ名の人間とかいうオチではない。
南の国の大使から雌雄一対の孔雀を献上され、ヴィアはマイラを筆頭に五人の子どもたちを連れてアレクと見に行ったのだが、その時、雄孔雀が何を勘違いしたか、いきなりヴィアに向かってぶわあっと羽を広げたのである。
自分の美しさを誇示するようにひたすらヴィアに向かってぶるぶると羽を震わせてくる孔雀に子どもたちは大喜びし、ヴィアもなんて美しいと目を細めて見入ったが、その脇で一人むっとしていた人間がいた。
言わずと知れた皇帝である。
「おお。雌孔雀には見向きもせず、皇后陛下に求愛のダンスですか。この孔雀はなかなか目が高い」
そう追従の言葉を言ってきた大使に、「ふん」はないだろう。
大使は色を失っておろおろし始めるし、どうしたものかとセルティスの方を見れば、あの子は顔を背けて必死に笑いを堪えていた。
さて、ヴィアがそんな回想に浸っているとは露知らず、アレクはひたすら妻の関心を引くにはどうしたらいいかと一生懸命考えていた。
レタニアに来るとつい準騎士時代の自分に戻ってしまい、アモンたちと早駆けを楽しんだり、狩猟の腕を競ったりと、ヴィアそっちのけで趣味に没頭していたアレクである。
けれどヴィアが自分の妻となる前、多くの男たちから求愛されていたと知り、アレクは俄然不安を覚え始めていた。
ヴィアの心変わりなど考えられないし、考えたくもないが、ここは男としての点数を稼ぎ、ヴィアにとって自分がいかに素晴らしい夫であるかをヴィアに再認識してもらうべきだろう。
「そう言えば、馬に乗りたいと言っていたらしいな」
側近から聞いた話を振ってみれば、「ええ、まあ」とヴィアは頷いた。
お小言が始まるのかとちょっと警戒したように自分を見上げてくるヴィアに、アレクは何でもないことのように言葉を続けた。
「そんなに乗馬がしたかったとは知らなかった。一人で乗馬をさせる訳にはいかないが、私の前なら乗せてやる」
「え」
「一緒に遠乗りに出掛けよう。それでいいか?」
ヴィアはぱあっと顔を輝かせ、それを見たアレクは心の中で大きくガッツポーズを作った。
ヴィアの過去の男たちに向かって、どや!(ヴィアから教えてもらった庶民言葉)と言いたい気分である。
「よろしいのですか?」
「勿論だとも!」
離宮に来る度に夫に置いてけぼりにされていたヴィアにとっては、待ちに待った夫からのお誘いだった。
ヴィアは幸せそうにアレクの胸に顔を埋め、心の中でそっと呟いた。
乗馬ができないことにずっと劣等感を抱いてきたけれど、アレクに腰を抱かれてレタニアの草原を走れるのなら、馬に乗れないというのもそう悪いことではないのかもしれない。
翌日、美しい皇后を自分の前に乗せ、満面の笑みで遠乗りを楽しむ皇帝の姿がレタニアで見られることとなった。
馬の背で嬉しそうに笑っている姉を見て、これで二度と変な願い事はしてこないだろうとセルティスは安堵の吐息をつき、それは皇帝の側近たちも同様だった。
皇后陛下がこれ以上乗馬に拘るなら、貴族女性の乗馬は推奨しないというお触れをアンシェーゼで出そうかと、冗談混じりに話していた三人である。
それほどの懸念材料だった。
因みにこの日以降、避暑の地レタニアでは夫の馬に乗せてもらって遠乗りをするのが貴婦人たちの間でひそかなブームとなった。
馬にとってはまことに迷惑な話だった。