外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 11
ルイタスが夜会の会場に着いた時には、すでに大半の参加者が顔を揃えていた。
楽団が静かな音楽を奏でる中、ダンスを踊る中央部分を大きく開ける形で、貴族らはそれぞれの知り合いと挨拶を交わし、楽し気に開催の時を待っている。
今年の流行は、細く縛られたウエストからふわりとスカート部分が広がるペプラムドレスで、多くの未婚の姫君たちがその意匠のドレスを選んでいるようだ。
ふわりと広がったドレスの裳裾は、姫君たちが身動ぐ度に軽やかに揺れて、花のように愛らしい。
貴婦人や貴公子らが笑いさざめく中、ルイタスもまた顔見知りの重臣の姿を見つけ、にこやかに挨拶を交わした。
会話をしている最中、やや青ざめた面持ちのカインズ卿夫妻を見つけた。
そばにいる娘のエシェルはまだ何も知らされていないのか、リボンのついた華やかなドレスを身に纏い、貴公子の一人と楽しそうに歓談している。
今日ですべて片が付くと独り言ちた時、誰かの視線をふと感じた。
その方に目を向けると、前回、ヨドム卿の夜会で話を聞いたジェイスが、もの言いたげな眼差しでルイタスを見つめていた。
歓談していた相手に断りを入れ、ルイタスはジェイスの方へ歩み寄る。
先日の礼を改めて述べ、すべてがわかった事を告げると、ジェイスは大きく目を見開いた。
「グレンに一体、何が……」
すぐにでも聞き出したそうにするジェイスに、ルイタスはゆっくりと首を振った。
「今日、セディア様がすべてを話されます」
「セディア夫人が……?」
今まで一度も公の場に姿を現した事のない女性だった。ジェイスは信じられないという風に首を振った。
「この夜会への出席を、王陛下に許していただけましたので」
そう答えた後、ルイタスはその視線をカインズ卿夫妻へと向けた。
「あの両親がグレン殿に何をしたか、グレン殿もきっと貴方には知って欲しい筈だ」
こちらへ、とラダス卿に促されるままに、ジェイスはそのまま前方へと場所を移動した。
ラダス卿の後を追いながら、ジェイスはその脳裏に、最後に別れた時の屈託のない友の笑顔を思い浮かべていた。
明日も会おうと笑顔で約束して、そのままグレンは自分の前から姿を消してしまった。
あの日から、僅か十八で命を終えるまで、グレンは一体何を思い、どんな人生を歩んでいたのだろうか。
切磋琢磨しながら過ごした学生時代を切なく思い起こし、そのかけがえのない友を自分は永遠に失ったのだと、ジェイスはほろ苦い気持ちで自分にそう言い聞かせる。
渇望し続けた真実が、ようやくジェイスの前に明かされようとしていた。
ほどなく、華やかなファンファーレの音とともに王夫妻が入場された。
貴族らは惜しみない拍手で迎え入れ、その歓声の中を王は正面中央まで進み、威風堂々と夜会の開催を宣言した。
本来なら、そのまますぐにファーストダンスの演奏が始まるのだが、続いて王の口から出たのは賓客の紹介だった。
国賓としてアンシェーゼのセルティス皇弟殿下が来られている事を告げた王は、人々の視線を誘導するように、入場口の方に顔を向ける。
人々の注目が集まるのを待って、儀官はアンシェーゼのセルティス皇弟殿下の名を朗々と読み上げ、次いで一呼吸分を置いてから、その姉君に当たるセディア・カインズ夫人の名を紹介した。
会場には戸惑いとざわめきが広がった。
セディア・カインズ夫人は元皇女殿下とはいえ、シーズの貴族に嫁して寡婦となられている女性だ。しかも、今まで一度も公的な場に顔を出された事がない。
異例の待遇に皆は困惑し、もの問いたげな眼差しがカインズ卿夫妻に向けられた。
一方のカインズ卿にしても、まさかセディアがこの夜会の場に姿を現すなど、想定外であったのだろう。
悪夢を見ているような眼差しで、茫然とその場に立ち竦んでいた。
やがて、紹介された二人が姿を現すと、歓迎の拍手が会場から沸き起こった。
盛大な拍手に迎えられて、セルティスは柔らかくセディアを見つめ下ろし、セディアもまた弟皇子の眼差しを受け止めるようにふわりと微笑んだ。
今宵、セディアが身に纏うのは、レースをかけたトップスのウエスト部分から幾重にも重なったレースが広がる、薄紅色のドレスだ。
可憐さの中にも気品と奥ゆかしさが感じられ、清楚なセディアの美貌を余すところなく引き立てていた。
感嘆のため息がさざ波のように広がっていく中、ルイタスはジェイスの許をそっと離れ、お二人を守るように場所を移動した。
それを目の端で捉え、セルティスがゆっくりと口を開く。
「王陛下ならびに王后陛下、この度はこのように立派な会にお招きいただき、心より感謝申し上げます。
私の姉であるセディア殿下を、どうぞ両陛下に紹介させて下さい」
会場に響く声で堂々と挨拶を述べ、セルティスはセディアに向かって改めて手を差し出した。セディアがその手を取り、二人で両陛下の許へ赴こうとしたその時だった。
「お待ち下さい!」
カインズ卿が、場の空気を切り裂くように大きく声を張り上げた。
このままなし崩しにセディアの社交デビューを許してしまえば、カインズ家の未来は閉ざされてしまう。
カインズ卿はもう必死だった。
追い詰められた獣の眼差しで前を見据え、夫人とともに足早にセディアに近寄って行く。
その形相に気圧された貴族達が、波が引くように二人のために道を開けていった。
その中を足早に進んでいき、あと数歩で嫁のセディアに手が伸ばせるという所まで来た時、一人の貴族が進路を阻むように立ち塞がった。
アンシェーゼのラダス卿だ。
カインズ卿はルイタスを食い殺さんばかりの目で見つめ、更にその奥で守られるように立っているセディアを憎々し気に睨みつけた。
そして家長の威風を露わに、いきなりセディアを怒鳴りつけた。
「何故、お前がこんな所にいる!」
「お前?」
その言葉を鋭く聞き咎めたのは、セディアの傍らに立つセルティスだった。
「カインズ卿、言葉を慎しんでもらおう。私の姉に対して無礼極まりない」
「その者は、今は亡き当家の跡取り、グレンに嫁していた者。当主たる私が、一族の女をお前と呼んだとて、何の不都合もありません」
カインズ卿は周囲に聞こえ渡るように言い返した。
「第一その者は、亡き息子が療養していた別邸で、大人しくしているよう言い含めてあった者です。
家長である私の命に背いて、このような場にわざわざ姿を現すなど、許される事ではない」
と、対立する二人を仲裁するかのように口をはさんだのは、シーズの王妃だった。
「セディア様の夜会出席は、アンシェーゼの皇弟殿下が望まれ、陛下が許可されたものです。それに異を唱えるつもりですか?」
そして、やや厳しい語調で言葉をつづけた。
「……それに、別邸で大人しくしているようにとは、どういう意味でしょう。
寡婦となった者は、王宮から離れた別邸に隔離して外に出さぬようする事が、カインズ家の家風と言われますか?」
自国の王妃に問い質され、カインズ卿は思わず黙り込んだ。それを見て、カインズ夫人がとり繕うように言葉をさしはさむ。
「王妃様、そうではありませんの。
お恥ずかしい話ですが、この者は礼儀を弁えぬ故、当家の恥とならぬよう、遠ざけておかねばならなかったのです」
「妻の申す通りです」
カインズ卿も慌てて言葉を足した。
「まだ、社交デビューも済まぬ頃より、療養中のグレンと共に別邸に籠っておりました故、まともな淑女教育ができておらぬのです」
一方的にセディア皇女を貶める発言に、王妃は眉宇を顰めて押し黙った。
その様子を、王妃が納得したのだと受け取ったカインズ卿は、いかにも呆れ返ったような眼差しで、セディアの方に向き直った。
「さあ、セディア。人の注目を十分に浴びて、もう気が済んだだろう。別邸に帰りなさい」
口調だけは優しく、そのまま強引に外に引きずり出そうと伸ばされた手を、ルイタスは不快そうに掴み上げた。
「我が国の皇女殿下に触れるのは、止めていただこう」
「もう、皇女ではない! 亡きグレンの妻だった女だ。当家に属する者だ!」
掴まれた手を払い、顔を真っ赤にしてカインズ卿が叫ぶのへ、ルイタスは冷笑を浮かべて静かに言い返した。
「グレン殿の妻?
セディア殿下の周囲を嘘で塗り固めておきながら、まだそのような世迷い事を言われるか」
「何を言う! 世迷い事を言っているのはそちらだろう!」
どうあっても、行きつくところまで行かねば、このカインズ卿は気が済まぬものらしい。
セルティスはため息をつき、もう潮時だろうとシーズの王陛下の顔を振り仰いだ。
そして静かな声音で王に奏上する。
「親愛なる国王陛下並びに、王后陛下。
アンシェーゼの皇弟セルティスは、この場で姉、セディア皇女殿下の婚姻無効を訴えます」
居並ぶ招待客は大きくどよめいた。
カインズ家と言えば、王族の姫を妻に迎え入れるほどの名門だ。そのカインズ家に突如として降りかかった醜聞に、貴族らは否が応にも色めき立った。
興奮とざわめきが会場を覆い尽くす中、王は淡々とセルティスに続きを促した。
「婚姻無効と言われるか。ならば、その根拠を述べていただきたい」
セルティスは頷き、静かに口を開いた。
「カインズ家のグレン殿とセディア皇女との婚姻は、皇女が十五になるのを待って正式に確定するものでした。
そして婚姻の土台となる条件は、グレン殿がカインズ家の跡継ぎである事です。
我々は、セディア皇女が十二歳の時、グレン殿が療養と称されてウズクの別邸に出された時点で、すでに婚姻の条件を失っていたと考えています」
カインズ卿は強張った顔に何とか笑みらしきものを浮かべ、反論した。
「グレンは療養のため、別邸に移っただけです。結果的に、病状は良くならずに十九で身罷りましたが、亡くなるまで二人は夫婦として仲良く暮らしていました。
今更、婚姻無効などと申されましても……」
「グレン殿の場合、その療養の過程がひどく不可解なのですよ」
セルティスは、白皙の面に冷ややかな笑みを浮かべた。
「それまでのグレン殿は、王都中心部に友人も多く、活発に交流を持たれていた。ところがある日を境に、急に連絡が取れなくなっているのです。
会うことは勿論、直筆の手紙もすら途絶え、その後、貴族としての付き合いを一切なされなくなりました。
家の名を継ぐ者として、これは異常な状況であったと言わざるを得ないでしょう。
継嗣としての役割を果たせない状態にあった、そう理解するのが自然なのではありませんか?」
「そう言われましても、しばらく静養したいと望んだのは、当のグレンですし……」
カインズ卿はいかにも困ったように顎の辺りを撫で上げた。
「グレンの場合、たちの悪い風邪をこじらせましてな。元々、外で動くのが好きな方でしたので、本人もふさぎ込むようになり、それで環境の良いウズクへ……」
そのままつらつらと嘘を重ねていくカインズ卿の言葉を、怒りに満ちた女性の声が遮った。
「風邪をこじらせた?
両陛下の前でそのように恐ろしい嘘を吐かれるなど、貴方は本当に陛下の忠実な臣下でいらっしゃるの!」
その澄んだ声は思う以上に響き渡り、固唾を呑んで様子を窺っていた貴族らは、驚いたようにセディアの方へ目を向けた。
自分に寄せられた大勢の視線に竦むことなく、セディアは真っ直ぐに頭を上げ、尚もカインズ卿の罪を暴いていく。
「グレンは、十四の年に落馬して、脊髄に損傷を負ったのです!首から下が動かなくなり、その後はずっと寝たきりでした。
そのグレンを支えるどころか、貴方がたはそのままグレンを見捨て、僅かな使用人と共に、騙すようにウズクへと追いやって……」
「陛下!」
カインズ卿が、セディアの言葉に被せるように大きく声を張り上げた。
「この者は、このようによく作り話をするのです。いくら諫めても、この性根は直らず、ですので別邸に幽閉するしかなく……」
思いもつかぬ言葉で貶められて、セディアは色を失った。そのセディアを庇うように、セルティスは軽く肩に手を添えた。
「……セディア姉上が作り話をしたと言われるか」
セルティスは不快そうにカインズ卿を見つめた。
「寝たきりとなった息子の看病を三年半もさせておいて、よくもそのような口が利けるものだ。
人前に出したくないのは、余計な事を姉に喋られては困るからだと、いっそ素直に認められてはどうか」
カッとなって言い返そうとしたカインズ卿を遮るように、王がすっと片手を上げた。
「もうよい。止めよ」
これ以上の嘘は聞き苦しかった。黙って耳を傾けているのも限界がある。
「カインズ卿、および夫人に問う。
グレンが別邸に移された時、継嗣としての役割が果たせない状態にあったのなら、そもそもこの婚姻は成立していない。
国を騙した罪は計り知れないが、今ここで罪を認めて謝罪するならば、私からも寛容な処分をアンシェーゼに願い出よう」
王はカインズ卿の目をひたと見据え、続いて従妹であるリリーシア夫人にゆっくりと視線を移した。
「今一度よく考え、王たる私の問いに、誠実に答えよ。
グレンが落馬して、首から下が動かなくなったというような事はなかったと、お前達は神に誓って、我が前で言い切るか?」
それは幼馴染の従妹姫に対する王の最後の恩情だったが、夫妻はそれに気付けなかった。
自分達が証言すれば額面通りに王が信じ、それが事実として認定されるのだと、かえって思い込んでしまったからだ。
「勿論でございます、王陛下。落馬で寝たきりになったなど、事実無根の話にございます」
王を謀る躊躇いなど微塵も見せず、カインズ卿は平然と言い切った。
「……夫人もそう誓えるか」
王の問いに、リリーシアもまた甘やかな笑みすら浮かべて断言した。
「夫の申す通りにございます」
王は表情は変えぬままに、ただ瞳だけを床に落とした。隣にいた王妃が、気遣うように夫君の手をそっと握りしめた。
「……では、証人をこの場に呼んでよろしいでしょうか」
セルティスの言葉に王は頷き、ルイタスは司祭を呼んでくるために静かに会場を出て行った。
その姿をゆっくりと見送り、セルティスは改めてカインズ卿夫妻に向き直る。
「あなた方は、何か勘違いをしておられる」
セルティスは片頬を歪めるようにうっそりと笑った。
「姉一人の証言だけで、私がこのような騒ぎを他国の宮廷で起こしたと?
寝たきりとなっていたグレン殿の病室を訪れた者がいればこそ、断罪に踏み切ったとお分かりにならないのか」
まさか、と二人は見る間に青ざめ、カインズ卿は思わず吠えるように反論していた。
「でっちあげだ!
証人などいる筈もない!どうせ、金を撒いて仕立て上げた偽者だろう!」
「何をもってそう言われる。療養していた者のところに見舞い客が来るのは、ごく当たり前の事だ」
「グレンの病室に入った者がいる筈がないんだ!」
ここは引けぬとばかりに、カインズ卿は激しく言い募った。
「絶対に部屋へは通すなと私はきつく命じていた。そのような者がいる訳はない!」
会場は大きくざわめいた。療養していた嫡男を故意に孤立させていたと、カインズ卿自らが認めたからだ。
その反応を静かに眺めやり、セルティスは薄く笑った。
「貴方のおっしゃる通りだ。
貴方は友がグレン殿の枕辺を訪れる事さえ許さず、友が書いた手紙も握り潰していた」
セルティスは、唇を噛みしめて立ち尽くすセディアの方をそっと見た。
「グレン殿はずっと狭い病室に一人きりだった。
……姉上は不思議がっておられましたよ。グレン殿には親しい友がいた筈なのに、なぜ見舞いにも来てくれないのかと」
「そんな……!」
思わず声を上げたのは、前方でそのやり取りを見つめていたジェイスだった。
「私は何度もグレンを見舞いに訪れていました。
その度に、グレンが会いたくないと言っていると断られました。最後には、グレンが嫌がっているのに迷惑だと、カインズ夫人に釘を刺され……」
非難の眼差しが夫人に集中し、カインズ卿はついにブチ切れた。
「息子への面会を許すか許さないかは、家長が決める事だ!
それについて、他人にとやかく言われる筋合いはない!」
声を荒らげるカインズ卿を、セルティスは感情の籠らない目で見た。
「貴方はよほど、グレン殿を人目に触れさせたくなかったようですね」
二人の視線が交わり、セルティスは面白がるように口角を上げた。
「使用人達は貴方の言いつけを守り、シーズの貴族は誰一人として病室に通す事はありませんでした」
「では、証人がいると言われたのは、作り話と認められるのだな」
鼻息荒くそう言ってくるカインズ卿に、セルティスはまさか、と笑った。
「ちゃんとおりますよ。……ああ、ちょうど、到着したようですね」
貴族らはざわめき、セルティスの視線の先を追いかけた。そこには、ルイタスに案内されてやってきた、一人の司祭の姿があった。
「誰も通すなと貴方が命じ、使用人はそれに従った。けれど、彼らはグレン殿の苦しみに無関心でいる事もできなかったのですよ。
果てのない絶望の中で、神に救いを求めたグレン殿のために、一人の使用人が罪を承知で、司祭を部屋に招き入れた」
「嘘だ……」
脂汗をだらだらと流し、尚も往生際悪く、カインズ卿は否定しようとした。
カインズ卿には構わず、セルティスは司祭を王の御前に連れて行った。
「ローマン司祭です」
王はカインズ卿夫妻にちらりと目をやり、「知っている事を、話すように」と低く命じた。
ローマンは王に深々と一礼し、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「八年前の事にございます。ウズクに赴任中、ある貴族の使用人から、主が告解を望んでいるので来てもらえないかと話がありました。
本当は客を通す事は許されていないのだと使用人は大層怯えており、私は夜の闇に紛れるようにこっそりとその館を訪ねました。
そしてそこで私を待っておりましたのが、グレン・カインズと名乗る一人の青年でございました」
「陛下! その者は嘘をついているのです! グレンが告解したなどあり得ません!」
悲鳴のようにカインズ夫人が言葉をさしはさむのへ、「黙れ!」と王は一喝した。
「神に仕える司祭の発言を邪魔する事は許さぬ!」
夫人はよろめいて夫の体に取り縋り、カインズ卿はどす黒い顔で司祭をひたすら睨みつけた。
「十五歳の時の事故だとグレン殿は言われました。落馬して首から下がまるで動かせなくなり、以来こうして寝たきりなのだと。
どれほどにおつらく、苦しかったか、私には想像する事もできません。
世の中を恨み、運命を呪い、家族を憎み、腹を食い破るような怒りと絶望に今も塗れているのだと、あの方はおっしゃいました。
あの方の救いは、妻であったセディア夫人だけでした。
八つで嫁いで、十二で不具者の妻となった。本当に可哀そうな事をしている。それにも増して申し訳ないのが、本来なら私に縛り付けられる人間ではないという事だと。
グレン殿は、涙ながらに懺悔しておりました。
皇女はカインズ家の跡取りの許に嫁いだのであって、このような体になった自分が家を継げない事は、子どもにでもわかる。
婚姻は不成立で、本来なら母国に戻してやらなければならないのだと。
けれどどうしてもできないと、グレン殿はおっしゃいました。
グレン殿にとってセディア様はたった一人の家族でした。
生きる目的を与え、日々の喜びを教えてくれるセディアが傍にいればこそ、自分は生きていける。だから手放す事には耐えられないと、そう罪を告解されたのです。
以上が、私が知り得た事実のすべてでございます」
場はしんと静まり返り、冷ややかな視線がカインズ卿夫妻に注がれた。
「さて、これに対し、そなた達は何か申し開きはあるか」
王の言葉に二人は震え上がった。やがて、夫人が縋るように面を上げ、一心に王を仰いで言葉を絞り出した。
「お、恐れながら、あれはグレンを守るためにございます。
グレンも承知のように、跡継ぎには不適格と公になれば、あの場でセディアと引き裂かれておりました。
ですから二人を別邸にやったのです」
王の代わりに口を開いたのはセルティスだった。
「ほう。グレン殿のためにあの事故を隠し、セディア殿下をウズクに縛り付けたと」
全く信じていない口調で、セルティスはそう繰り返した。
「ひとまずはその言い分を信じるとして、この偽装で不利益を被った相手がいる事を、貴方がたは当然ご存じの筈だな」
「確かにセディアには……」
セディア、と呼び捨てにした途端、セルティスから不快そうに睨まれて、口を挟んだカインズ卿は慌てて言い直した。
「いえ、セディア殿下には不満があるかもしれませんが」
「カインズ卿」
セルティスは呆れたようにカインズ卿を見た。
「白藍の関税撤廃で、あれほどの利益を上げられた貴方が気付いておられれぬとでも?」
カインズ卿はぎょっとしたようにセルティスを見た。
「皇女の婚儀には、一時的な白藍の関税撤廃という項目が付帯されていた。セディア皇女存命に限り、と文書にもきちんと記されている。
十年前、婚姻が白紙になっていれば、白藍の関税撤廃もその時点で白紙に戻される筈だった。
カインズ卿。貴方のした事は、アンシェーゼに対する卑劣な詐欺行為だ。いずれ、損失部分に対する賠償はしていただくが、その前にはっきり伝えておく」
セルティスは言葉を切り、真っ直ぐにカインズ卿を見た。
「アンシェーゼの皇帝陛下は、不快を覚えられている。
カインズ卿、並びに一族に連なる者のアンシェーゼ入国を、今後禁じるとの仰せだ」
どよめきが広がり、カインズ卿や子ども達の傍にいた者が、関わりを恐れるように一歩身を引いた。
「お待ち下さいませ!」
声を張り上げたのは、カインズ卿夫人だった。何とか取り繕おうと夫人は必死だった。
「アンシェーゼに不利益をもたらせたのは事実かもしれません。けれど、息子を守りたい一心で、ついしてしまった事です。
現にセディアのおかげでグレンは幸せだったと、その司祭も言っていたではありませんか!」
王は苦々しく夫人に目をやった。
「では何故、グレンが亡くなった時点で事を公にしなかった。
皇女殿下は五年間、寝たきりだった夫を支え、看病し続けたのだぞ。
そなたや子どもたちが着飾って社交を楽しんでいる間、同じ年ごろのセディア皇女は、そなたの息子のために献身していた。
済まないという気持ちが少しでもあるのなら、葬儀の時点ですべてを明らかにし、カインズの名からセディア皇女を解いてやる事もできた筈だ!」
王に叱られたカインズ夫人は、同情を誘うように弱々しく涙ぐんだ。
「今更、どうしてそのような事ができるでしょう。
わたくしはグレンも大事でしたが、他にも子どもがいるのです。その子どもを守ろうとしたわたくしを責められるのですか?」
その言葉にセルティスは失笑した。
「……グレン殿が大事だったと言われたか?
グレン殿が大事だから、ウズクの別邸にやったとでも?」
「当たり前ではありませんか! わたくしはグレンの母です! 子を思う母の気持ちなど、貴方には決してお分かりにならない!」
「では何故、本邸からグレン殿を出した?」
セルティスは唸るように問い掛けた。
「別邸に追いやり、ただの一度も、父親も母親も弟も妹も、誰一人としてグレン殿を見舞う事がなかったのは何故だ!
誰一人訪れぬ別邸で、グレン殿がどれほど孤独であったか、貴方には分からないか!
それが、子を思う母の仕打ちか!」
腹に響くような怒声を浴びせられ、カインズ夫人はついに黙り込んだ。
だが、心から反省した訳ではなく、自分達に恥をかかせる要因を作ったセディアを、苛烈な眼差しで睨みつけた。
その視線を正面から受けて、セディアは一歩、前に進み出た。三年半に及ぶグレンの苦しみと無念を、セディアは今こそ伝えるべきだと思った。
「事故に遭った時、グレンはまだ十五の子どもでした。
不自由な体になり、未来を失い、親の支えを誰よりも必要としておりました」
グレンの心中を思い、セディアの瞳から涙が溢れ出た。
「何故、見舞って下さらなかったのです!
どうして一度でも、顔を見せ、抱きしめてやって下さらなかったのです! 文の一つさえ、グレンには届けられなかった!
どれ程グレンが貴方がたを憎み、恨んでおられたか、お分かりになりませんか!」
その存在を見下し、人生を踏み躙っていた相手から糾弾され、夫人はついに怒りを爆発させた。
「あの子が悪いのです!」
カインズ夫人は金切り声で叫び返した。
「馬から落ちて、勝手にあんな怪我を負って!
カインズ家の跡取りとして何不自由なく育ててやったのに、親の期待を裏切って、あんなみっともない姿になり果てて……!
挙句に、一月近くつきっきりで看病してやった私に、声を荒らげたり、罵声を浴びせたり……。本当に手の付けられない子だった。
あんな性根が曲がったような子を見たくないと思って、何が悪いのです!」
あまりに自分本位な夫人の発言に、周囲の貴族は息を呑んだ。
場が凍り付く中、王の怒声が会場に響いた。
「聞き苦しい! 黙れ!」
王は苛立ちを隠しきれずに拳を握り込んだ。
「十五歳の子がいきなり寝たきりになれば、周囲に当たり散らしても当たり前だろう。
それを受け止めてやるのが親ではないか!そなた達は一体、何をしている……」
そしてもう、カインズ卿夫妻の事は見ようともずに言った。
「もう、下がれ。
アンシェーゼの皇女を謀った上、不当に貶めた件に対しては、追って沙汰をする」
喚き始めた二人を衛兵たちが力づくで連れ出していくのを、貴族達は軽侮の目で見送った。
セフェイム・カインズやその妻、そして妹のエシェル・カインズもまた、いたたまれなくなったように場から姿を消していく。
弟にそっと肩を抱かれたまま、セディアは肩で大きく息をついていた。
公衆の面前で、グレンの事をあんな風に貶められた事が耐え難かった。若くして無念の死を遂げたグレンに、彼らはあんな言葉しか掛けられないのだ。
その姿をいたわるように眺め下ろし、やがてセルティスがゆっくりと口を開いた。
「陛下。
グレン殿は肺炎でお亡くなりになったそうですが、亡くなる三日前、姉に感謝の言葉を残していったそうです。
ありがとう、と。
それが最後のお言葉でした」
ざわめきの静まった大広間に、その言葉が染みわたっていくのを待って、セルティスは再び口を開いた。
「あれほどの困難に見舞われ、苦しみ抜いた末のご最期でしたのに、最後まで他者を気遣う優しさと強さをあの方はお持ちでした。
僅か十九で亡くなられましたが、真の貴族と呼ぶに足る立派な方であったと、私はそう思っております。
私はグレン殿に、心からの敬意を捧げます」
その言葉に、ジェイスが堪えきれなくなったように口を押え、嗚咽を漏らした。
傍らに立つ貴族がそのジェイスを気遣うように眺めやり、ゆっくりと拍手を始める。
その周囲にいた人間もぱらぱらと拍手を始め、やがてその輪は広間全体に広がって、場を揺るがすほどの大きな拍手となった。
若くして亡くなったグレン・カインズを称える、手向けの拍手だった。