外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 9
その日、シーズの離宮の貴賓の間には、セルティス殿下の到着と共に、大量の荷物が運び込まれた。
その荷物の半分以上を占めるのは、女性用の衣類や小物である。
皇妹殿下の夜会用にと、意匠の異なるドレスが三着用意されており、セディアの到着を待ってすぐに衣装合わせが行われる予定だった。
ドレスは、前もって侍女のウィリアから知らされた寸法で仕立てられていたが、もし若干の手直しが必要ならば、一緒に連れてきたお針子が補正していく手筈となっている。
ドレスや靴、礼服などが次々と箱から取り出され、手際よくクローゼットに片づけられていく中、セルティスは王との拝謁のために慌ただしく謁見の間へと向かい、ルイタスは離宮の居間で、一人無聊を託っていた。
常ならば、アンシェーゼが買い上げている邸宅に寝泊まりするルイタスだが、今回はセルティス殿下と一緒の訪国である。
皇族に付き従う貴族として、離宮の中の一室を割り当てられていた。
今頃は、フェンが一足先にウズクの別邸を訪れ、ドレス一式の入った箱をセディア様にお渡ししている筈だった。
セディア様が持っておられるドレスは普段着用のものが多く、デザインも地味なため、そのままお連れすると、王宮内で悪目立ちしてしまう。
そのため、夜会用のドレスとは別に、宮殿内を歩けるようなドレスも数着用意されていた。
今頃は、届けられたドレスの身支度で慌ただしくされている事だろう。
じりじりしながら時を過ごしていると、王から許可証をいただいたセルティス殿下がようやく引き上げて来て、二人はそのまま連れ立ってウズクへと向かう事になった。
カインズ卿が何かを嗅ぎつけて横槍を入れてくる前に、取り急ぎセディア様を離宮に保護しなければならない。
騎乗した騎士の隊列に前後を警護され、馬車はゆっくりと街中を走っていく。
皇紋付きの広々とした馬車の中でルイタスと向かい合わせに座るセルティスは、城門をくぐった辺りから無口になり、窓から通り過ぎる景色に夢中で見入っていた。
ガランティアやペルジェへは外遊で行った事があるのだが、シーズはセルティスにとって初めての国だ。
目に映る全てのものが新鮮に見えるのだろう。
「さすが信仰の国だな。教会の数がアンシェーゼとは桁違いだ」
やがて田舎道に差し掛かってきた頃、ようやく外の景色にも見飽きたか、セルティスがそんな風に話しかけてきた。
「教会は幼年学校も兼ねていますから、人の多いところはその分、教会の数も多いようです」
そう説明した後、ルイタスはふと思い出して、そう言えば……と言葉を続けた。
「ローマン司祭は、五日前に王都に着いたそうですね。今は、王城内にある聖堂で寝泊まりしていると聞きました」
アンシェーゼの一行に混ざって訪国すると目立つため、ローマン司祭は巡礼の形をとってシーズに入国し、王城に迎え入れられていた。
「昨日、王夫妻がローマン司祭を私室に呼び、直々に話を聞かれたそうだ。
王にとって亡きグレン殿は従甥(従兄妹の子ども)だ。寝たきりで闘病していた様子をお聞きになり、やりきれない事だとおっしゃっていた。
セディア皇女に対して行われた非道に対しても、先ほど頭を下げられた」
「そうですか」
ルイタスは頷き、小さな苦笑を口元に刷いた。
公の場で、王が他国の皇弟に頭を下げる訳にはいかない。だからこそ、二人きりの場で謝罪をしてこられたのだろう。
「カインズ卿については何か言われましたか?」
「……以前とお考えは変わっていない。とり返しのつかない罪を犯したが、せめて自分の口から罪を告白して欲しいそうだ。
カインズ卿夫人は、王にとっては幼馴染みでもあるらしい。
グレンに対して行った事は許しがたいが、心から悔いてセディア殿下にも頭を下げるなら、温情ある措置をとってやりたいと言われていた」
「王のお心が通じるような御仁には見えませんがね」
ルイタスは柔らかな吐息を零した。
「それが王陛下のお望みなら、そのように進めていくしかありませんが」
本来なら、セディア様は十二歳の時、アンシェーゼに戻されていた筈だった。
最も多感で、女性として花開くかけがえのない時を、セディア様は否応もなく奪われた。あの者達が心から悔いて頭を下げたとしても、失われた十年が戻る事はない。
「いよいよ明日ですね。
早く本来のご身分に戻して差し上げたいものです」
約されたセディア様の未来を思い、ルイタスの声音に僅かな笑みが宿る。
それを聞いたセルティスはと言えば、「そうだな」と言いつつも、ややぐったりとした様子で背もたれに深く身を預けた。
異母姉が身分を取り戻す事が嫌なのではない。改めて言葉にされた事で、責任をひしひしと痛感してしまったからだ。
自由に動ける成人皇族は貴方だけだからよろしくね、と否応もなくヴィア姉上に丸投げされたが、この件は結構、大立ち回りが必要である。
まあ、弁は立つ方だし、国内では兄にとって邪魔な貴族を失脚させた経験もあるから、多分何とかなると思うのだが、シーズでの初めての外交デビューがこんな大仕事? と内心思わないでもない。
おまけに、ルイタス・ラダスは知らないのだろうが、姉からはもう一つ別の件も秘かに頼まれていて、実はそっちの方がセルティスには頭が痛かった。
そっちは姉の得意分野であって、自分には不向きな案件なのだ。
どうなんだろ、うまくいくのかなと、頭を捻っていると、
「ああ、もうすぐです」
と、嬉しそうにルイタスが言ってきた。
いかにも人当たりの良さそうな、けれど決して隙を見せる事のない皇帝の側近が、こんな無防備な笑顔を自分に見せるのは初めてかもしれない。
ま、とりあえず、様子を見るか……と他人事のように心の中で呟くセルティスである。
一方、皇弟殿下を迎え入れる別邸では、セディア以下使用人が総出で、その到着を待ち侘びていた。
どの使用人の顔にも緊張が見え隠れし、セディアもまた、今まで見た事がないような華やかなドレスに身を包み、波打つ感情を押し隠すように白い面を伏せていた。
やがて先導の騎馬らしき姿が木立の向こうに現れると、だんだんとその集団が近付いてきて、玄関前にひときわ立派な皇紋入りの六頭立て馬車がゆっくりと停止した。
従者が恭しく扉を開け、すぐに足台を用意する。
差し出された従者の手に摑まるように下りてきたのは、いかにも皇子様といった感じの、秀麗な面立ちの美青年だった。
「セディア姉上?」
開口一番、その青年に問い掛けられて、セディアは思わず両手を握り合わせた。
不安そうに青年の顔を仰ぎ、自分を見つめるその眼差しに親し気な笑みが浮かんでいる事を認めて、セディアはようやく肩の力を抜く。
「はい」
同じ父を持つとはいえ、庶出の自分と皇位継承権を持つこの弟皇子とでは身分にかなりの差がある。姉として認めてもらえるものか、セディアは不安で堪らなかったのだ。
「セルティス・レイ殿下ですね」
精一杯の笑みを浮かべてそう言うと、
「弟なので、セルティスでいいですよ」と楽しそうに返されてしまった。
気持ちはとてもありがたかったが、今のセディアはいっぱいいっぱいで、とてもそんな風に呼べそうにない。
どう答えようかと迷っていると、セルティスの後ろから、切ないほど懐かしい声が掛けられた。
「初対面なのに、いきなり呼び捨ては難しいでしょう」
「ルイタス様……!」
その姿を見つけ、セディアの顔に思わず笑みが宿る。
緊張に縮こまっていた心がふわりと軽くなり、こみ上げてきた安堵と嬉しさに胸の奥が熱くなった。
「セディア様、お久しぶりです。随分長い間、お待たせ致しました」
ゆっくりと歩み寄ってくるルイタスの精悍な姿から、セディアは目が離せなかった。
たった二度会っただけの男性なのに、これほどにこの方を頼りにしていたのかと、自分でも驚くほどだ。
皇子の隣を臆する事なく歩いてきた青年は、気遣うようにセディアを見つめ下ろした。
「時間がかかり、不安ではありませんでしたか?」
問われたセディアは、いいえと小さく首を振った。
「何度も文をいただきましたもの。
必ず来て下さると分かっていましたから、全く辛い事はありませんでした」
届けられる文がただ待ち遠しくて、そわそわと毎日を送っていた。
不安など覚える間もなかった。あっという間に、日々が過ぎた気がする。
一方、すっかり影の薄くなってしまったセルティスは、言葉を交わす二人を近くで眺めながら、この空気には何だか覚えがあるぞと、一人心に呟いていた。
これはまさしく、異母兄と異父姉の間にうっかり一人混ざっちゃった時の、非常にいたたまれない、体が痒くなるようなアレである。
まさか、シーズに来てまで同じ思いをさせられるとは思ってもいなかったが、ここまでわかりやすい態度を取られると、ある意味、セルティスにはありがたかった。
何事にもそつのない、完璧な貴公子であるラダス卿の弱みを、期せずして握った気分である。
「ラダス卿、そろそろ出かけないか?」
取りあえず時間がないのでそう声を掛けると、「あ、はい」と、夢から覚めたようにルイタスがこちらの方を向いてきた。
上気した頬を隠すようにセディア姉上が俯くのを横目で見て、セルティスは不満そうに鼻の上に皺を寄せた。
弟の存在が完全に忘れられている。
「ラダス卿のせいで、感動的な姉弟の初顔合わせを台無しにされた気がする」
近付いてきたルイタスに小声で文句を言うと、
「お互いもう大人なんですし、感動的な顔合わせなんて、初めから無理だったんじゃないですか」
と、いかにも呆れたように返された。
セディア姉上のように恥じらう様子もなく、大人びた余裕が妙に憎らしい。
このラダス卿、いかにも洗練された立ち居振る舞いが呼吸する如く身についていて、慌てふためいたところとか、焦ってしどろもどろになったところとか、セルティスは一度も見た事がない。
無論、見せかけだけの男ではなく、政変の際、セゾン卿が配下を連れてアレク兄上を殺そうとした時は、主を守るために僅かな手勢で剣を切り結ぼうとしていた。
それだけの忠誠心と漢気のある側近で、兄のみならず、姉上の信頼も厚い。
だからセルティスは、一度くらいラダス卿に一泡吹かせたいというか、ぎゃふんと言わせたいというか……、まあ、そんな野望をつい抱くようになってしまったのである。
セルティス十八歳。
自他ともに認める姉上至上主義者であり、初恋は五歳で相手は姉上。おねしょを見られて、半年後に失恋。
そして今、非常に遅い反抗期を迎えていた。しかも何の関係もない相手に対して。
でもまあ、何の関係もない、という事はないのかもしれない。
十二歳でアントーレに迎え入れられて以来、アレク兄上はセルティスの憧れで、その次に身近な年長者と言えば、兄の三人の側近だった。
そしてその三人の中で、大好きな姉上の次に、皇帝である兄上を上手に掌で転がしそうなのが、このラダス卿なのである。
さて、ルイタスに絡むのは止めて、セルティスは表情を改めてセディアの方を見た。
「姉上、ラダス卿の秘書官から、大体の話は聞かれていると思います。
このままシーズの王宮へ向かいますがよろしいですか」
「はい」
小さく頷き、迷いなく自分の方へ歩いて来ようとするセディアを見て、セルティスはふと眉根を寄せた。
姉がまだ、状況をよく理解できていないという事に気付いたからだ。
「姉上。これから姉上をシーズの王宮に迎え入れ、明日の夜会でカインズ卿の罪を暴いていく事になります。
罪が公になれば、姉上は本来の身分を取り戻され、カインズ家とは縁が切れます。
つまり、もう二度とこちらの別邸には帰れません」
セルティスの言葉に、セディアは大きく目を見開いた。
後ろに控えていた使用人達の間にも、静かなざわめきが広がっていく。
「別れを惜しみたい者がいるなら、今、なさって下さい。
あまり……時間はありませんが」
セディアはやや顔を固くして一つ頷くと、そのまま使用人達の方へ向かった。
セルティスが見守る中、セディアは使用人一人ひとりの名前を呼びながらその手をとった。そして、別れの言葉を深い感謝と共に落としていく。
涙ながらに別れを惜しむセディアの姿に堪え切れなくなったのか、侍女の一人が太い腕でセディアを優しく抱きしめた。
「マルク」
いくぶん辛そうにその様子を眺めていたマルクを、ルイタスが呼ぶ。
「何でしょうか」
「私達が出立したらすぐに、カインズ卿に報告に行くといい。前触れもなく、アンシェーゼの皇弟がセディア様を訪れ、王の許可を盾に連れ出したと。
王命であれば、お前が咎めだてされる事もないだろう」
マルクは一瞬、息を呑んだ。
「……わかりました」
緊張の滲む声でそう答えた後、マルクは一拍おいて、ラダス様、と声を掛けてきた。
「先程フェン殿から話は伺いました。
告解を望んだ若君のために、司祭を手引きした者が屋敷の中にいたと」
思わず眉宇を寄せたルイタスに、マルクは慌てて言った。
「知らされたのは私だけです。
それが誰なのかは知りません。
けれど私は、その責を負うべきなのは私だと思っております。
もし、名を明らかにしなければならない場面があれば、私の名を使って下さって結構です」
ルイタスは僅かに瞳を眇めた。
「こちらは勿論、助かるが。
だが、お前は本当にそれで良いのか?」
「一連の事が全て済みましたら、私はアンシェーゼに行こうと思っております。
この国を離れましたら、後々のだんな様の報復を恐れる必要もありません。
ですから、私が罪を被るのが一番良いのではと」
「アンシェーゼに縁故はいるのか?」
何気なくそう尋ねかけると、マルクは少し驚いた顔をした。
「ウィリアの事、まだお聞きになっていないのですね?」
「ウィリア?」
確か、セディア様と一番仲の良い侍女で、マルクの娘だったか?
訳が分からず、名前を繰り返したルイタスに、マルクが思わぬ爆弾発言をした。
「ウィリアがフェン殿と結婚する事になりまして」
「フェン!?」
ルイタスはぶっとんだ。
慌てて近くにいたフェンを呼ぶと、フェンは得意げに報告してきた。
「先程、プロポーズしました。文を交わすうちに、もうこの女性しかいないと……」
「………」
……どうやら、ちゃっかり主の文に、自分の恋文を紛れ込ませていたらしい。道理でルイタスが度々文を頼んでも、文句一つ言わなかった筈だ。
脱力して天を仰いだルイタスに、フェンは訝し気に質問した。
「主に一々、恋の進展をご報告しなくても良いかと思ったのですが、した方が良かったですか」
「……しなくていい」
されても困る。別に聞きたいとも思わないし……。
ついでのことのように、フェンは付け足した。
「ウィリアは一人娘ですので、父親のマルク殿も一緒にアンシェーゼに来てもらおうと思っています」
「いいんじゃないか」
これについて、ルイタスに異論はない。
フェンにはいずれ、家令の仕事もさせるつもりだった。マルクには経験も知識もあるようだから、補佐してもらうのにちょうどいいだろう。
セディアが最後にマルクのところに別れにやって来たのを機に、ルイタスはフェンの腕を引いて傍を離れた。
「フェン。一連の事が片付けば、カインズ家は困窮する。
今、ここにいる者達も全員解雇だろう」
ルイタスは、玄関口に固まり、服の袖で涙を拭っている使用人達の方を見た。つられたように、フェンがそちらに目をやる。
「紹介状が必要なら、伝手はある。気を配ってやってくれ」
この十年間、まるで本当の家族のように幼いセディアを可愛がり、守り、仕えてくれた使用人達だ。
彼らが自分のせいで不幸になるような事があれば、セディア様は悲しまれるだろう。
「承知しました」
フェンは頷いた。
「セディア様の私物をまとめるという名目で、しばらくこちらに滞在する事にします。
警護の騎士も数名いただけますか」
ルイタスは笑って頷いた。
「好きに使え」
やがて、別れを済ませたセディアが戻ってくると、セルティスはいたわるようにその肩に手を添え、三人は馬車に乗り込んだ。
使用人達が食い入るように見つめる中、御者の掛け声とともに、馬車はゆっくりと進み始める。
セディアを乗せた馬車がだんだんと遠ざかっていくのを、使用人達は言葉もなくじっと見送った。
やがて最後尾の騎馬の姿も木立の中に消え、静寂が辺りを覆う頃、仕える主を失った使用人たちは重い足取りで一人、また一人と館の中に入っていった。